第六章 卒業制作
大学四年の春、卒業制作のテーマを決める時期がやってきた。
これまで以上に大きな作品を、自分の手で作り上げる最後の機会である。
教授からは、それぞれが「人生をかけて撮りたいもの」を提出するようにと言われていた。
わたくしは、何日も考え込んだ。
父の言葉が、ずっと頭の中に残っていたからだ。
「お前の中には、まだ語っていない物語がある」
その言葉の答えは、すでに分かっていた。
けれど、それを本当に形にする覚悟が、まだ自分の中になかった。
前世の記憶を、フィクションという形であっても、表に出すこと。
それは、忘れようとしていた傷口を、自ら切り開くような行為に思えた。
それでも、わたくしは決めた。
今、向き合わなければ、きっと一生向き合えない。
卒業制作の企画書に、わたくしはこう書いた。
タイトルは『悪役令嬢』。
婚約破棄され、処刑される公爵令嬢の物語。
誰にも信じてもらえないまま死んでいく、孤独な少女の話。
企画発表の日、わたくしはクラス全員の前で、その内容を説明した。
教室には、緊張した空気が流れていた。
発表を聞き終えた指導教授は、少し困ったような表情を浮かべた。
「流行りの異世界ものですね」
その言葉に、わたくしの胸がぎゅっと締め付けられた。
今、世間では異世界転生や悪役令嬢を題材にした作品が、数多く生み出されている。
だからこそ、教授の反応は無理もないものだった。
けれど、わたくしには、どうしても譲れない一線があった。
「違います」
きっぱりと言い切った声に、教室がわずかにざわついた。
「これは、流行りの設定ではありません」
「わたくしが、見た世界です」
その言葉に、教授は怪訝そうな顔をした。
クラスメイトたちの中にも、戸惑いの色を浮かべる者が何人かいた。
無理もない。
これでは、まるで自分が本当に異世界で生きていたと主張しているようなものだ。
「黒崎さん、それはどういう意味ですか」
教授に問われ、わたくしは答えに窮した。
前世の記憶があるなどと、正直に話せるはずもない。
わたくしは、言葉を選びながら、なんとか説明を続けた。
「うまく言葉にできません」
「ですが、この物語は、わたくしの中にずっとあったものなんです」
「他の誰かが考えた設定を借りたわけではないんです」
教室の空気は、依然として懐疑的だった。
それでも、教授はそれ以上深く追及することなく、企画を承認してくれた。
「とにかく、形にしてみなさい」
「言葉で説明できないなら、映像で証明するしかありません」
その言葉を胸に、わたくしは制作に取りかかった。
脚本を書く作業は、これまでで最も苦しいものになった。
婚約破棄の場面を書こうとすると、手が止まる。
処刑台の場面に至っては、何度書き始めても、途中で続けられなくなった。
夜中に目が覚め、冷や汗をかいていることが何度もあった。
あの夜会の光景が、夢の中で鮮明に再生される。
セドリック様の冷たい声。
エルフィーネの涙。
群衆の好奇の視線。
誰にも届かなかった、最後の願い。
それでも、わたくしは書き続けた。
逃げ出したい気持ちを抑えながら、一行ずつ、言葉を紡いでいった。
撮影は、限られた予算と機材の中で行われた。
キャストには、同じ学年の演劇科の学生に協力してもらった。
主演を演じてくれたのは、これまで何度か共同制作をしたことのある女子学生だった。
彼女に脚本を渡した時、彼女は読み終えてすぐに、わたくしの元へやってきた。
「黒崎さん、この役……すごく重いね」
その言葉に、わたくしは頷くしかなかった。
「演じきれるか、正直自信がない」
「でも、やってみたい」
撮影が始まると、現場には独特の緊張感が漂った。
婚約破棄の場面を撮影する日、主演女優は何度もテイクを重ねた。
けれど、わたくしの求める表情には、なかなか辿り着けない。
「もっと、何かが違う気がするの」
主演女優は、休憩中にそうつぶやいた。
わたくしは、彼女の隣に座り、静かに言葉を選んだ。
「裏切られた怒りだけじゃないんです」
「信じていた世界が、足元から崩れていく感覚」
「それでも、誰かに分かってほしいという、諦めきれない願い」
説明しながら、わたくしの声が震えた。
それに気づいた女優が、わたくしの顔を覗き込んだ。
「黒崎さん、本当にこの話、知ってるみたいな話し方するね」
ドキリとした。
わたくしは、なんとか平静を装って答えた。
「物語を作る時は、いつも自分のことのように考えるようにしているの」
女優はそれ以上深く聞いてはこなかった。
ただ、何かを感じ取ったように、台本を見つめ直していた。
その後の撮影で、彼女の演技は明らかに変わった。
単なる悲しみの表現ではなく、もっと複雑な感情の機微が、表情に宿るようになった。
編集作業も、すべて自分の手で行った。
撮影した素材を何度も見返しながら、最も伝わる繋ぎ方を模索する。
父から教わった編集の技術が、ここで存分に活きた。
完成までに要した時間は、想像以上に長かった。
徹夜の作業が続き、心身ともに限界に近づいていた時期もある。
けれど、完成した作品を初めて通しで見た時、わたくしの目から涙がこぼれた。
そこに映っていたのは、確かに前世のわたくし自身だった。
名前も設定も変えてはあるが、込めた感情は、紛れもなく本物だった。
卒業制作の上映会は、大学の講堂で行われた。
わたくしの作品は、上映順としては中盤に組まれていた。
スクリーンに自分の作った映像が映し出される瞬間、心臓が早鐘を打つ。
上映が終わった後、講堂は静まり返った。
誰も拍手をしない時間が、永遠のように長く感じられた。
不安が胸を満たしかけた、その時。
一人の学生が、立ち上がって拍手を始めた。
それに続くように、講堂全体が拍手で満たされていった。
中には、涙を拭っている学生の姿もあった。
その年の卒業制作の中から、わたくしの『悪役令嬢』は、学内最優秀賞に選ばれた。
さらに、海外の学生映画祭への出品も決定した。
授賞式の壇上に立った時、わたくしは会場を見渡した。
これまで、誰にも届かなかったはずの物語が、今、確かに誰かの心を動かしている。
その実感が、胸の奥に温かく広がっていった。
前世の記憶は、もう恐怖だけのものではなくなっていた。
それは、わたくしだけが持つ、唯一無二の物語の源泉になっていたのだ。
壇上の照明を浴びながら、わたくしは静かに誓った。
この物語を、いつか必ず、本当の意味で完成させるのだと。




