損切りって、魔法の呪文ですか?
画面の数字が、赤く沈んでいく。
−38,902円
−57,330円
−71,048円
「なんで……全世界株って、分散されてるから安心って……」
先輩の声が脳裏に蘇る。『分散しとけば一社コケても平気だから』。
平気じゃない。全然、平気じゃない。
震える指で、銘柄別の内訳を開いた。
・全世界株ファンド −18,210円
・東都電子(個別株) −61,974円
「……あ」
忘れていた。
二年前、課長に「取引先の株くらい持っとけ、話のネタになる」と言われて買った個別株。
東都電子。
俺の課が部品を卸している、精密機器メーカー。
画面上部を、ニュースのプレビューが流れていく。圏外なのに、なぜかこれだけは届く。
『【速報】東都電子製精密機器に重大な危険性を確認 同社株価急落』
「うちの課の担当じゃねーか!!」
肩のあたりから、人間にはない何かが――硬質の瘤のようなものが、ゆっくりと膨張してきた。
「マコト様っ!」
窓を突き破る勢いで、リーネが飛び込んできた。いや、本当に突き破った。木枠ごと。
「リーネ、窓!」
「あとで直します! それよりマコト様の体が!」
部屋の隅で、セレスが細剣を構えた。
その切っ先は、まっすぐ俺に向いている。
「下がりなさい。その男が堕ちれば、この村が危ない」
「マコト様は堕ちません!」
「根拠は」
「……ありません! でも堕ちません!」
根拠のない信頼が、ちょっと嬉しかった。
−84,519円
体は痛くない。苦しくもない。ただ、胸の奥がひどく冷たい。自分の中から何かが静かに抜けていくような――
いや、待て。考えろ。
数字が落ちていくとき、やることはひとつしかない。
全世界株ファンドの下げは、まだ浅い。
致命傷は、東都電子。今夜の下げのほとんどは、この一社だ。
危険性が確認された精密機器。リコール。訴訟。賠償。
取引先として、俺は知っている。あの会社は、こういう時に必ず対応が遅れる。
――明日は、もっと下がる。
「セレスさん」
「何です」
「今から、呪文を唱えます」
「……呪文?」
俺は東都電子の銘柄画面を開き、「売却」をタップした。
全株。成行。
確認画面。
『この取引を確定すると、−84,519円の損失が確定します。よろしいですか?』
指が止まった。
確定。
この損は、もう二度と取り戻せなくなる。持っていれば、いつか戻るかもしれない。三年後か、十年後か。
でも、その「いつか」まで、俺の体がもつ保証はどこにもない。
「損切り」
俺は、呟いた。
「損を、自分で切り捨てる。これ以上傷が広がる前に」
『売却注文を受け付けました』
沈黙が落ちた。
体の膨張が、止まった。
そして、ゆっくりと縮んでいく。冷たかった胸の奥に、わずかに温度が戻る。
セレスが、目を見開いていた。
この女性が表情を崩すのを、俺は初めて見た。
「止まった……? 呪文ひとつで、魔力の流出が」
「流出が止まったわけじゃないです。流れ出る"穴"を、塞いだだけです」
画面を見る。
東都電子:売却済(確定損益 −84,519円)
全世界株ファンド:−18,210円
まだ赤い。でも、もう揺れ幅が違う。
「ソンギリ……」リーネが、宙に浮いたまま真剣に繰り返した。「覚えました。いざという時のための呪文ですね」
「うん、まあ……現代人にとっては、だいたいそう」
そのとき。
スマホが、また震えた。
『【速報】米国ミクロファーマ新薬発表 同社株価高騰』
ファンドの数字が、動いた。
−18,210円
−9,844円
−1,207円
+6,530円
「……戻ってる」
全世界株ファンドの中には、世界中の企業が入っている。
先輩の言っていた「分散」が、ようやく目の前で意味を持った。
すっかり俺の体はすっかり元に戻っていた。
俺はその場にへたり込んだ。リーネもつられて、床に着地した。昨日から一度も降りられなかったのに。
「あ……降りられました」
「たぶん、びっくりしすぎて浮力が抜けたんだと思う」
「マコト様のせいです」
「それはごめん」
明け方。
窓の穴から、白い光が差し込み始めていた。
市場が閉じる時間だ。数字は、もう動かない。
セレスは細剣を鞘に収め、羊皮紙に何かを書きつけていた。長い間、無言で。
「……報告書ですか」
「ええ。"対象は自らの意思で魔力の流出を止めた"と」
彼女は羽根ペンを置き、俺を見た。
夜の間ずっと冷たかった紫の瞳に、ほんの少しだけ、別の色が混じっていた。
「タナカ・マコト。あなたは昨夜、魔物になりかけた。そして、あなた自身の判断で戻ってきた。この国の歴史上、そんな人間の記録はひとつもありません」
「……運が良かっただけです。新薬のニュースがなかったら、たぶん――」
「運も、判断の内です」
セレスは立ち上がり、窓の穴の前に立った。朝の光が、銀髪を縁取る。
「それと、もうひとつ。王都の大観測塔から、夜明け前に早馬が届きました」
彼女は一枚の紙を差し出した。
銀の線が波打つ、観測記録。
見覚えのある形だった。
夜半過ぎに跳ね上がり、急落し、そして明け方に持ち直す――昨夜の俺と、ほとんど同じ揺らぎ。
ただし、観測地点は、この村ではなかった。
「東方の国境地帯。昨夜、あなたとまったく同じ時刻に、まったく同じ形で揺らいだ魔力がもうひとつ」
「……俺以外にも、誰か来てるってことですか」
「それを確かめるのが、次の私の仕事です」
セレスは振り返り、ほんのわずかに口角を上げた。
「そして、あなたの仕事でもあります。同行していただきますよ、"ソンギリの魔導士"殿」
「その二つ名、やめてもらえませんか」
朝日の中で、スマホの画面だけが、静かに次の通知を待っていた。




