41.夏の日の異変
右を見ても左を見ても緑色しか目に飛び込んでこない。民家も思い出したように時折姿を現し、すぐに後ろへと流れていく。
幹線道路から外れると車窓に映るのはそんな景色ばかりだ。
「そこの山道を少し登った場所にあります。途中から車は入れませんから歩きですね」
「了解。確かにこんな所は地元の住人しかこないだろうね」
「地元の住民も来ないですよ。あるのは古墳なんですが、かなり昔に調査も終わって埋め戻されて、あるのは古墳の入り口だったと思しき岩だけです」
伊万莉も郷土の歴史を調べている時にたまたま知っただけであって、そうでなければ一生知らずにいただろう。
「埋め戻されているのかい? まあ小規模で管理の行き届かないものはそのほうが安全か」
「ですね。近くの子供が中に入って遊んで事故とかあったら大変ですから」
穴があったらとりあえず入ってみる。それが子供。
もしそれで事故が起きたら管理者である県や市の責任問題にもなり得るから、予め予防策をとっておくのはよく理解できた。
アスファルトが途切れ、土と砂利と落ち葉で構成された道が目前に迫ったところで東条は車を空き地に寄せて停めた。
「二人はここから別行動にする?」
シートベルトを外しながら伊万莉が尋ねる。
土地神に挨拶するという二人はこれから探すのだろう。どこにいるか大体の場所は見当がついているのだろうか。
「伊万莉、外に出るな」
「え?」
オロチは伊万莉の問いかけには答えずに、ドアを開けて外に出ようとしていた伊万莉の肩を押さえて制する。
そのただならぬ気配に東条もドアを開けることを止めて振り返った。
「どうかしたのかね?」
「肌が焼けたようにヒリヒリします。オロチ殿、これは何ですか?」
「わからん。山全体が騒がしい」
途中からエアコンを点ける為に窓を閉め切って走っていたから、オロチは外の様子に気が付かなかったのかもしれない。
「もしかして怨念が?」
「この前みたいな奴らならここまで警戒しない。くそっ! もっと早く気付いていればこんな渦中に飛び込む前に止めたものを!」
オロチの声に滲む焦りの色に想定外の事態が進行しているのが伊万莉にも理解できた。
怨念やそれに憑りつかれた怨霊程度なら遭遇する可能性があるものとしてオロチもメイハルも頭の片隅に置いてあったに違いない。
しかし、その二人が警戒度を上げる何かが起こっている。
伊万莉が耳を凝らすまでもなく、外を満たすけたたましい鳥と蝉の鳴き声が車を潰さんとするまでの圧になっていた。
これは明らかに異常だ。
「神代君、怨念とは? いまいち状況がわからないのだが」
「あ、そのあたりは説明してなかったですね。詳しく説明したいところですが……また余裕のある時にでも」
「ふむ」
現在進行形で危険が迫っているというのなら逃げるか何らかの対処をすべきである。
東条は今の状況に何一つ腑に落ちないだろうがそこは堪えてもらうしかない。
「オロチ、どうする?」
「何が起きてるかわからない以上動くほうが危険だ。しばらく息を潜めて様子を見る」
「二人を抱えて安全な場所まで退避したほうが良くないですか?」
「安全な場所とはどこだ? 伊万莉の家か? 動いた結果、事態がそこまで広がったら目も当てられんぞ」
「ですかー。ううっ、こういう状態って苦手なんですよね。目の前の敵を殴ったら解決! とかが一番楽なんですけど」
「それには同意するがな」
オロチもメイハルも基本的なスタンスが「力業で物事を解決」だ。その傾向はメイハルのほうがより顕著であるのは隠しようのない事実。
しかし動きたくても動けないというのはオロチも相当ストレスが溜まるようで、腕を何度も組み直していた。
季節は夏。エンジンを切ってものの数分で車内の温度は急激に上昇している。
顔を始めとする体のあらゆる場所から汗が噴き出して、拭っても拭っても伊万莉のハンカチを濡らすばかりだ。
このままでは異変どうこう言う前に熱中症で倒れてしまう。
「……ねえ、せめて窓くらい開けてもいい? 暑くて倒れそう」
「む、だが……。いや、やむを得んか。そっとだぞ」
「わかってるって」
東条にバッテリーのスタートだけしてもらってパワーウィンドウスイッチを操作した。
下がっていく窓ガラスの隙間から入り込む風は心地よく、車内の不快な空気を一掃してくれる。
その代わり音の爆弾がすぐ近くで爆発したように、伊万莉たちの聴力を疲弊させた。
「うわっ。これだけうるさかったら動いても大丈夫そうな気もするけど」
「何なら敢えて私が派手に走り回ってみましょうか? それで反応を促して、場合によっては私が囮になって逆方向に引き付けますのでその間に二人を避難させれば」
「危険な賭けだがそうだな。いつまで続くかわからんし、その案――」
オロチの声が突然大きくなった。
いや、それは錯覚だ。
周囲の音が消えたことで相対的にそういう風に聞こえたのだ。
大音量の鳥と蝉の鳴き声がピタリと止んで、どこまでも世界が静かになる。
伊万莉は最初、いよいよ自分の耳がおかしくなったのかと思った。
真夏の昼間にこんなに全ての音が消えるなんて伊万莉の経験上あり得なかったからだ。
「何が――ぐっ⁉」
「静かに」
だがそれは自身の声が聞こえたことで否定され、さらにオロチの手が伊万莉の口を塞いだことで彼も同じ現象を体験していると推察できた。
そう、こんな静寂の中では物音一つがどうしようもなく目立つ。
伊万莉がコクンと頷くとオロチの手がそっと離れた。
そしてその手がそのまま前方を指差す。
指の先を目で追っていくと、約五十メートル先に無秩序に生い茂った竹藪があった。奥が陰になっていて今の状況が不気味さを加速させている。
その竹藪が不意に揺れた。
風ではない不自然な揺れ。何かがいる。
「来ます」
メイハルの囁きに緊張が走る車内。
誰もが暑さも忘れて視線を一点に集中させると、手前の竹の一群が一層大きくたわむ。
竹と竹の間を縫って焦げ茶色と灰色をない交ぜにした大きい塊がぬっと現れた。
比較対象が竹しかなく正確な大きさはわからないが、少なく見積もっても全長二メートルはありそうだ。
「猪……?」
人を避ける傾向にある猪も、これだけ山奥に来れば遭遇するケースもないことはない。
とは言っても伊万莉は生きている猪を直に見るのは初めてだ。
だが今考えねばならないのはそんなことではなく――。
「あれが今のこの状況の原因?」
「いや、違うだろうな。寧ろ被害者だ」
オロチの言葉と同時に猪はその巨体をふらつかせ、竹にもたれかかるように脚から崩れ落ち、そして横倒しになってそれきり動かなくなった。
「土地神の命を奪うのか。これは想像以上に」
「ヤバいですね……」
「えっ」
伊万莉は驚きで大声を出しそうになってしまって慌てて手で自分の口を塞ぐ。
――土地神?
ルリが過去に出会い、オロチとメイハルが今日挨拶をする予定だったあの土地神か。
それがこの異変で死んだと言う。
伊万莉の中ではほぼ不死身みたいなイメージのある土地神や神。
でもそんなことはないのだ。日本神話においても名のある神でさえ死ぬ時は簡単に死んでしまう。
不老長寿であっても不死ではない。
しかし古代ならともかく、現代日本でそれが起こってしまったとなれば話は別だ。
オロチとメイハルの過剰なまでの警戒を伊万莉は最初訝しんでいた。
異変が起きていると言ってもそう大したことではないだろう。命の危険まではないだろう、と。
だがそれも現実に目の前で土地神の死を目撃すればその考えは改めざるを得ない。
そもそも危険察知の能力で伊万莉があの二柱の足元にも及ばないのは自明の理である。
倒れてただの肉塊となった猪を見て、伊万莉は夏なのに身震いするほどの寒気を覚えた。
「あの土地神は……もう助からないのかね?」
状況を見守っていた東条も声を絞り出すように尋ねる。
「神力が尽きている。おまけに生命力も。助かる理由がない」
無慈悲な事実がオロチの口から告げられた。
ルリのように神力が無くなれば土地神も普通の生物になり、その生物としての余生を送ることになる。
その余生の分の生命力も無くなれば死ぬだけだ。
ゴクリと飲み込む唾が喉に引っ掛かる嫌な感じがする。
――竹藪の奥には何がある?
そうなるともう一瞬たりともあの不吉な空間から目が離せない。いや、目を離す勇気が伊万莉にはなかった。
その時、動かなくなっていたはずの猪の体が突然跳ねて浮き上がり、伊万莉たちの乗る車の方へと弓なりに飛んできた。
軌道計算しなくてもわかる、直撃するコースだ。
だがそれがわかってても伊万莉は腕一つ動かせず、ただ迫ってくるそれを眺めているしかできない。
恐怖にいつの間にか体を支配されていたのだ。
「はっ!」
そんな中でいち早く動いたのはメイハルだった。
開いていた窓からするりと車を抜け出して跳躍すると、メイハルの何倍も体積のある猪を組んだ手でハンマーのように叩きつけて地面へと落下させた。
車への直撃は避けられたが土埃が舞う。
落とされて草の上に横たわる猪は動かない。本当は生きていて襲い掛かってきたのではなく、やはり既に死んでいるようだ。
ということはさっきの動きは外部から力を加えられて――。
猪に気を取られていて誰もが竹藪を注目しなくなっていたことに気付く。
土埃が晴れていき視界がクリアになると、竹藪の前に伊万莉の見知らぬ女性が佇んでいた。




