チュートリアルは必要です
応接室には、気まずい沈黙が流れていた。
セレスは腕を組んだまま、俺から目を離さない。
先輩は、何事もなかったように二杯目の紅茶を注いでいる。
リーネは天井付近で、三人の顔を順番に見比べていた。
「……説明していただけますか、タナカ・マコト」
セレスの声は、静かだった。静かすぎて怖い。
「"マナ・プロトコル"。あなたはなぜ、魔導院の最深部にしか残っていない言葉を知っているのです」
「えっと……」
どう説明すればいいんだ。
「俺のいた世界に、この世界とよく似た"物語"があったんです。その物語の題名が、マナ・プロトコル」
「物語」
「はい。たくさんの人が、その物語の登場人物になりきって、遊ぶ……そういう娯楽です」
セレスの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……つまり、私たちは、あなたの世界の誰かが作った物語の中にいる、と?」
「い、いや、そういう意味じゃ――」
言いかけて、止まった。
そういう意味じゃない、と言い切れる根拠が、俺にはなかった。
セレスは、しばらく黙っていた。
それから、窓の外の荒野に目を向けた。
「……私の祖母は、魔物に堕ちた母を、自分の手で斬りました。その祖母も、最後はマイナスに沈んで、魔導院に処分されました」
淡々とした声だった。
「それも、誰かが作った"物語"の一頁ですか」
答えられなかった。
先輩も、紅茶を口に運ぶ手を止めていた。
「……違います」
代わりに口を開いたのは、リーネだった。
いつの間にか床に降りて、まっすぐセレスを見ていた。
「私は、マイナスに沈んだ時、すごく怖かったです。腕が冷たくて、自分じゃなくなっていくのがわかって。あれが作り物だったなんて、絶対に思いません」
小さな拳が、震えていた。
「マコト様が助けてくれた時、あったかかったのも、本物です」
セレスは、少女をじっと見下ろした。
やがて、ふっと視線を外した。
「……失礼しました。査察官として、あるまじき問いでした」
夜。俺は与えられた客室で、スマホを睨んでいた。
マナ・プロトコル2の公式ページ。
圏外なのに、なぜかこのページだけは開く。ストアからアプリをダウンロードしようとすると『この地域ではご利用いただけません』と出るくせに。
画面の下に、さっきの通知のリンクがあった。
『新規プレイヤー向けチュートリアル「はじめての計量石」』
開いてみる。
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STEP 1 計量石に触れてみよう
計量石は、旧時代の力場制御端末の残骸です。手のひらを当てると、決められた量のマナを石に預けることができます。街での買い物に使いましょう。
STEP 2 残量を確認しよう
計量石に手を当てたまま、親指で石の縁を三回なぞると、あなたの現在のマナ残量が表示されます。
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「……え?」
STEP2の使い方は、誰もしていなかった。
リーネも、市場の人たちも、ただ手を置いて払うだけだった。だからこの世界の人は、自分の残量を「感覚」でしか知らない。
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STEP 3 旧時代の機能を呼び出そう
計量石の多くは、本来の機能のごく一部しか使われていません。残量表示の状態で、石の中心を長押しすると、、、続きは正式版でプレイしてね!
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「……生殺しかよ」
翌朝、俺は先輩とセレスとリーネを、館の広間にある大きな計量石の前に集めた。
「試したいことがあるんです」
リーネに、石に手を置いてもらう。
俺は、彼女の親指をそっと取って、石の縁をなぞらせた。
一回。二回。三回。
石が、今まで見たことのない色で光った。
淡い青。その表面に、細い線で、文字が浮かび上がる。
MANA : 978,412,306
「…………」
広間が、静まり返った。
読めないはずだった。この世界の文字じゃない。
でもそこに並んで見えたのは、間違いなく、見慣れた算用数字とアルファベットだった。
「わ、私の魔力……ですか? これが?」
リーネが、目を丸くする。
9億7841万。俺が送った10億から、マイナス分を埋めて、この数日で少し使った残り。計算は合っている。
「……ありえない」
セレスが、絞り出すように言った。
「計量石に、こんな機能が……。魔導院の記録にも、ひとつも……」
「チュートリアルに書いてありました」
「チュートリアル」
「ゲームの……物語の、最初の手引き書です」
セレスは、自分の手を石に置いた。
俺が言う前に、親指で縁を三回なぞった。
MANA : 2,184,770
「…………」
平均よりは少し多い。でも、査察官として前線に立つには、決して余裕のある数字じゃない。
セレスは、その数字をしばらく黙って見つめていた。
「……こうして見ると、思ったより少ないものですね。命というのは」
ぽつりと、そう言った。
先輩は、腕を組んだまま石を見下ろしていた。
その横顔は、驚いているようには見えなかった。どちらかといえば――何かを、確かめているような顔だった。
「田中くん。ステップ3は?」
「正式版でプレイしてね、で切れてました」
「そう」
先輩は、ためらいもなく石に手を置いた。
縁を三回。表示が出る前に、石の中心を、親指で長押しした。
「先輩!?」
石が、震えた。
青い光が、白に変わる。
広間の床に、光の線が走った。計量石を中心に、蜘蛛の巣のように広がっていく。壁を伝い、天井を伝い、館全体を包み込む。
ブウン、と低い唸り。
まるで、数百年眠っていた何かが、目を覚ましたような音。
そして、石の表面に、文字が浮かんだ。
Liberate humanity from Argus Norn.
(アーガスノルンから人類を開放せよ)
アーガスノルン。
知っている。マナ・プロトコルの世界で、「力場」を生み出した企業。ゲームの中にしか存在しない名前。
先輩は石から手を離し、眼鏡を押し上げた。
「この館の地下には、同じ文字が刻まれた扉がある。三ヶ月かけても、開けられなかった扉がね」
石の文字が、点滅していた。
その下に、小さく、もう一行。
NEAREST REGISTERED DEVICE : 2 FOUND
(登録済みデバイス:2台検出)
手の中のスマホが、震えた。
先輩のポケットの中でも、同じ震え。
2台。
この世界で、"登録された端末"は、俺たちのスマホだけだった。




