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第十六章 カンヌ

カンヌへ向かう飛行機の中で、わたくしはほとんど眠れなかった。

隣の席では、プロデューサーが毛布を被って静かに目を閉じている。

機内の灯りは落とされ、窓の外には夜の雲海が広がっていた。

世界三大映画祭の一つ、カンヌ国際映画祭。

その名前は、子供の頃から幾度となく耳にしてきた。

父がパルム・ドールを受賞した映像を、何度も見て育った。

まさかその舞台に、自分が立つ日が来るとは、思いもしなかった。

いや、思っていなかったわけではないかもしれない。

ただ、それが現実になるとは、信じ切れていなかった。

窓の外の暗闇を見つめながら、わたくしはこれまでの道のりを振り返った。

前世の記憶から始まり、転生し、映画を学び、撮り、編集し、試写会を経て、今この場所にいる。

その長さを思うと、胸の奥に不思議な感慨が広がった。

カンヌに着いたのは、上映の三日前だった。

南フランスの陽光は明るく、海の青さは息を呑むほど美しかった。

街全体が映画祭の熱気に包まれており、あちこちに各国の作品のポスターが貼り出されている。

父も同行していた。

ホテルのロビーで合流した父は、いつも通りの寡黙な様子だったが、どこか違う空気を纏っていた。

この場所への親しみと、それでも緊張を纏う娘への静かな眼差しが、混ざり合っているような気がした。

 

「緊張しているか」

 

父が、夕食の席でぽつりと言った。

 

「しています」

 

正直に答えた。

隠す必要もなかった。

 

「するだろうな」

 

父はそれだけ言い、グラスを口に運んだ。

慰めでも、励ましでもない。

ただ、肯定してくれる一言だった。

その素っ気なさが、かえって心を落ち着かせてくれた。

上映前日の夜、わたくしは一人でビーチへ出た。

街の喧騒から少し離れた場所に、静かな砂浜があった。

波の音だけが、暗い海から聞こえてくる。

明日、この映画を世界に向けて上映する。

その事実を、一人で噛み締める時間が必要だった。

前世のリリアーナは、誰にも話を聞いてもらえないまま死んでいった。

その魂が今、黒崎美月として生き、自分の人生を映画にした。

その映画が、明日、世界中の映画人の前でスクリーンに映し出される。

波打ち際に立ち、わたくしは静かに目を閉じた。

前世の自分へ、心の中で語りかけた。

明日、ようやく届ける。

あの日、誰にも聞いてもらえなかった話を。

上映当日の朝、わたくしは早く目が覚めた。

鏡の前で身支度を整えながら、自分の顔を見つめた。

緊張しているが、怖くはない。

それよりも、もっと別の感情が胸の中心にあった。

会場となるパレ・デ・フェスティバルには、大勢の映画関係者が集まっていた。

世界各国からジャーナリストやプロデューサー、監督たちが、波のように押し寄せている。

わたくしは、プロデューサーと父と共に、上映会場へと向かった。

客席に案内され、わたくしは最前列近くの席に座った。

会場は広く、数百人を収容できるほどの規模だった。

その席が、ほぼすべて埋まっている。

照明が落ち始めた。

わたくしは、自分の手が膝の上で小さく震えているのに気づいた。

深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

スクリーンが光を持ち始めた。

映画が始まる。

上映の間、わたくしは観客の方を向いたまま、スクリーンを直接見ることができなかった。

いや、正確には見ていたが、映像よりも客席の空気の変化を感じ取ることに、意識が向いていた。

婚約破棄の場面で、前方の席の人物がわずかに姿勢を変えた。

裁判の場面が続くにつれ、会場の静寂の質が変わっていく。

ざわつきではなく、息を止めるような静けさが、少しずつ広がっていく感覚だった。

処刑の場面に差し掛かった頃、わたくしは隣に座るプロデューサーを見た。

プロデューサーは、スクリーンに釘付けになったまま、微動だにしなかった。

その横顔に、涙の光が見えた気がした。

やがて、エンドロールが流れ始めた。

静かな音楽とともに、白い文字がスクリーンに流れていく。

わたくしの心臓は、激しく打ち続けていた。

エンドロールが終わり、スクリーンが暗転した。

会場が、静まり返った。

カンヌの観客は、世界でも特別に映画を見慣れた人々だ。

安易な感動で立ち上がったりはしない。

その沈黙が、何を意味するのか、わたくしには判断できなかった。

一秒が、永遠のように感じられた。

最初に立ち上がったのは、後方の席に座っていた一人の女性だった。

彼女がゆっくりと立ち上がり、手を叩き始めた。

その音は、最初は小さかった。

けれど、その音に呼応するように、隣の席の人物が立ち上がった。

さらにその隣も、前の列も、後ろの列も。

波が砂浜を浸すように、スタンディングオベーションが会場全体に広がっていった。

拍手の音が、会場の天井に響き渡る。

その音は、数秒ごとに大きくなっていく。

五分が過ぎた。

十分が過ぎた。

それでも、拍手は続いた。

わたくしは、立ち上がることができなかった。

足に力が入らなかったのではなく、この光景を、座ったままの目線でしっかりと見届けたかったのだ。

会場を埋め尽くす人々が、一斉に立ち上がり、手を叩き続けている。

その光景が、滲んで見えた。

涙をこらえようとしたが、もう無理だった。

静かに、頬を伝う涙を、そのままにした。

前世のわたくしは、処刑台の上で叫んだ。

誰か、話を聞いてください。

その声は、誰にも届かなかった。

けれど今、この会場の全員が、その声を映画という形で受け取ってくれた。

立ち上がって、手を叩くことで、確かに届いたと伝えてくれている。

二十分近くが経った頃、拍手がようやく落ち着き始めた。

照明が戻り、会場がざわめきに包まれる。

各国語が飛び交う中に、笑顔や、涙を拭う仕草が散らばっていた。

上映後の囲み取材の場が設けられた。

世界各国のジャーナリストや映画関係者が、わたくしを取り囲む。

カメラのフラッシュが、絶え間なく光る。

さまざまな言語で、さまざまな質問が飛んできた。

プロデューサーが通訳を挟みながら、一つ一つに答えていく。

脚本の背景について、主演女優の演技について、上映時間への意図について。

そして、審査員の一人が、わたくしの前に進み出た。

白髪の、穏やかな目をした老人だった。

その眼差しは、好奇心と、何か確かめたいものを持った光を宿していた。

彼は、通訳を通さず、ゆっくりとした英語で尋ねた。

 

「This film — is it based on a true story?」

 

これは実話なのか、という問いだった。

会場が、その言葉を受けて静かになった。

多くの人が、わたくしの答えを待っていた。

わたくしは、少しの間、その問いを胸の中で転がした。

実話か、否か。

その答えは、簡単なようで、単純ではない。

やがて、わたくしは静かに口を開いた。

 

「No」

 

一度そう言ってから、続けた。

 

「But for me, it was real」

 

通訳がそれを日本語に変換する前に、その場にいた多くの人が、意味を受け取ったようだった。

会場のあちこちで、小さなどよめきが起きた。

審査員の老人は、わたくしの答えをしばらく噛み締めるように黙っていた。

それから、深く頷き、静かに微笑んだ。

その夜の授賞式のことは、今でも鮮明に覚えている。

パルム・ドールの発表が近づくにつれ、わたくしの心拍数は上がり続けた。

正直に言えば、受賞できると思っていなかった。

これほど長く、重く、商業的でない作品が、最高賞を受けることはないだろうと、どこかで考えていた。

パルム・ドールの受賞作品が読み上げられた瞬間のことを、うまく言葉にすることができない。

自分の映画のタイトルが、会場に響いた時、最初は自分の耳を疑った。

隣に座っていたプロデューサーが、わたくしの腕を掴んで立ち上がった。

 

「黒崎さんっ」

 

その声が、遠くから聞こえるようだった。

ステージへ向かう足は、不思議と震えなかった。

むしろ、一歩一歩が、とても確かな感触を持っていた。

スポットライトの中に立ち、トロフィーを受け取った。

マイクの前に立ち、スピーチを始めた。

用意していた言葉は、頭の中から消えていた。

わたくしは、ただ思ったことを、そのまま口にした。

 

「この映画は、誰かに話を聞いてほしかった一人の人間の、記録です」

「その声が、今夜この場所に届いたことを、心から嬉しく思います」

 

それだけ言うと、会場からまた拍手が起きた。

ステージを降りた後、父がわたくしの前に立っていた。

関係者エリアの隅に、静かに佇んでいた。

周囲の喧騒から少し離れた、人の少ない場所だった。

父の顔を見た瞬間、また涙が出そうになった。

こらえようとしたが、父の目を見ていると、どうにも止まらなかった。

父は、わたくしをまっすぐに見た。

その表情は、いつも通りに近かった。

けれど、口元に、ほんの僅かな変化があった。

 

「おめでとう」

 

父が、その言葉を口にした。

これまでの人生で、父にそう言われたのは初めてのことだった。

入学の時も、受賞の時も、父はいつも別の言葉を選んできた。

直接、おめでとうと言われたことは、一度もなかった。

わたくしは、涙をこらえきれなかった。

泣くまいと思っていたのに、父のその一言で、堰が切れてしまった。

声が出そうで、口を強く結んだ。

父は何も言わなかった。

ただ、わたくしが落ち着くまで、そこに立っていた。

しばらくして、涙が引いてきた。

わたくしは、目元を拭いながら、父を見上げた。

 

「ありがとうございます」

 

掠れた声で言った。

父は短く頷いた。

それだけで、十分だった。

授賞式の後、関係者のパーティーが続いた。

各国の映画人たちが、わたくしに声をかけてくれた。

言語が違っても、その目に宿る熱は、同じものだった。

夜が深まった頃、わたくしは人の輪を少し離れ、テラスへ出た。

地中海の夜風が、頬を撫でる。

星が、驚くほど多く見えた。

手の中のトロフィーを、静かに見つめた。

冷たく、重く、確かな質感がある。

これは、夢ではない。

前世のリリアーナは、処刑台の上で消えていった。

誰にも届かなかったまま。

けれど今、その魂の記憶が、世界でもっとも権威ある映画祭で認められた。

テラスの手すりに寄りかかりながら、わたくしは静かに夜空を見上げた。

南フランスの星々は、前世の異世界でも、現代日本でも見てきた星とは違う配置をしていた。

それでも、見上げるという行為は、どこにいても同じだ。

届いた、という実感がじわじわと全身に広がっていった。

前世で誰にも届かなかった声が、今夜、世界に届いた。

その事実だけで、わたくしはこの人生に来た意味を、確かに感じることができた。

しかし、物語はここで終わりではなかった。

わたくしにはまだ、知らないことが待っていた。

この映画が、想像をはるかに超えた場所へ、旅立とうとしているということを。

その夜のわたくしは、まだそれを知らなかった。

ただ、地中海の風を受けながら、静かに星を見上げていた。










注:このエピソードにおける英語セリフの部分はグーグル翻訳を使用しています。

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