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第十四章 試写会

映画が完成したという実感は、不思議なことに、じわじわとしか湧いてこなかった。

編集室から素材が出力され、音楽が収録され、最終的なデータが整った。

そのすべてが終わった時、わたくしはただ静かに椅子に座っていた。

達成感というより、長い旅を終えた後の、静かな疲弊に近いものだった。

試写会の日は、完成から二週間後に設定された。

会場は、映画会社の本社ビルにある試写室である。

招待されたのは、会社の重役たちと、配給を検討しているという関係者たちだった。

合計で三十名ほどになるという話だった。

プロデューサーから事前に釘を刺されていた。

 

「重役の中には、最初からこの企画に懐疑的な方もいます」

「上映時間が二百十分というだけで、渋い顔をする方もいるでしょう」

 

その言葉の意味は、よく分かっていた。

二百十分という上映時間は、興行的な観点から見れば、明らかなリスクだ。

通常の映画なら、一日に複数回上映できるところが、この映画では回数が限られる。

それは、そのまま収益に響く話だった。

 

「それでも、見てもらうしかありません」

 

そう答えると、プロデューサーは複雑な表情を浮かべた。

試写会の当日、わたくしは一時間前に会場へ入った。

試写室の設備を確認し、映像と音響の最終チェックを行う。

スクリーンのサイズ、音のバランス、字幕の位置。

細かい確認作業を終えた頃、招待客たちが続々と入場してきた。

重役たちは、互いに挨拶を交わしながら席につく。

その表情は、一様に落ち着いていた。

これまで数え切れないほどの試写会に出席してきた人々だ。

今さら驚いたり、感動したりするような顔つきではない。

父も、後方の席に静かに腰を下ろしていた。

今日は制作側の関係者として、同席している。

目が合うと、父はわずかに頷いた。

それだけで、十分だった。

上映が始まった。

照明が落ち、スクリーンに映像が流れ始める。

わたくしは、最後列の端の席に座り、観客の反応を見渡せるようにしていた。

冒頭から、試写室の空気は静かだった。

特別に感嘆の声が上がるわけでも、笑いが起きるわけでもない。

重役たちは、黙ってスクリーンを見つめている。

婚約破棄の場面が流れた頃、わたくしは前方の席に座る数人の反応に気づいた。

体勢が、微かに前のめりになっている。

意識的にそうしているというより、引き寄せられているような自然な動きだった。

裁判の場面が続いた。

長い場面だ。

通常の映画の感覚で見れば、ここで少し退屈を感じてもおかしくない。

それなのに、試写室の空気は緩まなかった。

むしろ、時間が経つほどに、静寂の密度が増していくように感じられた。

処刑の場面に差し掛かった頃、わたくしは客席のいくつかの場所で、人が動く気配を感じた。

手を口に当てる仕草。

シートの背もたれに深く沈み込む体。

ほんの僅かな動きだったが、それは映像に引き込まれているサインだった。

主演女優が、処刑台の上から最後の言葉を告げるシーン。

 

「誰か……わたくしの話を、聞いてください」

 

その声がスクリーンから流れた瞬間、試写室の空気が一変した。

誰かが、息を呑む音が聞こえた。

わたくしには、それが誰の声なのか、暗闇の中では分からなかった。

エンドロールが流れ始めた。

静かな音楽とともに、白い文字が暗いスクリーンに映し出されていく。

上映時間二百十分。

その時間をかけて積み上げてきたものが、今、終わりを告げた。

エンドロールが終わり、スクリーンが暗転した。

照明が、ゆっくりと戻ってくる。

誰も、喋らなかった。

三十人がひしめく試写室に、完全な沈黙が満ちていた。

拍手もない。

ざわめきもない。

誰も立ち上がらない。

わたくしは、その沈黙の意味を読もうとした。

呆れているのか。

困惑しているのか。

それとも、別の何かなのか。

十秒が過ぎ、二十秒が過ぎた。

永遠のように感じられる時間だった。

そして、一人の男性が立ち上がった。

前方の席に座っていた、年配の重役だった。

彼がゆっくりと手を叩き始めた。

一回、二回、三回。

その音に引きずられるように、隣に座っていた人物も立ち上がった。

さらにその隣も。

波が広がるように、試写室全体に拍手が満ちていった。

最終的には、三十名の全員が立ち上がっていた。

わたくしは、その光景を最後列から見つめていた。

胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。

涙が出る前に、深く呼吸をして押さえ込んだ。

上映後の意見交換の場が設けられた。

試写室の隣にある会議室に移動し、全員が席につく。

最初に口を開いたのは、先ほど最初に立ち上がって拍手をしてくれた年配の重役だった。

 

「素晴らしい作品でした」

 

その言葉に、室内の空気が少しほぐれた。

 

「あれほど感情を揺さぶられる映画は、久しぶりに見た気がします」

「主人公の孤独が、ただ悲しいだけじゃなく、自分のことのように感じられて」

 

続いて、別の重役が言葉を継いだ。

 

「映像の質も高い」

「撮影と照明の使い方が、特に印象的でした」

 

肯定的な言葉が続くにつれ、プロデューサーの表情が明るくなっていくのが見えた。

わたくしも、一つ一つの感想に、心から感謝を感じていた。

しかし、会議室の端に座っていた一人の男性が、おもむろに口を開いた。

興行部長と紹介された人物だった。

がっしりとした体格の、五十代くらいの男性である。

 

「率直に申し上げていいですか」

 

その言葉のトーンで、わたくしはすでに何が来るかを察した。

 

「作品としての完成度は認めます」

「しかし、ヒットしません」

 

会議室の空気が、一瞬冷えた。

興行部長は、構わず続けた。

 

「二百十分という上映時間が、まず問題です」

「一日に回せる上映回数が、通常の映画の半分以下になる」

「それだけで、興行収入の天井が下がる」

 

そこまでは、想定していた指摘だった。

けれど、彼の言葉はさらに続く。

 

「それに、この物語の主人公は、最後に死にます」

「ハッピーエンドではない映画が、広い層に刺さるとは思えない」

「女性観客を中心にした感動作を狙うとしても、救いのなさが障壁になる」

 

一つ一つの言葉が、胸に重くのしかかる。

理屈として間違っているとは言えない。

だからこそ、反論の言葉が出てこなかった。

 

「公開するとしても、単館上映の小規模な形になるでしょう」

「大規模な興行展開は、現実的ではないと思います」

 

その言葉を最後に、興行部長は黙った。

会議室に、重い沈黙が戻ってきた。

プロデューサーが、困り果てたような顔でわたくしを見た。

他の重役たちも、どこか申し訳なさそうな目をしていた。

わたくしは、テーブルの上に置いた自分の手を見つめた。

何か言わなければならない。

けれど、言葉が出てこなかった。

興行部長の言葉は、正しいかもしれない。

商業映画として、この作品は難しい立場にある。

二百十分。

救いのない結末。

無名の新人監督。

誰かに聞いてほしかった物語を形にすることと、その映画が多くの人に届くこととは、別の問題だということを、改めて突きつけられた気がした。

会議が終わり、人々が会議室から出ていった。

わたくしは、最後まで席を立てなかった。

プロデューサーが、帰り際にわたくしの肩に手を置いた。

 

「黒崎さん、諦めないでください」

「もう少し、考える時間をください」

 

その言葉は、優しかった。

けれど、わたくしの胸の中には、これまで感じたことのない種類の重さが溜まっていた。

誰かに届けたくて、この映画を作った。

それなのに、完成した映画が人の目に触れる機会すら、保証されないかもしれない。

前世で誰にも届かなかった声が、今世でもまた、届かないまま終わるのだろうか。

会議室の照明だけが、煌々と点いたまま残っていた。

わたくしは、誰もいなくなった部屋で、しばらく動けずにいた。

どれくらいそうしていたのか分からない。

ドアが開く音がした。

振り向くと、父が一人で入ってきた。

会議の間中、父は一度も発言しなかった。

ただ、後方の席から、静かに全員の言葉を聞いていた。

父はわたくしの正面の椅子を引き、腰を下ろした。

わたくしの顔を、まっすぐに見つめる。

 

「泣いているのか」

 

問われて初めて、自分の目が潤んでいることに気づいた。

わたくしは、慌てて目元を拭った。

 

「少し、怖くなりました」

 

正直にそう答えた。

父は、黙って続きを待っていた。

 

「誰かに届けたくて作った映画が、誰にも見てもらえないかもしれない」

「前世で誰にも話を聞いてもらえなかったことと、重なって見えてしまって」

 

声が、途中で揺れた。

父は、わたくしの言葉を最後まで黙って聞いていた。

 

「もし、公開できなかったとしたら……この映画は、誰のためのものになるのでしょう」

 

問いかける声が、情けないほど小さくなっていた。

父は、腕を組み、天井を一度見上げた。

それから、視線をわたくしに戻した。

 

「お前は、誰かに届けるために、この映画を作ったのか」

 

その問いの意味を、わたくしはすぐには飲み込めなかった。

 

「それだけが、理由だったか」

 

わたくしは、父の言葉を胸の中で転がした。

誰かに届けたい、という気持ちは確かにあった。

けれど、それだけだっただろうか。

前世で誰にも話を聞いてもらえなかった自分と、向き合うために作ったのではなかったか。

あの日の真実を、映像という形で刻み込むために作ったのではなかったか。

誰かに届く以前に、この映画を作ること自体に、意味があったのではなかったか。

 

「……違います」

 

ゆっくりと答えた。

 

「たとえ誰にも見てもらえなくても、この映画は意味があります」

「わたくしが、あの日の真実と向き合えた証拠だから」

 

父は、静かに頷いた。

その目に、僅かな温もりが宿った。

 

「ならば、諦めるな」

 

立ち上がりながら、父は短くそう言った。

それだけを残して、会議室を出ていった。

わたくしは、空になった会議室に一人残され、父の言葉をもう一度噛み締めた。

諦めるな。

たったそれだけの言葉だったが、胸の奥に確かな熱を灯してくれた。

立ち上がり、会議室を出た。

廊下の窓から、夜の街の灯りが見える。

無数の光が、暗闇の中に点々と輝いていた。

この映画は、まだ終わっていない。

試写会は通過点に過ぎない。

次に何が来るとしても、この映画の持つ力を、わたくしは信じていた。

前世のわたくしの声は、誰にも届かなかった。

けれど、試写室でスタンディングオベーションを起こした三十人の中には、確かに届いた人たちがいた。

その事実だけを胸に、わたくしは夜の廊下を歩き始めた。














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