第十五章 父の勝負
試写会から三日が経った。
その間、わたくしは会社からの連絡を待ちながら、自宅で過ごしていた。
編集作業が終わり、撮影も終わり、これまで常に何かに追われていたわたくしにとって、何もしない時間というのは、かえって落ち着かないものだった。
プロデューサーからは、検討中という短い連絡が入っただけだ。
興行部長の言葉は、会社の中でも一定の重みを持っているはずだ。
二百十分という上映時間の問題、救いのない結末への懸念、新人監督という実績の薄さ。
それらのハードルを、どう乗り越えるのか。
答えは、まだ見えてこなかった。
母は、心配そうにわたくしの様子を窺っていた。
食事の時に声をかけてくれ、夜には書斎から出てきて隣に座ってくれる。
それだけで、少し気持ちが楽になった。
四日目の朝、父が珍しく朝食の席に姿を現した。
父はもともと朝が早く、家族が起きる前に出かけてしまうことが多い。
食卓で父と向き合う朝は、めったにないことだった。
父は、わたくしの向かいに腰を下ろし、黙って食事を始めた。
特別なことを話すつもりはないのかもしれない。
わたくしも、何も言わずに食事を続けた。
しばらくして、父が箸を置いた。
視線を上げると、父がわたくしを見ていた。
「今日、会社に行く」
短い一言だった。
わたくしは、その言葉の意味を測りかねながら、頷いた。
「わたくしも、同席したほうがよいでしょうか」
父は首を振った。
「来なくていい」
それだけ言うと、父は再び食事を再開した。
その表情からは、何を考えているのか読み取ることができない。
わたくしは、何か言いたい気持ちを抑えながら、黙って父の横顔を見つめた。
父が出かけた後、わたくしは自室で脚本の読み返しをしながら時間を過ごした。
正確には、脚本を手に持ちながら、文字が頭に入ってこない状態だった。
窓の外を、雲が流れていく。
秋の空は高く、澄んでいた。
昼過ぎになって、プロデューサーから電話が入った。
着信を見た瞬間、胸が跳ねる。
深呼吸をしてから、電話に出た。
「黒崎さん、今日の午後、会社に来ていただけますか」
プロデューサーの声は、いつもより少し硬かった。
良い知らせなのか、悪い知らせなのか、声のトーンからだけでは判断できない。
「はい、すぐに向かいます」
会社に着くと、プロデューサーが入口で待っていた。
その表情は、電話の時よりも明らかに違った。
どこか興奮を抑えているような、妙な張り詰め方をしていた。
「黒崎さん、会議室へ」
案内されるまま、廊下を歩く。
会議室のドアを開けた瞬間、わたくしは足を止めた。
テーブルの上座に、父が座っていた。
その隣には、会社の代表取締役と、興行部長の姿がある。
さらに、見覚えのない人物が二人、向かいの席に座っていた。
父はわたくしの顔を見ると、静かに隣の椅子を引いた。
「座れ」
わたくしは、何が起きているのかを把握できないまま、父の隣に腰を下ろした。
プロデューサーも、静かに末席についた。
代表取締役が、口を開いた。
「黒崎さん、今日お呼びしたのは、『悪役令嬢』の配給についての話です」
その言葉に、わたくしは背筋を伸ばした。
「先日の試写会以降、社内でもさまざまな意見が出ていました」
「その中で、今日、大きな動きがありまして」
代表取締役は、向かいに座る二人の人物を手で示した。
「こちらは、海外の映画配給会社からいらした方々です」
そこまで聞いて、わたくしはようやく状況の輪郭を掴み始めた。
海外の配給会社が、なぜここにいるのか。
誰が、彼らをここへ呼んだのか。
視線が、自然と父へと向かった。
父は、静かに腕を組んだまま、視線をテーブルの向こうへ向けていた。
配給会社の代表者が、流暢な日本語で話し始めた。
「先日、黒崎誠監督から直接ご連絡をいただきまして」
「映像をお送りいただき、拝見いたしました」
父が、自分から連絡を取ったのだ。
わたくしは、その言葉を聞きながら、胸の奥に熱いものが広がっていくのを感じた。
「率直に申し上げて、これほどの作品は、そうそう見られるものではありません」
「我々としては、ぜひ世界への配給をお手伝いさせていただきたいと思っています」
その言葉が耳に入った瞬間、わたくしの頭の中が白くなった。
世界配給。
その言葉の重みを、すぐには受け止めることができなかった。
興行部長が、少し複雑な表情で口を開いた。
「上映時間の問題は、引き続き課題です」
「ただ、海外のアートシアター系の配給ルートであれば、二百十分という長さも、決して問題にならない可能性があります」
そう言いながらも、三日前とは明らかに態度が変わっていた。
難色を示すというよりも、現実的に可能性を模索しようとしている。
代表取締役が、改めてわたくしに向き直った。
「黒崎監督、いかがでしょうか」
わたくしは、答える前に父を見た。
父は、わたくしの視線を受けても、何も言わなかった。
ただ、静かにこちらを見ている。
その目に、わたくしは答えを見つけた気がした。
「よろしくお願いします」
声が、思いのほか落ち着いていた。
会議が終わり、配給会社の人々が帰っていった。
興行部長と代表取締役も、別の打ち合わせのために席を立った。
会議室に残ったのは、父とわたくし、それからプロデューサーの三人だった。
プロデューサーは、ほっとしたような表情で言った。
「黒崎誠監督が直接動いてくださるとは、思っていませんでした」
「さすがです」
そう言いながら、目を細めている。
プロデューサーが会議室を出ていくと、父とわたくしの二人きりになった。
わたくしは、父に向き直った。
何から言えばいいのか分からなかった。
胸の中に、あまりにも多くのものが詰まっていて、言葉にするのが難しかった。
「お父様」
声が出た瞬間、目の奥が熱くなった。
父は、静かにわたくしを見ている。
「どうして、そこまでしてくださったのですか」
問いかけると、父はわずかに眉を動かした。
「この映画は、私が責任を持つ」
それだけ言った。
短く、静かな一言だった。
それ以上の説明はなかった。
けれど、その一言の中に、父のすべての思いが込められているように感じた。
試写会の夜に父が言った言葉が、頭の中に蘇る。
「ならば、諦めるな」
あの言葉は、脅かしでも、励ましだけでもなかった。
父はすでに、行動を決めていたのだ。
涙が、溢れ出した。
こらえようとしたが、今度は間に合わなかった。
声を出さないように唇を噛んだが、肩が震えてしまう。
「ありがとう、ございます」
声が、ひどく掠れた。
目の前が滲んで、父の顔が歪んで見える。
「本当に、ありがとうございます」
もう一度言った。
それ以外に言えることが、何もなかった。
父は、黙ってわたくしの涙が収まるのを待っていた。
立ち上がりもせず、席を外しもしなかった。
ただ、静かにそこにいてくれた。
しばらくして、涙が落ち着いてきた。
わたくしは、目元を拭いながら、情けない顔のまま父を見た。
父の表情は、相変わらず読み取りにくいものだった。
けれど、その目の奥には、確かに温かいものが宿っていた。
「世界に出る以上、覚悟しておくことがある」
父は、静かに言葉を続けた。
「いろいろな人間が見る」
「感動する者もいれば、理解できない者もいる」
「批判する者もいれば、無視する者もいるだろう」
わたくしは、黙って父の言葉を聞いた。
「それでも、映画は映画として、ひとりで立つことができる」
「監督が傍にいなくても、スクリーンの上で、自分の言葉を語り続ける」
「それが、映画の力だ」
その言葉が、わたくしの胸の奥に静かに沈んでいった。
映画は、ひとりで立つことができる。
そうだ、そのために、あの痛みに耐えながら作り上げたのだ。
前世でわたくしが届けられなかった声を、この映画が代わりに語り続けてくれる。
スクリーンの前に座る誰かに向けて、何度でも、繰り返し。
「分かりました」
短く答えた。
その声は、もう震えていなかった。
父は、立ち上がって上着を手に取った。
会議室を出る前に、一度だけわたくしを振り返った。
「来週から、配給の打ち合わせが始まる」
「準備しておけ」
それだけ言って、父はドアを開けて廊下へ出ていった。
足音が遠ざかっていく。
わたくしは、会議室にしばらく残った。
テーブルの上に、打ち合わせの資料が置き忘れられていた。
海外配給会社のロゴが入った書類が、蛍光灯の光に照らされている。
この映画が、世界へと旅立つ。
その事実が、少しずつ、現実のものとして胸の中に広がっていった。
前世のわたくしは、処刑台の上で最後に言った。
誰か、話を聞いてください。
その声は、広場の空に消えていった。
けれど今、その声は映像となり、音となり、世界中のスクリーンで語られることになる。
どれほどの人に届くかは、まだ分からない。
それでも、届く可能性が生まれたのだ。
窓の外の空は、夕暮れに染まり始めていた。
茜色と藍色が混ざり合う、美しい空だった。
わたくしは、その色を見つめながら、前世で最後に見た青空を思い出した。
あの日の空も、美しかった。
誰にも届かなかった日の、抜けるような青空。
今日の夕焼けは、あの青空とは違う色をしている。
それでも、同じ空の下に、わたくしはいる。
今度は、違う結末へ向かいながら。
会議室を出て、廊下を歩きながら、わたくしは静かに深呼吸をした。
次のステップは、世界への配給だ。
その先に何が待っているか、まだ見えない。
けれど、父という確かな支えを背に、わたくしの足取りは迷いなかった。
この映画は、もうわたくし一人のものではない。
父の名前と、父の信念と、父の覚悟が、共にある。
その重さを、胸にしっかりと抱きながら、わたくしは次の扉へと歩を進めた。




