第三章 名匠の英才教育
五歳の誕生日を迎えた朝、わたくしは父に呼ばれて撮影所へ向かった。
いつもとは違う空気を感じていた。
父の表情が、これまでよりも引き締まって見えたからである。
撮影所の控室に着くと、父はわたくしの前にしゃがみ込んだ。
目線を合わせ、静かに言った。
「今日から、お前を現場で働かせる」
わたくしは驚いて、父の顔を見つめ返した。
働く、という言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
「監督の娘だからといって、特別扱いはしない」
「他の見習いと、同じことをやってもらう」
父の声には、いつもの優しさはなかった。
ただ、揺るぎない決意のようなものが滲んでいた。
わたくしは、こくりと頷くしかなかった。
その日から、わたくしの撮影所での日々は一変した。
これまでは遊び場だった場所が、仕事場へと姿を変えたのである。
最初に任されたのは、カチンコだった。
助監督の一人が、カチンコの持ち方を教えてくれた。
両手でしっかりと支え、声を合わせて打ち鳴らす。
最初の数回は、手が震えてうまく音が鳴らなかった。
「テイク3、本番」
声を張り上げ、カチンコを鳴らす。
パチン、という乾いた音が、静まり返ったスタジオに響いた。
父がカメラの脇から、わたくしの方をちらりと見た。
何も言わなかったが、その視線には、確かな観察の色があった。
カチンコの仕事に慣れてくると、次は台本整理を任された。
撮影用の台本は、何百ページもある分厚い束だ。
それを場面ごとに仕分け、書き込みを正確に書き写す。
幼いわたくしには、漢字を読むのも一苦労だった。
けれど、前世での貴族としての教育のおかげか、文字を覚える速度は早かった。
助監督たちは、その様子を見て驚いていた。
「美月ちゃん、五歳でこんなに読めるなんてすごいね」
褒められることは嬉しかったが、わたくしはそれよりも、台本の中身そのものに夢中になっていた。
セリフの一つ一つに、人物の感情が込められている。
それを読み解くことが、何よりも楽しかった。
役者たちへの飲み物配りも、わたくしの仕事の一つになった。
小さなトレイにペットボトルの水やお茶を乗せ、休憩中の役者の元へ運ぶ。
最初は緊張して、トレイを落としそうになったこともある。
ある日、主演女優のもとへお茶を運んだ時のことだ。
彼女は撮影の合間、台本を見つめながら、何か思い詰めたような表情をしていた。
わたくしは、思わず声をかけた。
「悲しい場面なのですか」
女優は驚いたように、わたくしを見た。
それから、少し困ったように微笑んだ。
「そう、なんだけど……どう演じればいいか、迷ってて」
わたくしは、台本に書かれた場面を覗き込んだ。
登場人物が、大切な人を失う場面だった。
わたくしの中に、前世の記憶がよぎる。
誰にも理解されなかった、あの絶望の感覚が。
「悲しい顔をするだけでは、足りないと思います」
「悲しい出来事を、本当に思い出してみてください」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。
五歳の子供が言うには、あまりにも大人びた助言だったからだ。
けれど、女優は何かを感じ取ったような顔をして、台本を見つめ直した。
撮影が再開され、その場面が撮られることになった。
カメラが回り、女優が演技を始める。
わたくしは現場の隅から、その様子を見守っていた。
女優の表情が、それまでとはまるで違っていた。
台詞を発する声に、本物の震えが宿っている。
やがて、彼女の頬を、一筋の涙が伝った。
演技とは思えないほど、自然な涙だった。
監督席に座る父が、ゆっくりと立ち上がった。
カットの声をかけた後、父は珍しく現場が静まり返るほどの間を置いた。
それから、わたくしの方を振り返った。
父がわたくしを、まっすぐに見つめたのは、その時が初めてだったように思う。
それまでの父の視線は、いつも遠くにあるようなものだった。
けれど、その瞬間だけは違った。
わたくしの存在そのものを、確かめるような目だった。
撮影が終わった後、父はわたくしを呼んだ。
二人きりになった控室で、父は静かに尋ねた。
「さっき、女優に何と言った」
わたくしは、正直に答えた。
「悲しい出来事を、思い出してくださいと言いました」
父は腕を組み、しばらく黙り込んだ。
それから、低い声でつぶやいた。
「五歳の子供が、なぜそんなことを思いつく」
その問いに、わたくしは答えることができなかった。
前世の記憶があるからだと、正直に言えるはずもない。
わたくしは俯いて、ただ黙っていた。
父はそれ以上、深く追及することはなかった。
ただ、何かを納得したように、小さく頷いただけだった。
それから数日後、現場での休憩中に、父がわたくしの隣に腰を下ろした。
珍しいことだった。
普段、父はわたくしに自分から話しかけることは少ない。
「美月」
「映画とは何だと思う」
唐突な問いに、わたくしは戸惑った。
少し考えてから、自分なりの答えを口にした。
「人の心を、動かすものだと思います」
父は首を横に振った。
「違う」
わたくしは、父の言葉の続きを待った。
父は、撮影所の天井を見上げながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「映画は芸術じゃない」
その言葉に、わたくしは驚いて父を見た。
これまで、父の作品が世界中で芸術として称賛されているのを、何度も聞いてきたからだ。
「え?」
問い返すと、父は視線をわたくしへと移した。
その目には、長年映画を撮り続けてきた者だけが持つ、深い確信があった。
「人間を映すものだ」
その一言が、わたくしの胸に深く刻まれた。
映画とは、技術でも、美しい映像でもない。
そこに生きる人間を、ありのままに映し出すこと。
それこそが、父の信じる映画の本質なのだと、わたくしは初めて理解した気がした。
前世のわたくしは、誰にも自分の真実を聞いてもらえなかった。
処刑台の上で叫んだ声は、誰の耳にも届かなかった。
けれど、もし映画という形であれば、人の心に届けることができるのではないか。
父の言葉を聞きながら、わたくしの中で、その思いが少しずつ確かなものになっていった。
撮影所の空には、夕暮れの茜色が広がっていた。
父はゆっくりと立ち上がり、再び現場へと戻っていった。
わたくしは、その背中を見つめながら、自分もいつか、この場所で何かを成し遂げたいと強く思った。
人間を映す仕事。
その言葉の重みを、まだ完全には理解できていなかったかもしれない。
けれど、確かな種が、わたくしの心の中に蒔かれた瞬間だった。




