第一話 人生の底で、世界が変わった
自分好きなジャンルのタイムリープものに挑戦しました。ちなみにタイトルはまだ迷ってますいくつか候補があるのですが…
第一話 人生の底で、世界が変わった
荒木健、二十七歳。
その日の夜、彼は行く当てもなく歩いていた。
財布の中には、小銭しか入っていない。
スマートフォンには、見たくもない通知がいくつも届いている。
『返済についてご相談があります』
『今月分のお支払いについて――』
「……うるせえな」
健はスマートフォンの画面を消した。
仕事を辞めたのは、つい先日のことだった。
肉体労働の仕事を転々としてきた。学歴はない。特別な資格もない。頭がいいわけでも、運動神経が抜群なわけでもない。
ただ、体力だけはあった。
重い荷物を持つこと。
炎天下で何時間も働くこと。
多少の怪我なら我慢して動くこと。
そういうことだけは、人より少し得意だった。
それなのに。
ギャンブルにハマった。
最初は小さな遊びだった。
負けを取り返そうとして、さらに金を使った。
勝った日は「まだいける」と思い、負けた日は「次なら取り返せる」と思った。
気づいたときには、借金だけが残っていた。
「……馬鹿だよな、俺」
笑ってみる。
笑えなかった。
夜の街を歩く。
家に帰ったところで、何もない。
仕事もない。
金もない。
将来もない。
自慢できるものもない。
ふと、通りの向こうに制服姿の高校生たちが見えた。
コンビニの前で、くだらない話に笑い合っている。何か特別なことがあるわけでもない。ただ友達と並んで歩き、明日の授業や部活の話をしているだけだ。
健は足を止めた。
自分にも、あんな時期があった。
何も知らず、何にでもなれると思っていた頃。放課後に友達と騒ぎ、くだらないことで笑い、明日も今日と同じように続いていくと信じていた。
あの頃の自分は、まさか二十七歳になって、借金を抱え、夜の街を一人で歩くことになるなんて想像もしなかっただろう。
「……戻れねえよな」
小さく呟く。
高校生たちの笑い声が遠ざかっていく。
懐かしさと、どうしようもない悔しさが胸の奥に滲んだ。
漫画やアニメやゲームなら、何度でも主人公がやり直す。
失敗しても、死んでも、奇跡が起きる。
「現実にはセーブポイントなんてないっての」
独り言を呟く。
そのときだった。
――ふっと。
街灯が消えた。
「……ん?」
周囲が暗くなる。
停車していた車もない。
人の声も聞こえない。
まるで、世界から音だけが消えたようだった。
「停電……?」
一歩進む。
その瞬間。
足元の感覚が消えた。
「え?」
落ちる。
そう思った。
だが、落下したわけではなかった。
世界そのものが裏返ったような感覚。
胃が浮き上がり、身体が引き伸ばされる。
「う、ぉ……っ!」
声を上げた直後――
健は地面に倒れ込んだ。
「――っ!」
冷たい。
頬に触れたものが、アスファルトではない。
土だった。
湿った土。
鼻を突くのは雨上がりのような匂い。
健はゆっくりと顔を上げた。
「……は?」
森だった。
木。
木。
木。
見渡す限り、巨大な木々が並んでいる。
空を見上げる。
月が二つあった。
「…………」
健は数秒間、何も言えなかった。
「……いやいやいや」
立ち上がる。
ポケットを探る。
スマートフォン。
ある。
電源を入れる。
圏外。
「いや、そこじゃねえだろ」
思わず自分でツッコんだ。
もう一度空を見る。
二つの月。
見間違いではない。
「……異世界?」
その言葉が口から出た瞬間、自分で笑ってしまった。
「いや、ないない」
漫画じゃあるまいし。
そう思った。
だが――
森の奥から聞こえた唸り声が、その考えを吹き飛ばした。
低い。
地面を震わせるような音。
「…………」
健の背中を冷たい汗が流れる。
ガサッ。
茂みが揺れた。
健は反射的に後退する。
そして見た。
木々の隙間から、何かがこちらを覗いている。
四本の脚。
狼に似ている。
だが、明らかに違う。
身体は異様なほど大きく、皮膚には黒い亀裂のような模様が走っていた。
口元からは、透明な唾液が糸を引いている。
「……嘘だろ」
獣が一歩踏み出した。
ズン。
地面が震える。
健の本能が叫んでいた。
逃げろ。
あれは、人間が相手にしていいものじゃない。
「……っ」
健は走った。
後ろを振り返らない。
枝が顔を叩く。
靴が泥に沈む。
肺が焼ける。
「はっ……はぁっ……!」
背後から轟音。
木が倒れる。
獣が追ってきている。
速い。
あまりにも速い。
「なんで……俺が……!」
人生最悪の日に、異世界に来て。
いきなり怪物に追われる。
「転移特典とか……そういうのは……!」
叫びながら走る。
そのとき。
前方に白いものが見えた。
石。
巨大な石柱。
左右に二本の柱が立ち、その上に横長の石が渡されている。
鳥居のような形。
その奥には小さな木造の小屋があった。
「人……いるのか!?」
健は必死に走った。
「誰か! 助けてくれ!」
叫ぶ。
小屋の扉が開いた。
そして、一人の少女が出てきた。
銀色の髪。
肩にかかる程度のセミロング。
白い肌。
手には細身の剣。
少女は健を見た。
次に、その背後を見た。
「……魔獣?」
冷静な声だった。
「え、魔獣!?」
健が叫ぶ。
「そのまま走ってください」
「いや、どこに!?」
「私の後ろへ」
少女は剣を抜いた。
澄んだ金属音が森に響く。
直後――
獣が木々を薙ぎ倒しながら姿を現した。
少女は一歩前へ出る。
「ここから先には通しません」
獣が咆哮した。
少女の銀髪が風圧で揺れる。
健は呆然と立っていた。
怖い。
逃げたい。
それなのに。
少女が自分を庇うように立っているのを見て、足が動かなかった。
「……あの」
「何ですか?」
「俺、手伝ったほうがいい?」
少女は一瞬だけ健を見る。
「戦えますか?」
「いや、全然」
「では、逃げてください」
「ですよね」
健は苦笑した。
次の瞬間、魔獣が地面を蹴った。
少女も動く。
速い。
健には二人がぶつかったようにしか見えなかった。
だが、少女は魔獣の突進を紙一重でかわし、その勢いを利用して側面へ回り込んだ。
剣が閃く。
魔獣の爪が振り下ろされる。
少女は半歩下がるだけで攻撃を避け、返す刃で魔獣の前脚を浅く斬った。
地面が爆発したように抉れる。
「うわ……」
健の足が震えた。
これが、この世界なのか。
自分が今までいた場所とは何もかも違う。
だが、少女の動きには一切の乱れがなかった。
魔獣が唸り、再び飛びかかる。
少女はその攻撃を正面から受け止めず、身を滑らせるようにかわした。爪が空を切った直後、少女の剣が魔獣の肩を深々と切り裂く。
黒い血が飛び散る。
魔獣は苦しそうに唸りながら後退した。
少女は追撃せず、一定の距離を保ったまま剣を構え直す。
「……大丈夫です」
その声に、健は気づいた。
少女の左腕からも血が流れている。
「いや、大丈夫じゃないだろ」
「この程度なら問題ありません」
「いやいや、血出てるって」
「あなたのほうが問題です」
「俺?」
「あなたは――」
少女が言葉を止めた。
そして、健の背後にある石の門を見る。
健も振り返る。
さっきまで何もなかったはずの門の中央。
そこだけ空気が歪んでいた。
少女の表情が変わる。
「……門が」
「門?」
「異界の門が、あなたを呼んだ……?」
健には意味が分からなかった。
ただ一つだけ分かった。
自分の人生は。
もう二度と、元には戻らない。
少女は剣を鞘に収めた。
「私はセレネ・アルシェリア」
少女は静かに名乗った。
「あなたを待っていました」
「……俺を?」
「はい」
セレネは頷く。
「あなたは、この世界でいう――」
一拍置いて。
「迷人です」
その言葉を聞いた瞬間。
健は自分の胸の奥で、何かが始まったような気がした。
それが何なのか。
この時の健には、まだ分からなかった。




