第一章 婚約破棄の夜
王城の大広間は、シャンデリアの光で眩いほどに輝いていた。
今夜は建国記念の夜会。
わたくし、リリアーナ・フォン・エーデルシュタインは、婚約者である王太子セドリック殿下のエスコートを受け、会場の中央に立っていた。
ドレスは新しく仕立てたものだ。
深紅のシルクに、銀の刺繍が施されている。
母が遺してくれた宝石を、今夜だけは身に着けることを許された。
すべては、今宵の夜会のために整えたものである。
けれど、わたくしの胸には、言いようのない不安が渦巻いていた。
ここ数ヶ月、セドリック様はわたくしを避けるようになっていた。
手紙の返事も遅く、会えば視線をそらされる。
理由を尋ねても、はぐらかされるばかりだった。
オーケストラの音楽が止んだ。
会場がざわめく。
セドリック様が、わたくしの手を離し、一歩前に出た。
「リリアーナ・フォン・エーデルシュタイン」
セドリック様の声は、いつもより低く、硬い。
わたくしは胸騒ぎを覚えながら、彼を見上げた。
「お前との婚約を、ここに破棄する」
会場が静まり返った。
誰かが息を呑む音が聞こえる。
わたくしは、自分の耳を疑った。
「……殿下、それはどういう」
問いかけようとしたわたくしの言葉を遮るように、セドリック様の背後から一人の女性が進み出た。
銀の髪に、青い瞳。
聖女の証である光の紋章が、彼女の手の甲に淡く浮かんでいる。
聖女エルフィーネ。
半年前、隣国から保護されてきた娘だった。
エルフィーネは、わたくしを見つめると、瞳に涙を浮かべた。
「リリアーナ様……どうしてあんなことを」
彼女の声は震えている。
まるで、本当に傷ついているかのように。
「わたくし、何のことを言われているのか分かりません」
わたくしは必死に言った。
けれど、エルフィーネは首を振り、セドリック様の腕にすがりついた。
「彼女は、わたくしの食事に毒を盛りました」
「それだけではありません……夜会の前に、わたくしを階段から突き落とそうとしたのです」
会場がどよめいた。
貴族たちの視線が、一斉にわたくしへ突き刺さる。
わたくしは言葉を失った。
そんなことをした覚えは、一度もない。
「違います、わたくしはそのようなことは一切していません」
声を張り上げたが、誰もわたくしの言葉に耳を貸そうとしなかった。
セドリック様は、エルフィーネを庇うように抱き寄せ、わたくしを冷たい目で見据える。
「証拠はすでに揃っている」
「お前の侍女が証言した。お前が毒草を購入したと」
侍女、と聞いて、わたくしは目を見開いた。
あの侍女は、先月急に暇を申し出て屋敷を去った娘である。
何か裏があったのだと、今になって気づく。
けれど、もう遅かった。
会場の貴族たちは、口々にわたくしを非難し始めた。
「公爵令嬢ともあろう方が」
「聖女様に何ということを」
そんな声が、波のように押し寄せてくる。
わたくしは、助けを求めるように周囲を見渡した。
視界の端に、父の姿があった。
エーデルシュタイン公爵、わたくしの父。
わたくしは縋るような思いで、父に目を向けた。
けれど、父はわたくしと目を合わせようとはしなかった。
ただ静かに、眉間に皺を寄せて立っているだけである。
夜会の翌日、わたくしは王城の地下牢へと連れていかれた。
そこから始まった裁判は、裁判という名の儀式に過ぎない。
証人として呼ばれたのは、屋敷を去った侍女と、エルフィーネに近しい貴族たちばかり。
わたくしの弁護を申し出る者は、誰一人として現れなかった。
裁判の最終日、父がわたくしの元を訪れた。
牢の鉄格子越しに、父はわたくしを見た。
わたくしは一筋の希望を抱いて、父に手を伸ばした。
「お父様、助けてください。わたくしは何もしていません」
父は、しばらく沈黙していた。
そして、絞り出すように言った。
「すまない、リリアーナ」
「これは、家の名誉のためだ」
その言葉の意味を、わたくしはすぐには理解できなかった。
父は続けた。
「お前が罪を認めれば、エーデルシュタイン家は存続できる」
「もしお前が無実を主張し続ければ、一族すべてが連座することになる」
わたくしは、目の前が真っ暗になった。
父は、わたくしを助けるためにここへ来たのではない。
わたくしを諦めさせるために来たのだった。
「お父様……わたくしの話を、聞いてくださいませんか」
声が震える。
父は目を伏せ、踵を返した。
「すまない」
その一言を残し、父は牢から去っていった。
足音が遠ざかっていくのを、わたくしはただ聞いているしかない。
誰も、わたくしの話を聞いてはくれなかった。
ただひたすらに、孤独だけがそこにあった。
処刑の日は、抜けるような青空だった。
こんな日に、自分が死ぬのかと思うと、不思議なほど現実感がない。
広場には、大勢の民衆が集まっていた。
わたくしを見るために。
わたくしが裁かれる様を、見世物のように楽しむために。
処刑台へと続く階段を、わたくしは一段ずつ上った。
足は震えていたが、不思議と涙は出ない。
階段の上から見下ろした群衆の中に、セドリック様とエルフィーネの姿があった。
二人は寄り添い、わたくしを見上げている。
その目に、罪悪感の色は一切なかった。
処刑人がわたくしの前に立った。
最後の言葉を、と促される。
わたくしは群衆を見渡した。
誰も彼もが、わたくしを哀れむでもなく、ただ好奇の目で見つめているだけだった。
「誰か……わたくしの話を、聞いてください」
声を振り絞って言った。
けれど、その願いは誰にも届かない。
群衆はざわめくばかりで、誰一人として手を挙げる者はいなかった。
セドリック様も、エルフィーネも、父でさえも、目をそらした。
わたくしは、空を見上げた。
最後に見た青空の色を、今でも覚えている。
誰にも聞かれることのなかった、わたくしの真実。
それを誰かに伝えられないまま、わたくしの意識は、暗闇の中へと沈んでいった。




