↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

損切りって、魔法の呪文ですか?

 画面の数字が、赤く沈んでいく。


 −38,902円

 −57,330円

 −71,048円


「なんで……全世界株って、分散されてるから安心って……」


 先輩の声が脳裏に蘇る。『分散しとけば一社コケても平気だから』。

 平気じゃない。全然、平気じゃない。


 震える指で、銘柄別の内訳を開いた。


・全世界株ファンド −18,210円

・東都電子(個別株) −61,974円


「……あ」


 忘れていた。

 二年前、課長に「取引先の株くらい持っとけ、話のネタになる」と言われて買った個別株。


 東都電子。

 俺の課が部品を卸している、精密機器メーカー。


 画面上部を、ニュースのプレビューが流れていく。圏外なのに、なぜかこれだけは届く。


『【速報】東都電子製精密機器に重大な危険性を確認 同社株価急落』


「うちの課の担当じゃねーか!!」


 肩のあたりから、人間にはない何かが――硬質の瘤のようなものが、ゆっくりと膨張してきた。


「マコト様っ!」


 窓を突き破る勢いで、リーネが飛び込んできた。いや、本当に突き破った。木枠ごと。


「リーネ、窓!」


「あとで直します! それよりマコト様の体が!」


 部屋の隅で、セレスが細剣を構えた。

 その切っ先は、まっすぐ俺に向いている。


「下がりなさい。その男が堕ちれば、この村が危ない」


「マコト様は堕ちません!」


「根拠は」


「……ありません! でも堕ちません!」


 根拠のない信頼が、ちょっと嬉しかった。


 −84,519円


 体は痛くない。苦しくもない。ただ、胸の奥がひどく冷たい。自分の中から何かが静かに抜けていくような――


 いや、待て。考えろ。


 数字が落ちていくとき、やることはひとつしかない。


 全世界株ファンドの下げは、まだ浅い。

 致命傷は、東都電子。今夜の下げのほとんどは、この一社だ。


 危険性が確認された精密機器。リコール。訴訟。賠償。

 取引先として、俺は知っている。あの会社は、こういう時に必ず対応が遅れる。


 ――明日は、もっと下がる。


「セレスさん」


「何です」


「今から、呪文を唱えます」


「……呪文?」


 俺は東都電子の銘柄画面を開き、「売却」をタップした。

 全株。成行。


 確認画面。


『この取引を確定すると、−84,519円の損失が確定します。よろしいですか?』


 指が止まった。


 確定。

 この損は、もう二度と取り戻せなくなる。持っていれば、いつか戻るかもしれない。三年後か、十年後か。


 でも、その「いつか」まで、俺の体がもつ保証はどこにもない。


「損切り」


 俺は、呟いた。


「損を、自分で切り捨てる。これ以上傷が広がる前に」


『売却注文を受け付けました』


 沈黙が落ちた。


 体の膨張が、止まった。

 そして、ゆっくりと縮んでいく。冷たかった胸の奥に、わずかに温度が戻る。


 セレスが、目を見開いていた。

 この女性が表情を崩すのを、俺は初めて見た。


「止まった……? 呪文ひとつで、魔力の流出が」


「流出が止まったわけじゃないです。流れ出る"穴"を、塞いだだけです」


 画面を見る。


 東都電子:売却済(確定損益 −84,519円)

 全世界株ファンド:−18,210円


 まだ赤い。でも、もう揺れ幅が違う。


「ソンギリ……」リーネが、宙に浮いたまま真剣に繰り返した。「覚えました。いざという時のための呪文ですね」


「うん、まあ……現代人にとっては、だいたいそう」


 そのとき。


 スマホが、また震えた。


『【速報】米国ミクロファーマ新薬発表 同社株価高騰』


 ファンドの数字が、動いた。


 −18,210円

 −9,844円

 −1,207円

 +6,530円


「……戻ってる」


 全世界株ファンドの中には、世界中の企業が入っている。

 先輩の言っていた「分散」が、ようやく目の前で意味を持った。


 すっかり俺の体はすっかり元に戻っていた。


 俺はその場にへたり込んだ。リーネもつられて、床に着地した。昨日から一度も降りられなかったのに。


「あ……降りられました」


「たぶん、びっくりしすぎて浮力が抜けたんだと思う」


「マコト様のせいです」


「それはごめん」


 明け方。


 窓の穴から、白い光が差し込み始めていた。

 市場が閉じる時間だ。数字は、もう動かない。


 セレスは細剣を鞘に収め、羊皮紙に何かを書きつけていた。長い間、無言で。


「……報告書ですか」


「ええ。"対象は自らの意思で魔力の流出を止めた"と」


 彼女は羽根ペンを置き、俺を見た。

 夜の間ずっと冷たかった紫の瞳に、ほんの少しだけ、別の色が混じっていた。


「タナカ・マコト。あなたは昨夜、魔物になりかけた。そして、あなた自身の判断で戻ってきた。この国の歴史上、そんな人間の記録はひとつもありません」


「……運が良かっただけです。新薬のニュースがなかったら、たぶん――」


「運も、判断の内です」


 セレスは立ち上がり、窓の穴の前に立った。朝の光が、銀髪を縁取る。


「それと、もうひとつ。王都の大観測塔から、夜明け前に早馬が届きました」


 彼女は一枚の紙を差し出した。

 銀の線が波打つ、観測記録。


 見覚えのある形だった。

 夜半過ぎに跳ね上がり、急落し、そして明け方に持ち直す――昨夜の俺と、ほとんど同じ揺らぎ。


 ただし、観測地点は、この村ではなかった。


「東方の国境地帯。昨夜、あなたとまったく同じ時刻に、まったく同じ形で揺らいだ魔力がもうひとつ」


「……俺以外にも、誰か来てるってことですか」


「それを確かめるのが、次の私の仕事です」


 セレスは振り返り、ほんのわずかに口角を上げた。


「そして、あなたの仕事でもあります。同行していただきますよ、"ソンギリの魔導士"殿」


「その二つ名、やめてもらえませんか」


 朝日の中で、スマホの画面だけが、静かに次の通知を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。