40.近くにある貴いもの
昨晩のルリの訪問は束の間の嵐のようだった。
伊万莉の眠りを引き裂き、わずかな邂逅。主張するだけ主張した結果、ルリはオロチの不興を買って退場させられた。
再び寝て起きた時、あれは夢だったのではと思ったくらいだ。
東条に報告すべきか迷ったが特に何か進展があったわけでもなく、下手な希望を抱かせるのではないかと伊万莉はあのことを口に出さなかった。
彼も心の中で一応の決着をみせているようだし、これ以上伊万莉から干渉するのは不粋だ。
そんなことを思いながら伊万莉は東条の運転する車の助手席で揺られている。
「でも、これから行く所は本当に何もないですよ?」
「構わないよ。寧ろそういう場所にこそ価値があるというものだ」
今朝方、伊万莉が東条に今日の予定を尋ねると、観光地になっていない有名でない史跡に行くつもりだということで伊万莉が案内することになった。
観光地として整備されていれば、お土産を売っている店やその場所の謂れが書かれた案内看板があるなどわかりやすくなっている。しかし、そうでない場合は苔生して文字も読めない石碑が置かれているだけというケースも多い。
もちろん、伊万莉は普段そんな場所を案内することはない。そんなことしたら観光客にポカンとされるだけである。
「私もこちらを離れてから長い。地元と言えど知らないことも忘れてしまったこともたくさんある。今回は研究という名目だが、実のところ故郷の風を感じたかったんだ」
「なるほど。それなら余分なものがない場所のほうがいいかもしれませんね」
エアコンを切って窓を全開にした車内には吹き荒れる風と共に夏の匂いが溢れる。
いつもは意識しないありふれた匂いも、こうしていると確かに伊万莉の記憶に紐付けられていた。
「オロチとメイハルは今日退屈かもしれないけど、付いてきて本当に良かった?」
伊万莉が出かける時はだいたい二人のどちらかが護衛として付いてくることになっているが、今日は珍しいことに両方一緒に来ている。
メイハルは後部座席に乗り込んだ後、蛇の姿から人の姿になっていて、それを目撃した時の東条は驚愕の表情を浮かべていた。
「俺たちのことは気にしなくていい。今日はこの辺りの土地神に挨拶でもしておこうと思ってな。一言の断りもなく俺たちみたいな神が膝元をうろうろされては気が気ではないだろうから」
「その土地神の性格にもよりますが、気にする奴は気にしますからねそういうとこ。あ、決して忘れていたわけじゃありませんからね? 夜、急に思いついたんじゃありませんからね? そう、機会がなかっただけです」
メイハルの口振りからして、おそらくルリの話を聞いて「そういえば」と思いついたのだろう。
ルリが会ったという猪の土地神も、四十年後の現在ならまだ現役で土地神をやっているはず。古代の神であるオロチの復活も気が付いていて然るべきだ。
「土地神か。私も会えるものなら会ってみたいな」
その件の土地神よりもっとすごい存在が二柱すぐ近くにいるのだが、出会い方が出会い方だったので東条にしたらオロチとメイハルは対象にならないらしい。
「どうだろうな。昔は人も動物も神もお互いの距離が近かったが、今の世だとそれは難しいかもしれん」
「そうか……」
「ですねー。私もまだ数日分しか今の世を知らないですけど、人から隠れているのか他の神の姿を全然見ません。伊万莉殿も私たち以外で会ったことあります?」
「いや、僕はないし、会ったことあるって話も聞いたことないよ」
あれだけ散々自然を壊して好き勝手してきたからだろうか、人という種だけ距離を置かれてる気がする。
でもそれは人類が発展する為には必要だったのかもしれない。
神に依存し過ぎていたなら人類は努力を怠り、今ほどの文明の発展は見込めなかったはずだ。
この二柱を見ていればそのことを強く感じる。
余りにも力が強大で、何かあったら頼りたくなってしまう。ルリがそうであったように、それは伊万莉でも同じだ。
オロチもメイハルもそのことがわかっているから、出来るだけ今の世に合わせ人の暮らしに合わせているのだ。
彼らが本当の意味で一人の人間として生きられるなら、伊万莉はどんなことでも応援したいと思っていた。
「まあそもそも他者と積極的に関わりを持とうとする神のほうが稀だからな」
「じゃあオロチとメイハルは神の中でも変わってるってこと?」
「それはもう! 私は人という種が大好きですから。愚かで怠惰で強欲で、勤勉で優しくて愛に溢れていて」
「俺は単に人というものが面白いからだ。知っているか? 人間は原初の神を模して生み出されたらしい。その性格も姿もな」
「ということは人間がこんな進化を遂げるかもしれないことがわかっていたのかな?」
「かもしれん。さて、原初の神共は人間をどうしようと思っていたのだろうな」
オロチの牙がニヤリと吊り上がる口の端から覗く。面白がっているのが見え見えだ。
「何やら面白そうな話になっているね。古人類学は専門じゃないが全く無関係というわけでもない」
「しかし東条先生、神話における人類の誕生と自然人類学的に見た人類の進化は相容れないものだと思うのですが」
世界の数多ある神話のほぼ全てで人間は人間として誕生する。神話が生み出された当時は生物の進化について研究が進んでいなかったのだから当然と言えば当然だ。
そして、人は猿から進化したと義務教育では教えられる。伊万莉ももちろん試験等で問われればそう答えを書く。
だがそのことを確かに実感を持って答えている人はどのくらいいるのだろうか。
世界の様子を俯瞰で眺めている何か超越した存在がいて、それによって人間は人間として生み出されたと考えるのはオカルトめいているがロマンはあると伊万莉は思う。
「そんなことはないさ。どちらも研究のテーマとして成り立っているし、お互いがお互いを完全に否定できるものでもない。日本神話だって創作だと言い切るには我々は知らないことが多過ぎる。ヤマタノオロチもこうして出会うことで初めて想像上の存在でなかったと知れたのだから」
「そうですね、確かに」
伊万莉が後部座席を振り返ると、当の本人のオロチは大あくびをしていた。
「ちなみにだがオロチさん、高天原にいる神々と会ったことはあるのかい? アマテラスとか」
「ん? いや、ないな。あいつらは滅多なことでは地上に降りてくることはないし姿も見せない」
「高天原へは行ったことが?」
「高天原も俺は行ったことはない。空のずっと上の方にあるものだと思っていたが、人間のことだ、空の上も行ったことがあるのだろう? そこになかったのならもっと先か、黄泉の国のように別の場所にあるか。どちらにしても簡単に行って帰ってこれる場所ではないな」
伊万莉もオロチの考えには同意した。
高天原という場所があるなら別空間か別の星に存在していて、こちらから行くことは不可能に近いと言える。
「えーっ⁉ 空の向こうってまだ続きがあるんですか? 壁みたいになってると思ってました」
メイハルが驚きに声をあげる。
「うん。今僕たちが住んでいるのが地球っていう星なんだけど、その外には宇宙っていう夜の世界がどこまでも広がってるんだよ」
伊万莉はなるべく簡単に抽象的に世界の構造をメイハルに教えた。
「えーっ⁉ えーっ⁉ ここが星? あの夜空に光ってる星?」
「そう。あの一個一個がここ地球みたいに大地があったり海があったりで、向こうから見たら地球も空に浮かぶ星の一個なんだ」
「へえー」
「ほう。ということはあれらにも人が住んでいるのか?」
「あのどれかには住んでいるかもね。まだ誰も確かめたことないから断言はできないけど」
「それは考えるだけでたぎるな」
「ですです! 伊万莉殿、私は月に行ってみたいです!」
「あーメイハル、夢を壊すようで申し訳ないんだけど……」
そう言って伊万莉はスマートフォンの画面をメイハルに向ける。
そこにはゴツゴツとした無味乾燥な月の地表の写真が映し出されていた。
「これが月」
「へ?」
目が点になるとはこのことを言うのだろう。口も半開きのまま、メイハルが固まっている。
そんなメイハルを見て東条が、
「まあそういう反応になるだろうね。古来から人々は月に特別な幻想を抱いていたから」
「でも岩と砂の世界とわかってても月の魅力は健在ですけどね。高解像度の月から見た地球の出とか感動しましたよ」
「ああ、あれは凄かった。月に行ってこの目で直に見てみたくなった」
「……地球の出? 何の話です?」
いつの間にか硬直から復活していたメイハルが再び話に混ざってくる。
「月から見た地球が綺麗だよって話。動画あるかな……あ、これだ」
月の地平線から青い地球が徐々に昇ってくる映像。
大気が極々わずかしかない月からの光景は曇りなく澄んでいて、地球はまるで色彩豊かなビー玉のよう。
極寒の暗闇にポツンと置かれたからこそ抱きしめたくなるような温もりをそこには感じられた。
「これは見事な……」
「綺麗……」
オロチとメイハルがそれぞれに感想を漏らす。
おそらく誰もが最初に思い浮かべるのは同じことだろう。千の言葉で飾り立てるまでもなく、この一言だけで全てを物語っている。
そして、それから次に考えることが人によって違うのだ。
ある者は思う、『これをずっと守っていこう』。
そしてある者は思う、『これを全部自分のものにしたい』。
果たしてこの二柱は何を思うのか。
「伊万莉殿! この一番上の所にでっかい花を咲かせたら可愛くないですか?」
「えっ? 北極に? か、可愛い……かな?」
「可愛いですよ! 時間があったら行って植えてみようかな。ロゼンがいたら絶対喜んで協力してくれるはず」
「ロゼン? それもヤマタの?」
「ええ。植物が大好きで家事が大得意なんですよ。私も以前いろいろ指南してもらってました」
この前オロチが言っていた、メイハルに家事を教えていたがメイハルの余りの出来なさにその役を投げ出してしまったという神のことだろう。
復活したらまたメイハルに絡まれることになる未だ封印されているその一柱に対して、伊万莉は心の中で静かに合掌した。
突飛な考えを持っていたメイハルの一方、オロチはというと一言だけ。
「…………見せたかったな」
誰に、なんて訊かなくてもわかる。
小さな棘に触れたように伊万莉の胸の奥で痛みとも痒みとも区別し難い奇妙な感覚が現れて消えた。




