同じ銘柄を持っている人がいるらしいです
東方の国境までは、馬車で4日かかるらしい。
「4日……」
俺は揺れる荷台で、スマホの画面を見つめた。
充電残量:13%
低電力モード、明るさ最低、通知は投資アプリとラクペイだけ。
画面を点けるのは1日3回まで、と決めた。社会人になってからこんなに禁欲的な生活をしたのは初めてだ。
「マコト様、また光る板とにらめっこしてます」
向かいの席で、リーネが足をぶらぶらさせている。ちゃんと座れている。浮力はだいぶ落ち着いたらしい。
「リーネは村に残ってもよかったのに」
「嫌です。ソンギリの呪文を唱える人が、そばにいないと危ないので」
「その呪文、リーネが唱えても効かないからね」
御者台では、セレスが黙って手綱を握っていた。
2日目の昼、俺たちは交易都市ベルカに立ち寄った。
石畳の大通りに、露店がずらりと並んでいる。
焼いた肉の匂い。香辛料の山。色とりどりの布。呼び込みの声。
「すげえ……異世界の市場だ……」
転移してから初めての、ちゃんとした「街」だった。
「食料を補給します。半刻後にここで」
セレスはそう言い残して、さっさと人混みに消えた。
俺はリーネと並んで、露店を見て回った。
そして、すぐに気づいた。
この街には、硬貨がない。
「はい、パン2つね。600だよ」
「はーい」
パン屋の前で、主婦らしき女性が、台の上の灰色の石に手のひらを乗せた。
石が淡く光り、数字のような紋様が浮かぶ。
「まいど!」
女性はパンを受け取って去っていった。
それだけ。お金のやりとりは、一切なかった。
「リーネ、今のは」
「計量石です。手を置くと、決まった分の魔力が石に吸われるんです。お店の人はそれを溜めて、魔導院で別の物に替えたり、自分の魔力に戻します」
「つまり……魔力で払ってる?」
「はい。みんなそうですよ?」
当たり前のように言われた。
平均魔力200万MP。パン一つ300MP。
ゼロになれば――あるいは、その先に沈みすぎれば――魔物になる世界で、人々は自分の命の燃料を、毎日少しずつ削って暮らしている。
「怖くないの?」
「怖いですよ」リーネはあっさり言った。「だから、みんな計算しながら買い物します。寝ると少しずつ戻るので、今日はここまで、明日はここまで、って」
この世界の人たちは、全員が命の家計簿をつけて生きている。
腹が減っていた。
焼き串の屋台の前で、俺は足を止めた。何の肉かはわからないが、とにかくいい匂いがする。
「一本ください」
「あいよ、400だ」
屋台の親父が計量石を差し出す。
俺はスマホを取り出し、ラクペイの画面を開いた。
ここで、ようやく気づいた。
「……あの、すみません。最低単位が10億からなんですけど」
「は?」
「1円……えっと、一回の支払いで、10億MP送ることになるんですけど、大丈夫ですか」
親父は固まった。
それから、計量石を両手で抱えて後ずさった。
「冗談じゃねえ! この石は100万までしか溜まらねえんだ! そんなもん流し込まれたら、屋台ごと吹っ飛んじまう!」
「で、ですよね……」
お釣りの概念が、ない。
いや、あったとしても、9億9999万9600MPのお釣りを出せる屋台はこの世に存在しない。
「マコト様、私が払います」
リーネが、自分の手を石に置いた。淡い光。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう。なんか、ごめん」
「いいんです。私の中にあるの、もともとマコト様の魔力ですし」
そう言って笑う彼女の手から、400MPが石に吸い込まれていく。
串焼きは、うまかった。
うまかったけど、なんだか複雑な味がした。
37兆MPを持ちながら、串一本買えない男。
日本でいえば、一兆円の小切手しか持っていなくて、自販機でジュースが買えないようなものだ。
ふと見ると薬屋の前に、十歳くらいの少年が立っていた。
計量石に手を置いたまま、動かない。顔は真っ青で、手が震えている。
「坊や、もうやめなさい」薬屋の女主人が言った。「あんた、もうほとんど残ってないだろう」
「でも……母ちゃんの薬、あと5000足りないんだ……」
石の光が、弱々しく明滅する。
少年の指先が、ほんのわずかに、黒ずんでいた。
足が勝手に動いていた。
「待って」
俺は少年の肩に手を置き、スマホを開いた。
送金画面。宛先候補に、知らない名前が表示される。
『近くに送金可能な相手がいます:トマ』
「マコト様、それは――」
リーネの声を背中で聞きながら、俺は1円を送った。
ポン、と軽い音。
少年の体が、ぼうっと光った。黒ずんでいた指先が、元の色に戻っていく。
今度は、光の柱は立たなかった。それでも10億MP。常人500人分。
少年は、自分の手を見て、目をまんまるにした。
「な、なにこれ……体が、あったかい……」
「それで、お母さんの薬を買いな。あと、しばらくは無理に使うなよ」
「にーちゃん、だれ……?」
「通りすがりのサラリーマン」
背後から、冷たい声がした。
「――軽率です」
セレスだった。両手に食料の袋を抱えたまま、紫の瞳で俺を見下ろしている。
「この街で、子どもがいきなり大魔導師の3人分の魔力を抱えた。明日にはそれが噂になる。噂は、魔力を欲しがる者たちを呼びます。あの子が狙われますよ」
「…………」
反論できなかった。
「それに」セレスは、少しだけ声を落とした。「あなたの残高は、無限ではない。この国で魔力に困っている者が何人いると思いますか。全員に配るんですか」
「……36000人までなら」
「冗談を言っている顔ではありませんね」
セレスは小さくため息をつき、それから、薬屋の前で母親の薬を大事そうに抱えている少年をちらりと見た。
「……見張りは、私の部下を一人残しておきます。行きますよ」
その横顔が、ほんの少しだけ柔らかかったのは、たぶん気のせいじゃない。
四日目の夕刻。
東方の国境地帯は、灰色の岩山と、古い砦の跡が点在する荒れ地だった。
観測記録が示した地点に、それはあった。
岩山の中腹に建つ、真新しい石造りの館。
門の上には、見慣れない紋章の旗がはためいている。天秤と、硬貨。
「……商会の紋章です」セレスの声が硬くなった。「ここ数ヶ月で、急に東方の交易を牛耳り始めた新興の商会。名は、確か――」
その時、館の屋根の上で、何かがきらりと光った。
夕日を反射する、黒い四角い板。
何枚も並んで、まっすぐ西の空を向いている。
俺は、その形を知っていた。
「……ソーラーパネル」
「ソーラ……?」
「太陽の光で、電気を――この板の体力を、回復させる道具です」
心臓が、跳ねた。
館の扉が、ゆっくりと開いた。
出てきたのは、女性だった。
この世界の上質な外套を羽織っているが、その下は――見覚えのある、グレーのパンツスーツ。首から下げた、社員証のストラップ。
短く切りそろえた黒髪。眼鏡の奥の、よく知っている、人を値踏みするような目。
女性は、俺を見て、ふっと口角を上げた。
「久しぶり、田中くん。三ヶ月ぶりかな」
声が出なかった。
水城さやか。
営業二課の先輩で、俺に「老後は自分で守れ」と積立投資を勧めた張本人で。
三ヶ月前、出張先で行方不明になった――あの人だ。
「せ、先輩……なんで……」
「なんで、はこっちの台詞。まさか君まで来るとはね」
先輩は眼鏡を押し上げ、俺の手の中のスマホに目を落とした。
「それより、ひとつ聞いていい?」
「……はい」
「君、まだ東都電子持ってた?」
「……昨夜、損切りしました」
「そう。私も」
先輩は、楽しそうに笑った。三ヶ月前と、何ひとつ変わらない笑い方で。




