39.苦悩、正気、涙、断罪
東条と共にいることを決めた時、ルリは鳥としての生を捨てた。
東条と一緒にいても彼を幸せにできないと気付いた時、ルリは何者でもなくなった。
そして霊体となって彷徨うようになった今、空っぽの身体はどこまでも飛ばされていく。
オロチに放逐されたルリはアスファルトの道路を越え川を越え、深い山奥でようやく止まることが出来た。
そこは大きな括りで故郷の山ではあっても見知らぬ地。
圧迫してくるように複雑に交差する木々や蔦植物がルリを異物として扱う。
『はぁ、やっと止まった……。いきなり放り出すなんて酷くない⁉ 話してただけなのに!』
ルリが不満そうに羽根をバタバタさせる。
最初からオロチはルリのことを敵視していた。その原因はルリにあるのだが、縄張り意識とでも言うのだろうか、自分自身はそれが希薄なので何故彼があれ程怒っていたのかがいまいちわからなかった。
オロチにとって伊万莉の家は縄張り以上だから、本来は侵入した時点で消滅させられていたとしてもおかしくない。以前のオロチだったら躊躇うことなく握り潰していただろう。
今回そうしなかったのは伊万莉を慮ったからだ。
『でもどうしよ……。あれじゃあもう力を借りれそうにない』
あのように人の姿になれるまでの力を持った存在に、ルリは今まで出会ったことがなかった。
彼らのような存在を待ち続けた。そしてあれこそがルリの望むことだった。
人の姿になることが出来れば東条と添い遂げることができる。
彼らの様子を見ていれば自分が悩んでいた種族間の隔たりなど何でもないような問題としか感じない。
死んで霊体となったことすらなかったことにできるような、そんな期待もあった。
だがあの蛇ははっきりと拒絶した。
力を貸さない、と。
ルリは知らなかったしオロチもわざわざ教えなかったが、力ある者でもその姿を変えるのには相応の年月を過ごすことが必要となる。
オロチがシラヤにやったように力を分け与えても、すぐに人の形になれるわけではない。
それこそ邪法のようなものでも用いなければ。
「あら、あなたどうしたのかしら?」
揺れる花のようなふわりとした声がルリの思考に割り込む。
その瞬間ぞわっと全身に震えが走った。
それまで一切気配を感じなかったのに、今は濃厚過ぎる気配でルリの存在までそれと同化してしまいそうだった。
夜に咲き誇り一晩芳香を放つ花、『月下美人』。
ルリに声を掛けてきた女はそうと表現するのに相応しい美しさと色香を兼ね備えていた。
『え、や、あの……』
ルリは思わず目を逸らしてしまう。
視線を合わせてはいけない気がして、目が合ったら囚われてしまう気がして。
――コレは一体何なのだ?
人の形はしている。あの蛇たちに匹敵する力も感じる。
でも生きていない。ルリと同じく既に死んでいる身。
それなのに生きている者と同じかそれ以上の意思と感情に溢れている。
そんな存在がどうして自分なんかに話しかけてくるのか。
「力が欲しいの?」
蠱惑的な響きがその唇から紡がれる。
『き、聞かれていましたか。はい、まあ、そうなのです……』
ルリは一語一語に気を付けてようやく言葉にしていく。相手を刺激しないように無難な語句を選んで慎重に。
あまりのストレスに羽根が全部抜け落ちるのではないかと思った程だ。
それくらい危険なモノだとルリでさえ理解していた。理解させられた。
あの蛇たちも怒らせてはいけない存在だが、コレは触れる場所を間違えたら怒りを表現するより先にこちらに害を為すだろう。
「どうして?」
訊き方はとても柔らかいのに喉に刃物を当てられているような圧迫感がある。
『その……想い人と一緒になりたくて』
「………………」
もう死んでいるのに死ぬのが怖いとは何ともおかしなことだとルリも思う。
でもこの僅かな間さえ生きた心地がしなかった。
「良いわ! あなた、すごく良い! そういうことなら協力するのもやぶさかではないわ」
『へ?』
ルリの事情も背景も全然説明してないのに、あれだけで驚くくらいあっさり協力してくれると目の前のコレは言う。
「誰かを想うというのはそれだけでとても尊いことですもの。その為にはどんな障害も排除しなくてはね」
『はぁ……』
「ああ、愛しい人。もうすぐ傍に参ります……」
『あの……?』
「なぁに?」
『ひっ⁉』
白目の部分が黒く染まった瞳と目が合ってしまって、昏い感情の全てが詰まったような狂気じみたその容貌にルリは魂が凍る恐怖を覚えた。
――わからない。コレのことが本当にわからない。
力を借りる借りない以前にコレに関わってしまったことが絶対的に間違いである気がした。
ルリから接触したわけではないし、だからと言って積極的に逃げようとしたわけでもない。
でもコレの力に惹かれて利用したいと思ったのは事実だ。
「あー、力が欲しいのだったわね。私もこれを拾った……ううん、出会ったのはつい最近なんだけど」
そう言うと女の全身が霧のようなものに包まれた。
霧のようであるが泥のようでもあり、蠢いて脈動して散って集まって、この世に存在するどんな物質とも言い表し難いそれは、それ自体が感情を持っているかのようにルリを標的に定めていた。
「少しだけ分けてあげるわ」
ここまできてやっぱりいりませんとはもう言えない。
こんなものに触れてしまったらどうなってしまうかわからないのに断れない。
ルリの足が一歩、また一歩と下がる。
しかし女からしたらそんなもの動いてないのと大差ない。
酷く楽しそうな笑顔を浮かべて女はその繊手をルリに向けた。
霧だか泥だかは空中に蛇のような軌跡を描いて、夜の闇すら食べてしまいそうな勢いでルリを捕らえる。
『ギャアアアァァァッ⁉』
憎しみ、恨み、呪い、そして後悔。
到底一人では抱えきれないそんな感情の渦がルリの中に無断で入ってきて大暴れした挙句、ルリをその中の一部にしてしまおうと浸食を開始した。
――この女はどうして正気でいられる?
いや、正気を失ったから今のようになったのか。それとも元々正気ではなかったのか。
控えめに言ってこんな狂ったものが真っ当な力であるはずがない。
「どう? とても素敵でしょう? 快感でしょう? 背中を這い上がってくるそれに全てを委ねてみて。受け入れてみて。抱かれているようでしょう? 脳を揺さぶられているような刺激でしょう? だからもっともっともっともっともっともっと欲しくなっちゃう。これこそが私の長年探し求めていたものなんだって、出会った瞬間にわかったの」
もう女の言葉なんかルリに聞こえていない。
どうすれば自我を保てるか。ただその一点だけに集中していた。
霊体となってまでこの世を彷徨ってしまっていたのは、ひとえに東条のことを想っていたからこそ。
だから今この時もそれだけを支えにすることにした。
――タダヨシ様。
「だからね、あなたに分け与えるのも惜しかったのだけれど、独り占めにしたかったのだけれど、好きな人を想う気持ちは応援したかったの。全てが解き放たれる感覚、全能感とでも言えばいいのかしら。その一端を味わった感想はいかが?」
ルリの感情の隙間を縫って負の感情はどんどん膨らみその占有面積を拡げていった。
何百年分だか何千年分だかわからない濃縮された感情は確かに力となる。それをルリは思い知った。
放っておけば散っていくだけのもののはずだったこれは、この女を介することで確固としたものになってしまったのだ。
そしてそれは感情も思考も、ルリを構成するあらゆるものを、無秩序に塗り替えていく。
――お慕いしています(憎い)近くにいたい(鬱陶しい)そんなこと思ってない(あいつさえいなければ)出会えて良かった(消えて)やめて(許せない)許して(邪魔)違う違う(殺す)何で(一人は嫌だ)それはそう(同じになろう)それはいいかも(一つになろう)それが望み(愛してる)じゃあ死んで(愛してる)殺してあげる(愛してる)……。
「あら?」
「アイシテ、ニクイ、コロス、コロ、コロ、シ、アイ……タダヨシ、サマ」
霧泥を纏ったルリは彼女が望んでいた通りに人の姿になっていた。
腰まで届く長い髪の毛先が青く染まっていて、体が揺れる度に波のようにささめく。
美しくはあるが人間に似せて造られた精巧な人形みたいで、ルリに比べたらまだこの女のほうが人間味があった。
「壊れちゃったの? 案外脆いのね。それとも力を分け与えすぎたのかしら? うーん……これは失敗ね。回収してもいいのだけど、まあいいわ。それはあなたにあげる。あなたの想い人と存分に愛し合いなさい」
貼り付けた仮面のような顔から涙を落として、ルリはその足で夜の森に消えていった。
女はそれきりルリには興味を失って、もうそんなもののことは記憶の片隅にも残っていなかった。
「はぁ……。愛しの君。待っててくださいね。もう少し力を蓄えたら彼の者を八つ裂きにして貴方にその首を差し上げますから。魂は私がもらってもいいですか? 終わることのない永遠の絶望を私の手から味わってもらいますから。ふふふふふふっ」




