37.夢か記憶か
「神代君ありがとう。長い話に付き合ってくれて」
「東条先生、お力になれず申し訳ありません」
「いやいや、君が謝ることではないさ。これで踏ん切りがついた。……うん、これで良かったんだ」
謝る伊万莉に東条は平然とした様子で返す。
そうは言ってもそんなに簡単に割り切れるものではないだろう。それほどルリは東条にとって大切な存在なのだから
「しかし私も歳を取り過ぎたな。人生をやり直したいとは思わないが、ルリの影を追い続けてもう四十年も経っていたのか。いかんともしがたいな」
「でも僕はお二方のことを羨ましく思います。それだけ想い想われる関係を築けたのは世の中でそれほど多くないでしょうし」
「そう言ってくれるなら私の人生にもまだ救いがあるというものだ」
東条は少しだけ寂しさが混じった笑みを浮かべた。
ある意味では東条とルリの関係は伊万莉の理想と言える。
損得も種族の壁も何もかも乗り越えてただ純粋に恋をしてきたというのは、世辞でも何でもなく本当に羨ましいと伊万莉は思ったのだ。
だがこれで良かったのだろうか。せめて二人の為に何かできないか。
東条の部屋を退出し、ご飯を食べていても片付けをしていても風呂に入っていても、伊万莉はそのことばかり考えてしまう。
そしてそれは眠りに落ちる寸前まで続いた。
「姉さま! 姉さま!」
舌足らずでどことなく幼い感じの女の子の声がする。
――これは自分の声?
伊万莉よりかなり低い視界が上下に揺れながら小走りで移動していく。
オロチたちと同じような服装をした人々の間をすり抜けて、火を囲んで煮炊きをしていた女性たちの所に駆け込んだ。
「木の実いっぱい採ってきました!」
自分の成果を誇るように木の実が詰まった壺型の土器を目の前に高々と掲げた。
重いのか、腕がぷるぷると震えている。
「えらいね~、すごいね~。そしてかわいいね~」
「姉さま苦しい……」
その健気な姿を目にした一人の十八歳前後の女性が伊万莉の体、いや、この小さい体を力の限り抱きしめる。
いつも見ていたあの夢とは違う。景色に色が付いていて、まるで自分がそこにいるように感じる。
伊万莉自身が登場人物の一人のようになっているのだ。
あの悲劇の場面とも季節が異なっている。山の木々が色づき始め、秋の深まりを思わせた。
しかしこれは夢なのだろうか。夢というのは寝ている時の記憶の整理整頓と言われている。
だが今見えるものは、伊万莉の知らない風景や知らない人々。
そして夢だと知覚していても自由に体は動かせない。まるで他人の体の中に入っているようだった。
「こらこら。あんたの馬鹿力で抱きしめたらこの子潰れちゃうわよ」
最初に抱きしめていた女性より少し年上の女性が伊万莉を奪い取って彼女を窘める。
「ごめんなさい。でもお姉様ならわかりますよね? 末妹のこの子の可愛さが。後五年もしたら男共が放っておかない美人になると思います」
「ええ、そうね。だからこの子の結婚相手は私が見極めるわ。変な男が寄ってきたら困るもの」
「いや、お姉様の基準だと厳しすぎて相手が誰もいなくなってしまいますよ? 私たちは事情が事情だからともかくとして、この子にはせめて好きな人と結ばれて欲しいです」
「確かにそれが一番なんだけど……。最近良くない噂も聞くし、心配なのよ」
「あれですか? アマテラス様の弟君のスサノオとかいう……」
スサノオという名前が出て伊万莉が反応すると同時に、伊万莉の体となっている女の子が彼女らに尋ねた。
「その方は何か悪いことをされたのですか?」
「うーん、高天原でわがままに振舞って大暴れして追放されたらしいの。それで地上でも悪逆の限りを尽くしているとかいないとか」
「えっと、その口振りからすると姉さまはお会いしたことはないのですよね? 会ったこともない方を噂だけで判断するのは良くないと思います」
伊万莉からは見えないが、その声音からするとこの子は頬を膨らませているような気がする。
そしてその様子を見た二人の女性は慌てて取り繕った。
「違うの違うの! そういう可能性があるってだけで、悪く言うつもりはないの!」
「そ、そう! 明日の天気を心配するのと同じ!」
「そうなんですか?」
こくこくと首を猛烈に縦に振って、女の子に嫌われまいとしているのが微笑ましかった。
「ほ、ほら、他のお姉様たちにも採ってきた木の実見せてきたら? 多分楽しみにしてるんじゃないかな?」
「あっ、そうですね! 行ってきます!」
そう言われて意識がすっかりそちらに移った女の子はそそくさと駆け出した。
女の子の耳には届かなかったようだが、伊万莉には残された女性二人の会話が何故か聞こえた。
「……何があってもあの子だけは守ってあげたいわね」
「何も知らず、純粋なまま育って欲しいです」
「願わくば多くの者を愛し、そして愛されますように――」
彼女たちの願いはこの女の子に届いたのだろうか。
――――ザッ、ザザ、ジ……
そんな考えが不意に途切れる。
まだ女の子の視界を共有していた伊万莉の目の前に波のようなノイズが走り、映像が強制的に遮断された。
夢が切り替わるとかだったらこんなに不快な感じはしない。
急に頭を圧迫されたような苦しさを覚えて、伊万莉は布団を跳ね上げて目を覚ました。
「はっ⁉」
暗い中でまず目に入ったのは人型になったメイハルの背中。そしてその向こうにはオロチの姿があった。
メイハルは伊万莉を何かから守るように片膝を立てる姿勢で構え、オロチはその手に何かを握っている。
「昨日からこの近くを飛び回っていたのは貴様か」
「私の印が彼にあるのを知っての狼藉ですか? ならばいい度胸ですね」
伊万莉がよくよく見ると、オロチの握った手から少し何かがはみ出していた。
それは小さな鳥の頭で、嘴を開け閉めして必死に訴えている。
『無礼は重々承知しております! しかしどうか話をお聞き入れくださいませ!』
そのままにしておくと潰してしまいそうだったので、伊万莉は急いで割って入った。
「何があったの?」
「伊万莉殿。この輩が無断で我らの領域に踏み込んできましたので捕らえたところです」
「それでか。……ん? それってもしかして『ルリ』じゃない?」
ぼうっと浮かぶ鳥の姿に心当たりがあった。
直接会ったことはないにしても、あれだけ熱のこもった話を聞かされればこの可能性に思いつく。
『そうです! 私はあのお方にルリと呼ばれている鳥でございます!』
「あの、真夜中だからもう少し静かに……」
『あ、申し訳ありません……。実は折り入って貴方様にご相談したいことがあって参りました』
「相談? 昼間じゃダメ?」
この鳥がルリなら話を聞いてみたいという思いはある。寝る前まで散々考えていたことだ。
しかし、こうして話をしていたら伊万莉の母が起きてこないとも限らない。
見つかった際の言い訳をどうしたらいいのだ。
『昼間は存在が希薄でこうして話をすることもできないのです。私、霊体なので』
「んー、それなら仕方ないか……。じゃあ小声で話そう。オロチ、放してあげて」
「わかった。……いいか? 今から放すが、今度少しでも変な動きを見せたら弁解する間もなく食ってやるからな」
「はっ、はい」
冗談なのか本気なのか、オロチが牙を剥いてルリを脅す。
眠りを妨げられた上に自分が守護する領域への無断での干渉は、オロチの機嫌を損ねるには十分だったようだ。
「じゃあみんな、近くに寄って」
伊万莉の布団にオロチ、メイハル、ルリがもぞもぞと集まって車座になる。
こうしていると消灯後に教師の目を盗んで話をしていた修学旅行を思い出した。
少しだけ悪いことをしているような、あの何とも言えない感覚。
人間は伊万莉しかいない深夜の会談。ある意味怪談は、暗闇の中でひっそりと始まった。




