第十話 失われた時間と残った死の三分間
――世界が止まった。
音もない。
風もない。
視界さえも、すべてが静止している。
胸を貫いた痛みだけが、妙に鮮明だった。
息ができない。
身体が動かない。
セレネの叫び。
レナの驚いた顔。
黒い服の男。
そして――。
死。
◇
「――助けて!」
悲鳴が聞こえた。
「……っ!」
健は反射的に顔を上げた。
「……え?」
目の前にあるのは、夜の街。
石畳。
淡い魔石の明かり。
そして。
「健?」
隣にセレネがいる。
銀色の髪。
いつもの顔。
剣を腰に差している。
「……」
健は自分の胸を触った。
何もない。
傷もない。
血もない。
呼吸もできる。
心臓も動いている。
「……俺、生きてる?」
「……健?」
セレネが眉を寄せる。
「どうしました?」
「……いや」
健は胸から手を離した。
「なんでもない」
「なんでもない顔には見えません」
「本当に大丈夫」
そう答えたものの。
声が少し震えていた。
セレネはしばらく健を見つめる。
「顔色が悪いです」
「……ちょっと、寝起きだから」
「さっきまで普通に歩いていました」
「そうだっけ?」
「はい」
健は笑おうとした。
「じゃあ……急に眠くなったのかな」
「眠気で胸を押さえるのですか?」
「……」
「健」
セレネが一歩近づく。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だって」
健は目を逸らした。
「ちょっと……嫌な感じがしただけ」
「嫌な感じ?」
「ああ」
それ以上は言えなかった。
なぜなら。
自分でも、何が起きたのか分からない。
――死んだ。
それだけは分かる。
胸を刺された。
息ができなくなった。
セレネが叫んだ。
そして、死んだ。
なのに。
今、こうして生きている。
「……死に戻り」
健は小さく呟いた。
「何か言いました?」
「いや、何でもない」
セレネは納得していない様子だった。
それでも、それ以上は聞かなかった。
「無理はしないでください」
「……分かった」
「本当に?」
「本当に」
「なら、私の後ろを歩いてください」
「分かったよ」
セレネが前を向く。
健も歩き出した。
だが。
数歩進んだところで。
健の足が止まった。
「……待て」
「どうしました?」
「俺たち……今、どこに向かってる?」
「西地区です」
「……西地区?」
「はい」
健は周囲を見回した。
知らない道だった。
いや。
違う。
見覚えがないわけではない。
街に来てから歩いた道の一つではある。
だが。
今夜、自分がどこを通ってここまで来たのかが分からない。
「……変だ」
「何がです?」
「いや……」
健は額を押さえた。
思い出せ。
さっきまで何をしていた?
宿を出た。
セレネを起こした。
悲鳴を聞いた。
それから――。
「……それから?」
何も出てこない。
いや。
記憶はある。
セレネと一緒に宿を出たこと。
悲鳴を聞いたこと。
西へ向かっていること。
そこまでは分かる。
だが。
その後。
誰に会った?
どの道を通った?
何分歩いた?
何を話した?
「……分からない」
「健?」
セレネが振り返る。
「俺たち、宿を出てから何分くらい歩いた?」
「……三、四分ほどでしょうか」
「三、四分……」
健は息を呑んだ。
なら。
おそらく。
ここが――。
死ぬ三分前ではない。
もっと前だ。
いや。
正確な時間は分からない。
自分の感覚だけでは判断できない。
「……じゃあ、今から何分後に俺は……」
「健?」
「……なんでもない」
慌てて口を閉じる。
セレネに言えるわけがない。
自分が死んだ、なんて。
そもそも。
死ぬ直前の三分間以外のことが、分からない。
健は歩きながら記憶を整理する。
最後に覚えているのは――。
黒い服の男。
短い剣。
レナ。
「……レナ?」
健は呟いた。
「どうしました?」
「いや……」
名前だけが残っている。
だが。
なぜ彼女がいたのか分からない。
どこで会った?
何を話した?
なぜ戦っていた?
そして。
あの女性は誰だった?
なぜ路地裏にいた?
なぜ怪我をしていた?
なぜ俺は彼女を助けようとした?
何より――。
あの場所はどこだった?
「……分からない」
健は立ち止まった。
頭の中にあるのは、断片だけ。
レナ。
知らない女性。
路地裏。
黒い男。
セレネの剣。
自分の胸に刺さる刃。
それだけ。
「健?」
「……セレネ」
「はい」
「一つ聞いていいか?」
「もちろんです」
「レナって……昨日会った、あの女の子だよな?」
「はい」
「俺たち、いつレナと会った?」
「……昨日です」
「そうじゃなくて」
健は言葉を選ぶ。
「今夜だ」
「今夜?」
「俺たちは今夜、レナと会ったか?」
セレネは少し不思議そうにした。
「いいえ」
「……」
「少なくとも、私はまだ会っていません」
健の背筋が冷たくなる。
「……そうか」
つまり。
今の自分が知っているレナとの遭遇は。
死の直前三分間に起きた出来事だけ。
それ以前に。
レナとどうやって合流したのか。
何を話したのか。
どこから来たのか。
何を知っていたのか。
全部抜け落ちている。
「……怖いな」
「え?」
「いや」
健は無理に笑った。
「何でもない」
しかし。
心の中では、別の恐怖が膨らんでいた。
最初の死に戻りでは。
死ぬ直前の出来事を覚えていた。
だが、今回。
俺は正確に理解した。
この能力は。
自分に有利な記憶を持ち帰れる力ではない。
最後の三分しか、新しく持ち帰れない。
だから。
自分が死ぬまでに何をしていたのか。
誰と話したのか。
どこを通ったのか。
何を知ったのか。
それらが三分より前なら。
次の自分には残らない。
「……じゃあ、前の俺は何をしてた?」
答えはない。
今の自分には分からない。
死んだ自分だけが知っていた。
けれど、その自分はもういない。
健は拳を握った。
死の直前三分。
そこだけが手元に残された。
なら。
この三分間の中に。
何か手掛かりを残さなければならない。
次に同じ場所へ戻ったとき。
また何も分からなくなるのなら。
次の自分に伝える方法を考えるしかない。
「……でも」
健は胸を押さえる。
刺された感覚が蘇る。
「もう一回、死ぬのは……嫌だな」
それは当たり前の感情だった。
死ねば戻れる。
そんな考えは。
今の健には、とてもできなかった。
あの痛みを。
あの恐怖を。
もう一度味わう覚悟などない。
「健」
「ん?」
「やっぱり、顔色が悪いです」
セレネが心配そうに見つめている。
「……本当に大丈夫ですか?」
健は少しだけ黙った。
そして。
「大丈夫」
今度は、少しだけ自然に笑った。
「ちょっと嫌な夢を見たみたいな感じだ」
「夢?」
「そう。変な夢」
「……そうですか」
セレネは納得しきってはいなかった。
それでも。
「何かあったら言ってください」
「分かった」
「絶対ですよ」
「……ああ」
二人は再び歩き出した。
健は前を向く。
悲鳴の聞こえた方向へ。
だが、その胸の中には。
新しい疑問が生まれていた。
――今夜。
自分は何時間後に死んだ?
――どこまで歩いた?
――誰に会った?
――なぜレナがそこにいた?
――あの女性は誰だった?
――そして。
前の自分は、何を知っていた?
その答えを。
今の健は持っていない。
持っているのは。
死ぬ直前の三分間だけだった。




