第十四話 地下からの呼び声
――鍵が、壊れた。
確かに、誰かがそう呟いた。
声は広場のどこからも聞こえなかった。まるで、石畳の下から直接響いてきたようだった。
「……今の、聞こえたか?」
健が尋ねると、セレネは剣を構えたまま頷いた。
「はい。ですが、声の主は見当たりません」
「レナさんは?」
「私にも聞こえた。地下から……?」
レナは足元へ視線を落とした。
その直後だった。
パキッ、と乾いた音が鳴った。
広場の中央に亀裂が走る。
「全員、離れて!」
セレネが叫ぶ。
健は反射的に後ろへ跳んだ。レナも女性の腕をつかみ、広場の端へ引っ張る。
亀裂は一本ではなかった。
石畳の隙間から細い線が伸び、複雑な紋様を描くように広がっていく。黒い光がその奥で明滅し、地面の下から何かが叩く音がした。
コン、コン。
まるで、閉じ込められた誰かが扉を叩いている。
「……冗談だろ」
健の口から声が漏れた。
異世界に来てから、何度も死にかけた。見たこともない魔物に襲われ、刃物を持った男に胸を刺された。
それでも、今目の前で起きている現象は別格だった。
何が起こるのか、まったく想像できない。
「ミラさん!」
健は女性――ミラ・エルデへ向き直った。
「さっきの石は、何だったんだ?」
「……分からない」
「分からないって、あれを持っていたんだろ?」
「母がくれたの! これを持っていれば、あれが近づいてこないって……!」
ミラは震える手で、砕けた石の欠片を示した。
「母さんは、これを絶対に壊すなって言っていた。だから、私は……」
言葉が途切れる。
彼女は自分の手を見つめた。
「私が、壊したから……?」
「今は決めつけないでください」
セレネが静かに言った。
「何が起きたのか、まだ分かっていません。あなた一人の責任だとも限りません」
「でも……!」
「責任を考えるのは、全員が無事にここを離れてからです」
その言葉に、ミラは唇を噛んだ。
健はセレネを見た。
こういうとき、彼女は頼りになる。
自分には、誰かを安心させるような力も、状況を一瞬で解決する魔法もない。けれど、セレネは違う。恐ろしい現象を前にしても、やるべきことを見失わない。
だからこそ、健は自分にできることを探した。
「レナさん。ここから逃げるなら、どっちが安全だ?」
「街道へ戻るのが一番だ。けど、地下から何か出てくるなら、どこへ逃げても同じかもしれない」
「じゃあ、まず人を呼ぶ?」
「駄目だ。一般人を巻き込むことになる」
レナは即答した。
「この異常を放置するわけにもいかない。でも、無闇に人を集めるのも危険だ」
「……なるほど」
健は頷いた。
考え方は分かる。
ただし、現状をどうにかできる人間が、この場にいるとは思えなかった。
少なくとも、自分は違う。
そのとき。
コン、コン。
地面を叩く音が止まった。
広場を覆っていた黒い光が、一斉に消える。
静寂。
誰も動かなかった。
そして、石畳の中央がゆっくりと沈み込んだ。
「下がって!」
セレネがミラをかばう。
石が崩れ落ちる音とともに、地面に大きな穴が開いた。
その奥に、階段が見えた。
地下へ続く、古びた石の階段。
壁には、黒い紋様が刻まれている。
健は息を呑んだ。
「……地下施設?」
ミラが顔を上げる。
「母さんが調べていた場所……」
「何?」
レナがすぐに反応した。
「お前の母親が地下施設を調べていたと言ったな?」
「う、うん……。三日前、仕事で街の外れへ行くって言って、それから帰ってこなくなったの。私に石を渡して、何かあったら逃げろって……」
「どうして、それを最初に言わなかった!」
「だって、あなたは私を犯人だって決めつけたじゃない!」
「それは……!」
レナが言葉を詰まらせた。
健は二人の間に割って入る。
「言い争いは後にしよう。今は、そこに君のお母さんがいる可能性があるんだろ?」
ミラは迷いながらも頷いた。
「……分からない。でも、母さんが調べていた場所と関係があるなら……」
彼女は地下への階段を見つめた。
「行かなきゃ」
「駄目だ」
レナがすぐに制した。
「危険すぎる。何が潜んでいるか分からない」
「でも、母さんが……!」
「だからこそ、無計画に飛び込むなと言っている!」
ミラは肩を震わせた。
健にも、彼女の気持ちは分かる気がした。
大切な人がいなくなった。手掛かりらしいものは、この壊れた石と地下への入口だけ。
そこに希望があると思えば、危険だと分かっていても進みたくなる。
だが、気持ちだけで突っ込めば、全員が帰れなくなる。
「……俺たちだけで決めるのはやめよう」
健は三人を見回した。
「まず、入口を調べる。中へ入るかどうかは、その後だ。無理だと分かったら、一度街へ戻って協力者を探す。それでどうだ?」
「悠長すぎる」
レナが睨む。
「そうかもしれない。でも、何も分からないまま入るよりはいい」
「……」
「それに、ミラさんのお母さんが生きているなら、助けるためにも俺たちが無事でいなきゃ駄目だ」
健は自分の声が震えていないか気になった。
本当は怖い。
地下へ進むなんて、できればごめんだ。
この先で何かに襲われたら、自分には対抗する手段がない。死ねば戻れるかもしれないが、その代償として持ち帰れるのは最期の三分間だけだ。
そして今の自分には、次にどこへ戻るのかさえ分からない。
死にたくない。
誰かを助けたい。
その二つは、いつだって簡単には両立しなかった。
「……分かりました」
セレネが頷いた。
「入口を調べるだけなら、私も賛成です。ただし、異常があればすぐに撤退します」
「私も異論はない」
レナは剣を納めずに言った。
「ただし、ミラ。逃げたり隠したりすることがあれば、今度こそ拘束する」
「……分かった」
ミラは小さく頷いた。
健はようやく息を吐いた。
話がまとまった。
そう思った瞬間だった。
地下から、声が響いた。
『……誰か、いるのか』
全員の動きが止まる。
若い男の声だった。
『そこにいるのなら……頼む』
声はひどく弱々しかった。
『扉を、開けてくれ』
ミラが階段へ駆け寄ろうとする。
「待って!」
健は慌てて彼女の腕をつかんだ。
その瞬間。
地下から、もう一度声がした。
『……ミラ』
「……え?」
ミラの顔から血の気が引いた。
『ミラ。迎えに来たよ』
彼女は震える唇を開いた。
「……母さん?」
返事はなかった。
ただ、階段の奥で。
何かが、ゆっくりと這い上がってくる音がした。
健はミラの腕を離さなかった。
助けを求める声が、本当に彼女の母親のものなのか。
確かめる方法は、今のところない。
それでも。
階段の暗闇を見つめるミラの目には、恐怖と同じくらい強い希望が浮かんでいた。
健は唇を噛む。
――頼むから、誰も死なないでくれ。
その願いに答えるように、地下から再び声が響いた。
『早く……開けて』
今度は、母親の声ではなかった。




