第二章 映画監督の娘
意識が戻った時、わたくしは知らない部屋の天井を見上げていた。
白く塗られた天井には、見覚えのない照明器具が取り付けられている。
体は小さく、力が入らない。
手を持ち上げてみると、それは赤ん坊の小さな手だった。
わたくしは、生まれ変わったのだと理解するまでに、長い時間を要した。
処刑された記憶は、はっきりと残っている。
あの日の青空も、群衆の声も、誰にも届かなかった最後の願いも。
けれど、今わたくしを包んでいるのは、見たこともない世界の温もりだった。
ここはさっきまでいた世界ではない。
窓の外に見える景色、聞こえてくる言葉、すべてが前世とは違う。
しばらくして理解する。
わたくしは、日本という国に生まれ変わったらしい。
名前は、黒崎美月。
父は黒崎誠という、映画監督だという。
父の名は、物心つくと同時に幾度となく耳にした。
家政婦や親戚たちが、口々に言うのを聞いていたからだ。
「世界三大映画祭をすべて制覇した、唯一の日本人」
「映像の詩人」
そんな言葉が、わたくしの周りには常に漂っていた。
父の姿を初めて目にし鮮明に覚えているのは、三歳の頃である。
撮影所の片隅で、わたくしは乳母に抱かれながら、父の仕事を眺めていた。
父は寡黙な人だった。
現場では誰よりも厳しい目をしているが、声を荒らげることはほとんどない。
ただ静かに、役者やスタッフを見つめている。
母は脚本家だった。
父のすべての作品の脚本を、母が手掛けているという。
家では穏やかで優しい人だが、仕事の話になると、父と同じように真剣な顔つきになる。
両親は、互いを高め合うようにして、映画という芸術に人生を捧げていた。
わたくしが初めて映画館で映画を見たのは、四歳の誕生日のことだった。
父の最新作の試写会に、特別に連れて行ってもらったのである。
大きなスクリーン、暗い客席、響き渡る音楽。
すべてが、わたくしにとって初めての体験だった。
スクリーンに映し出されたのは、ある女性の半生だった。
貧しい家に生まれ、苦労を重ねながらも、最後には自分の居場所を見つける物語。
特別に劇的な展開があるわけではない。
ただ淡々と、一人の人間の人生が描かれているだけだった。
けれど、わたくしの目から、気づけば涙がこぼれていた。
隣に座っていた父が、それに気づいて、わたくしを見た。
「なぜ泣いた?」
父の声は静かだった。
わたくしは、頬を伝う涙を拭いながら、答えた。
「この人の人生を、見た気がしたから」
その言葉に、父は少し驚いたような顔をした。
それから、何かを確かめるように、わたくしの顔をじっと見つめた。
「この人の苦しみも、悲しみも、全部……自分のことのように感じました」
「映画なのに、本当にあった出来事みたいに思えたんです」
父は黙ってわたくしの言葉を聞いていた。
試写会が終わった後も、しばらく何も言わずに歩いていた。
やがて、駐車場へ向かう車の中で、父はぽつりとつぶやいた。
「この子には、映画を見る才能がある」
その言葉を、わたくしは後部座席のチャイルドシートの中で聞いていた。
意味は分からなかったが、父の声には、これまで聞いたことのない響きがあった。
それは、期待とも、驚きとも違う、何か特別な感情のように思えた。
その日を境に、父はわたくしを撮影所へ連れて行く回数を増やした。
最初は単なる気まぐれかと思っていたが、違った。
父は、わたくしに映画というものを、肌で感じさせようとしていたのだ。
撮影所は、わたくしにとって遊び場になった。
精神が年齢に引っ張られたせいか少し幼くなっていたせいもある。
大道具や小道具の倉庫を駆け回り、セットの中で隠れんぼをする。
スタッフたちは、わたくしを「監督の娘」として可愛がってくれた。
けれど、父だけは違った。
父は、わたくしを特別扱いすることがなかった。
ある日、わたくしが撮影中のセットに入り込み、カメラの前で遊んでいた時のことだ。
照明スタッフが慌てて止めようとしたが、父はそれを制した。
「いい、そのままにしておけ」
父はわたくしを見つめながら、撮影監督に何かを指示していた。
後で聞いた話によると、その時の映像の一部が、実際の作品に使われたのだという。
子供の無邪気な動きが、ちょうど作品の一場面に必要だったらしい。
前世の記憶は、年齢を重ねるごとに薄れることはなかった。
むしろ、はっきりと残り続けた。
婚約破棄された夜のこと。
処刑台で見上げた青空のこと。
誰にも届かなかった最後の言葉のこと。
その記憶があるからこそ、わたくしは映画というものに、特別な感情を抱くようになっていた。
映画は、人の人生を映すものだ。
誰にも聞かれなかった声を、映像という形で残すことができる。
そう気づいた時、わたくしの中で何かが定まった気がした。
五歳になる少し前、父はわたくしを書斎に呼んだ。
書斎には、父がこれまで撮ってきた作品のフィルムや脚本が、所狭しと並んでいる。
父は本棚から一冊の脚本を取り出し、わたくしの前に置いた。
「読めるか」
漢字はまだ読めなかったが、わたくしは頷いた。
前世の記憶のおかげか、文字を理解する力は、同年代の子供よりも進んでいるようだった。
父はそれを見て、何かを考えるような表情をした。
「美月、お前は普通の子供とは違うようだな」
その言葉に、わたくしは一瞬どきりとした。
前世のことを、見抜かれてしまったのだろうか。
けれど、父はそれ以上深く追及することはなかった。
ただ静かに、脚本のページをめくって見せてくれただけだった。
「映画は、嘘をつく」
「だからこそ、真実を映せる」
それが、父の口癖だった。
わたくしには、まだその言葉の本当の意味は分からなかった。
けれど、いつかその意味を理解する日が来るのだろうと、漠然と感じていた。
夜、自室のベッドに横たわりながら、わたくしは天井を見つめた。
前世で誰にも聞いてもらえなかった、わたくしの真実。
それを、今度はどうやって伝えればいいのだろう。
答えはまだ見えなかったが、確かな予感だけが、胸の中にあった。
いつか、わたくしは自分の人生を、映画にする。
そう心に決めたのは、この頃のことだったように思う。
窓の外には、前世とは違う星空が広がっていた。
その星々を見つめながら、わたくしは静かに眠りについた。




