第二話 迷人と呼ばれた男
迷人。
その言葉を聞いても、荒木健には意味が分からなかった。
「……まれびと?」
「はい」
銀髪の少女――セレネ・アルシェリアは、当然のように頷いた。
「異なる世界から、この世界へ訪れた者をそう呼びます」
「いや、それは分かるんだけど」
健は頭を掻いた。
「俺、今さっきまで日本にいたんだけど」
「ニホン?」
「……国の名前」
「聞いたことがありません」
「だよなぁ」
健はため息をついた。
改めて周囲を見渡す。
巨大な木々。
二つの月。
見たこともない植物。
そして先ほど襲ってきた、明らかに現実では存在しない動物。
夢だと思いたかった。
だが、頬をつねっても痛い。
「……夢じゃないのか」
「夢?」
「いや、こっちの話」
健は苦笑した。
すると、足元から小さな声が聞こえた。
「みゃ」
「……ん?」
健が振り向く。
そこにいたのは、一匹の小さな生き物だった。
一見すると子猫にしか見えない。
白銀の毛。
丸い身体。
短い手足。
そして大きな青い瞳。
「猫?」
「違います」
セレネが即答した。
「どう見ても猫だけど」
「猫ではありません」
「じゃあ何?」
「……私も知りません」
「飼い主だよね?」
「はい」
「知らないの?」
「この子は拾ったときから、この姿でした」
白銀の生き物が、健の靴に鼻先を近づける。
くんくん。
そして健を見上げた。
「みゃ」
「……なんだよ」
健がしゃがむ。
すると小さな生き物は、何の警戒もなく健の膝へ前足を乗せた。
「お前、人見知りしないのか」
「普段は私以外には近づきません」
「じゃあ俺、気に入られた?」
「そうかもしれません」
健は少しだけ笑った。
「……よろしくな」
「みゃ」
「名前は?」
「ありません」
「ないの?」
「名前をつける必要性を感じなかったので」
「いや、飼ってるならつけてやれよ」
セレネは少し考えた。
「では、あなたがつけますか?」
「俺が?」
「はい」
突然の話に、健は困った。
ペットを飼った経験などない。
しばらく白銀の生き物を眺める。
「……ルゥ」
「ルゥ?」
「なんとなく」
白銀の生き物が、
「みゃ」
と鳴いた。
「気に入ったみたいです」
「じゃあ決まりだな」
こうして健は、異世界に来て初めて名前をつけた。
小さな生き物――ルゥ。
それが、この世界で健が初めて得た奇妙な友達だった。
◇
小屋の中は、思っていたよりずっと普通だった。
木製の机。
簡素な椅子。
暖炉。
本棚。
壁には剣が一本掛けられている。
「……ここで一人で暮らしてたの?」
「はい」
「どれくらい?」
「八年ほどです」
「八年?」
健は目を丸くした。
「ずっと?」
「ずっとです」
「寂しくない?」
セレネは少し考えた。
「最初の頃は」
「今は?」
「慣れました」
淡々と答える。
だが、その言葉が妙に寂しく聞こえた。
健はそれ以上聞かなかった。
セレネは暖炉に火を入れると、簡単な食事を用意した。
固いパン。
野菜のスープ。
干し肉。
「うまい」
「そうですか?」
「腹減ってたから余計に」
健はスープを飲みながら、ようやく身体の力が抜けていくのを感じた。
今日一日で色々ありすぎた。
仕事を辞めた。
借金。
夜の街。
そして異世界。
魔獣。
銀髪の少女。
猫みたいな謎の生物。
自分でも理解が追いついていない。
「……なあ、セレネ」
「はい」
「ここって、本当に異世界なんだよな?」
「はい」
「俺、帰れる?」
セレネの手が止まった。
「……分かりません」
「そっか」
意外なほど素直に答えが返ってきた。
健はスープを一口飲む。
「まあ、そうだよな」
不思議とショックはなかった。
元の世界に戻ったところで、自分を待っているのは借金だけだ。
仕事もない。
金もない。
未来もない。
だったら――。
「……こっちで生きるしかないか」
健はそう呟いた。
セレネが彼を見る。
「元の世界へ帰りたいとは思わないのですか?」
「そりゃ帰れるなら帰りたいよ」
健は苦笑した。
「でも、帰ったところで俺には何もないからな」
自嘲気味に笑う。
「こっちの世界に何があるかわからないけど」
「……」
「まあ、死ぬよりはマシだろ」
何気なく言った言葉。
セレネの表情がわずかに曇った。
「死ぬ?」
「いや、比喩」
健は慌てて手を振った。
「ほら、俺こう見えて結構前向きだから」
「そうは見えません」
「ひどくない?」
セレネは小さく首を傾げた。
「冗談です」
「……天然なのか?」
「よく言われます」
「自覚あるんだ」
初めて、セレネが少しだけ笑った。
その笑顔を見て、健も笑った。
◇
食事が終わると、セレネは一冊の古い本を取り出した。
表紙には見たことのない文字が刻まれている。
「これは?」
「一族に伝わる記録です」
「一族?」
「私は代々、ここにある門を監視する一族の出身です」
セレネは窓の外を見る。
そこには、先ほどの石造りの門があった。
今は何の変化もない。
ただ森の中に、静かに佇んでいる。
「私たちの一族は、あの門を監視してきました」
「なんで?」
「分かりません」
「分からない?」
「役目そのものが、あまりにも古いのです」
セレネは本を開く。
「数千年前。この世界は、一体の黒龍によって滅びかけたと伝えられています」
「黒龍……」
「八つの首を持つ龍です」
健は黙って聞いた。
「黒龍は瘴気を撒き散らし、世界を覆いました。人間だけではありません。獣人も、エルフも、ドワーフも、その他の種族も、多くの命が失われたそうです」
「それを倒したのが?」
「各種族の英雄たち。そして――」
セレネは健を見る。
「異界から来た迷人です」
「俺みたいな?」
「はい」
健は眉を寄せた。
「じゃあ、俺もその黒龍と戦うことになるの?」
「分かりません」
「ですよね」
健は頭を抱えた。
「いや、俺、魔法も剣も使えないんだけど」
「それについては問題ありません」
「何が?」
「迷人には、必ず特別な力が与えられると伝えられています」
「……」
健は黙った。
自分の身体を見る。
何も変わっていない。
「俺には、何もないけど」
「まだ発現していないだけかもしれません」
「だったらいいんだけどな」
健は笑った。
その夜。
健は小屋の壁際に敷かれた簡素な寝具に横になった。
ルゥが腹の上に乗っている。
「重い……」
「みゃ」
「まあ、いいけど」
窓の外を見る。
二つの月が森を照らしている。
元の世界で眠る前に見ていたものとは、何もかも違う。
健は目を閉じた。
明日からどうなるのか。
自分に何ができるのか。
何も分からない。
ただ一つ。
セレネは明日、この森を出ると言っていた。
そして健も一緒に来てほしいと。
最果ての塔を目指すために。
「……最果ての塔、ねえ」
健は小さく呟いた。
まるでゲームのイベントみたいだ。
そう思った。
だからこそ――。
自分がこんな世界に来た理由も、いつか分かるのかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、健は眠りについた。
――まだ知らない。
この世界で最初に訪れる「最悪」が。
すぐそこまで迫っていることを。
そして。
その最悪を知るために、自分自身が一度、死を経験することになることを。




