第十三話 黒い石の持ち主
黒い粉が集まっていく。
石畳の上で細長い影が伸び、ゆっくりと人の形を作り始めた。
頭部らしきもの。
腕のようなもの。
けれど、顔はない。
ただ、胸のあたりに赤い光が二つ浮かんでいた。
「……魔物、ですか?」
セレネが剣を構える。
「分かりません。少なくとも、私の知る魔獣とは違います」
レナも女性から距離を取り、剣先を影へ向けた。
「おい、あれは何だ。お前が出したのか?」
「違う!」
女性は首を横に振った。
「私は呼んでない! こんなことになるなんて……!」
「じゃあ、その手に持っている石は何だ!」
「これは……!」
女性は黒い石を胸元に抱え込んだ。
その仕草を見て、健は一つの可能性に気づいた。
彼女は石を隠している。
しかし、隠していることと、事件の犯人であることは同じではない。
そもそも、彼女はなぜあの路地で怪我をしていたのか。
黒い服の男は、彼女を追っていたのか。
それとも、彼女が何かを起こすのを止めようとしていたのか。
今の情報だけでは判断できない。
「……レナさん」
「何?」
「その人が行方不明事件に関係している証拠って、石に刻まれた紋章だけ?」
「現場に残っていた紋章と同じものが、その石にある」
「つまり、石が事件に使われた可能性はある。でも、この人が使った証拠はまだない」
「あなたは、どうしてそんなにその女を庇うの?」
「庇ってるんじゃない。間違えて捕まえたら、別の問題が増えるだろ」
レナは不満そうに唇を結んだ。
「……今は、それを議論している場合じゃない」
「同感」
健は影へ目を向けた。
黒い人影が一歩、こちらへ進む。
音はしない。
石畳を踏んでいるはずなのに、足音がまったく聞こえなかった。
「セレネ。あれが襲ってきたら、どうする?」
「攻撃を防ぎながら、正体を探ります。ただし、近づきすぎるのは危険です」
「レナさんは?」
「斬れるなら斬る。それだけよ」
「分かりやすくて助かる」
「あなたの回りくどい質問よりはね」
こんな状況でも、いつもの調子で返される。
健は少しだけ笑いかけ、すぐに表情を引き締めた。
影の赤い光が、女性へ向いたからだ。
「――来る!」
影が地面を滑るように動いた。
セレネが前へ出る。
剣が横薙ぎに振るわれた。
手応えはあった。
しかし、刃が通り抜けた場所から黒い粉が散り、すぐに元の形へ戻っていく。
「物理攻撃が効かない……?」
セレネが後退する。
影の腕が伸びた。
「危ない!」
レナが横から斬りつける。
やはり、刃は黒い粉を散らすだけだった。
次の瞬間、影の腕が鞭のようにしなった。
「っ!」
レナは身を捻ってかわしたが、肩口を掠められた。
「レナさん!」
「平気!」
強がっているものの、表情は険しい。
このまま二人が攻撃を続けても、消耗するだけだ。
健は影を観察した。
攻撃を受けても、黒い粉はすぐに集まる。
だが、完全に無傷というわけではない。
刃が通り抜けた瞬間、胸の赤い光がわずかに揺れていた。
そして――。
「……石か?」
影が動くたび、女性の持つ黒い石も微かに震えている。
偶然とは思えなかった。
「そこの人!」
健は女性へ呼びかけた。
「その石を、地面に置いてみてくれ!」
「嫌!」
「頼む。今はそれしか手掛かりがない!」
「置いたら、あれが私を殺す!」
「もう襲ってきてるだろ!」
「だからよ!」
女性の声が裏返った。
「これは、あれを遠ざけるためのものなの!」
健は息を呑んだ。
「遠ざける?」
「……っ」
女性は口を押さえた。
言ってしまった、という顔だった。
その瞬間、影が激しく震えた。
胸の赤い光が明滅する。
まるで、彼女の言葉に反応したかのように。
「健、下がって!」
セレネが叫ぶ。
影の腕が、今度は健へ伸びてきた。
「うわっ!」
健は転がるように横へ逃げた。
腕が石畳に叩きつけられる。
石が砕け、破片が頬を掠めた。
痛い。
怖い。
やっぱり、自分がここにいるのは間違いなのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
だが、逃げる前に確かめたいことがあった。
「その石は、何なんだ!」
健は女性へ叫んだ。
「誰から受け取った!?」
「……母から」
「お母さん?」
女性の目が揺れた。
「母は三日前から帰ってこない。探していたら、あの男に見つかったの。石を渡せって……。断ったら、斬られた」
三日前。
行方不明者が出始めた時期と重なる。
健は喉を鳴らした。
「お母さんも、行方不明になった人の一人なのか?」
女性は小さく頷いた。
「……母は、街の地下にある古い施設を調べていた。そこで見つけたものを、私に預けたの」
「何を見つけたんだ?」
「分からない。母は『これを持って、街の外へ逃げなさい』としか……」
その時、影が再び動いた。
今度は女性ではなく、彼女の手にある石へ向かって腕を伸ばした。
セレネが割り込む。
「させません!」
剣を振るう。
影が散る。
だが、すぐに再生した。
健は女性の言葉を頭の中で繰り返した。
母親が預けた石。
行方不明者。
地下の古い施設。
黒い服の男。
そして、石を狙う正体不明の影。
何かがつながり始めている。
けれど、まだ足りない。
「……なあ」
健は女性を見た。
「俺たちに協力してくれないか」
「信用できない」
「そうだろうな。俺たちは、さっき会ったばかりだ」
健は正直に答えた。
「でも、あの男も、この影も、君を追っている。君一人で逃げ続けても、お母さんの行方は分からないままだ」
「……」
「俺は戦えない。君から石を奪うこともできない。だから、少なくとも今は、君を無理やり捕まえるつもりはない」
レナが鋭い視線を向けてきたが、健は気づかないふりをした。
「ただし、何もかも隠されたままじゃ、俺たちも守りようがない。話せることだけでいい。教えてくれないか」
女性は黒い石を見つめた。
指先が震えている。
やがて、彼女は小さく口を開いた。
「……私の名前は、ミラ」
初めて聞く名前だった。
「ミラ・エルデ。母を探したい。それだけなの」
健は頷いた。
「分かった。俺は荒木健。こっちはセレネ、あっちはレナさん」
「今さら自己紹介?」
レナが呆れたように言う。
「こういうのは大事だろ」
「この状況で?」
「この状況だからだよ」
その時だった。
影の胸にある赤い光が、ひときわ強く輝いた。
ミラが悲鳴を上げる。
「駄目……! もう、抑えられない!」
黒い石に亀裂が走った。
セレネが健の腕を掴む。
「離れてください!」
健はミラへ手を伸ばした。
「ミラ! 石を投げろ!」
「でも――!」
「いいから!」
ミラは一瞬だけ迷い、それから石を地面へ投げた。
石が砕けた。
広場を黒い風が吹き抜ける。
影の輪郭が崩れ、無数の粉となって空中へ舞い上がった。
そして、その粉の向こうから。
人の声が聞こえた。
「……鍵が、壊れた」
誰かが、確かにそう呟いた。
健は目を見開いた。
影は消えた。
けれど、安心することはできなかった。
石が壊れたのなら。
今まで影を抑えていた何かも、壊れたのかもしれない。
レナが剣を構えたまま、低く言った。
「……全員、動かないで」
広場の地面に、細い亀裂が走り始めていた。
その下から、何かが叩く音がする。
一度。
二度。
三度。
まるで、地面の下に閉じ込められていた何者かが、こちらの存在に気づいたように。
健は唾を飲み込んだ。
死に戻りの記憶には、こんな光景はなかった。
つまり――。
ここから先は、まだ一度も経験していない未来だった。




