第十二章 処刑
その日が来るのは、分かっていた。
撮影スケジュールには、最初からはっきりと記されていた。
処刑シーン、撮影日。
その文字を目にするたびに、胸の奥に鈍い痛みが走った。
前日の夜、わたくしはほとんど眠れなかった。
ベッドに横たわっても、目が冴えたままで、天井を見つめる時間だけが過ぎていく。
前世の記憶が、いつもより鮮明に押し寄せてくる夜だった。
処刑台に上る階段の感触。
足元から伝わってくる、石の冷たさ。
広場を埋め尽くす人々の視線。
最後に見上げた、あの青空の色。
記憶の中の自分は、泣いてもいなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ静かに、誰かに届くことを願いながら、言葉を絞り出していた。
そしてその願いは、ついに誰にも届かなかった。
明け方近くになって、ようやく浅い眠りに落ちた。
夢も見ずに眠れたのは、体が限界に近かったからかもしれない。
撮影所に着いた時、セットはすでに出来上がっていた。
広場を模した屋外ロケーションではなく、スタジオの中に、処刑台のセットが組まれている。
石造りの台座。
そこへ続く、十数段の階段。
周囲には、エキストラの群衆が配置されている。
セットを見た瞬間、わたくしの足が止まった。
頭では、これが撮影のためのセットだと分かっている。
それでも、記憶の中の光景と重なりすぎて、呼吸が一瞬浅くなった。
撮影監督が近づいてきた。
「監督、大丈夫か」
心配そうな目で、わたくしの顔を覗き込んでいる。
わたくしは、なんとか平静を装って頷いた。
「問題ありません」
「始めましょう」
衣装を纏った主演女優が、控室から出てきた。
この日のために特別に作られた、薄い白の囚人服である。
処刑前の主人公が身に着ける、最後の衣装だった。
彼女の顔を見た瞬間、わたくしは言葉を失った。
衣装だけではない。
彼女の表情そのものが、もうすでに何かを纏っていた。
撮影が始まる前から、彼女はすでに役の中にいた。
二人きりで話す時間を取りたくて、わたくしは彼女を隅へ呼んだ。
「今日の撮影で、一つだけ伝えたいことがあります」
彼女は静かにわたくしを見た。
「この場面の主人公は、諦めていません」
「処刑台の上でも、まだ誰かに届けようとしている」
「絶望と希望が、同時に存在している場面です」
言いながら、声が微かに揺れた。
彼女はそれに気づいたように、わたくしの目をまっすぐに見つめた。
「監督、この主人公の最後の言葉は」
女優は、少し間を置いてから続けた。
「どうか、話を聞いてほしい、ですよね」
その言葉に、わたくしは咄嗟に返事ができなかった。
脚本には、そう書いてある。
けれど、彼女の言い方は、まるで脚本の言葉ではなく、わたくし自身の言葉を読んでいるようだった。
「……そうです」
ようやくそれだけ答えた。
女優は、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
その一言だけで、十分だった。
撮影が始まった。
最初のシーンは、主人公が地下牢から引き出される場面である。
兵士役の役者に両腕を掴まれ、廊下を歩いていく。
その場面は、比較的スムーズに撮り終えることができた。
続いて、処刑台へ続く階段を上る場面に移った。
カメラが、低い位置から主演女優の足元を追っていく。
一段、また一段と、石の階段を上っていく足。
その歩みが、スローモーションのように重く見えた。
モニターを見つめながら、わたくしの胸が締め付けられ始めた。
映像の中の彼女の足取りが、記憶の中の自分の足取りと重なっていく。
それでも、わたくしは自分を保っていた。
監督として、冷静にモニターを見続けなければならない。
次は、処刑台の上で群衆を見渡す場面だった。
エキストラたちが、台座の下に群がっている。
主演女優が台座の上に立ち、ゆっくりと周囲を見渡す。
カメラが回り始めた。
女優の視線が、群衆の中を泳いでいく。
その目が、モニター越しでも分かるほど、微細に揺れていた。
そして、台詞のシーンが始まった。
群衆に向けて、最後の言葉を告げる場面である。
「誰か……わたくしの話を、聞いてください」
女優の声が、スタジオの中に静かに響いた。
その声は、震えていた。
作られた震えではなく、何か本物のものを宿した震えだった。
わたくしは、モニターから目を離せなかった。
彼女の目に、涙が浮かんでいる。
台詞を続けようとして、言葉が詰まっている。
その瞬間、わたくしの胸の中で、何かが崩れた。
あの日の感覚が、一気に蘇ってきた。
誰にも届かなかった声。
群衆の無関心な視線。
空へ向けて叫んだ、最後の願い。
気づいた時には、呼吸が乱れていた。
胸が、息を吸うたびに痛い。
手が、モニターの縁を握りしめていた。
それでも、撮影は止まらなかった。
わたくしは、なんとか自分を保とうとした。
監督として、最後まで撮り続けなければならない。
けれど、体は正直だった。
息が吸えない。
胸が、引き裂かれるように痛む。
視界が、少しずつぼやけ始めた。
「監督っ」
誰かの声が聞こえた。
気づいた時には、わたくしは地面に手をついていた。
過呼吸だった。
息を吸おうとするたびに、体が強張って、空気が入ってこない。
スタッフが駆け寄ってくる声が、遠くから聞こえる。
処刑台の上の女優が、台詞の途中で動きを止めた。
カメラが、静かに回り続けている。
「監督、しっかり」
誰かが、わたくしの背中を支えてくれている。
助監督の声だった。
紙袋を渡され、口に当てるよう促される。
なんとか息を整えようとしながら、わたくしの目には涙が溢れていた。
止めようとしても、止まらなかった。
前世で流せなかった涙が、今になって一気に溢れ出しているようだった。
処刑台の上から、足音が降りてきた。
衣装のまま、主演女優がわたくしの元へ駆け寄ってきた。
その頬にも、はっきりと涙の跡があった。
彼女は何も言わず、わたくしの隣にしゃがみ込んだ。
その目に浮かんでいた涙は、演技のものではないとすぐに分かった。
彼女もまた、この場面で何かを感じ取っていた。
そして、静かな足音が近づいてきた。
「今日は終わりだ」
父の声だった。
今日の撮影にも、父はオブザーバーとして同席していた。
父の一言に、現場が静まり返る。
誰も反論しなかった。
父が、わたくしの前にしゃがみ込んだ。
その顔は、いつも通り無表情に近かった。
けれど、目の奥に、何か普段とは違うものが揺れていた。
「立てるか」
問いかける声は、静かだった。
わたくしは、涙を拭いながら頷こうとした。
けれど、体に力が入らず、うまく立ち上がれなかった。
その瞬間、父の腕がわたくしの背中に回った。
父に抱き締められたのは、記憶にある限り、初めてのことだった。
幼い頃も、褒められた時も、父がわたくしを抱き締めたことはなかった。
父の体温が、わたくしの体に伝わってくる。
その温かさに、堰を切ったように、涙が溢れ出した。
声を殺して泣いた。
肩が、震えた。
父は何も言わなかった。
ただ、黙ってわたくしの背中に腕を回したまま、その場に留まっていた。
その沈黙が、どんな言葉よりも雄弁だった。
スタッフたちは、皆静かに目をそらしていた。
現場の中に、奇妙なほど穏やかな静けさが漂っていた。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
やがて、わたくしの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
父がゆっくりと腕を離し、立ち上がった。
わたくしも、なんとか体を起こした。
目が赤くなっているのは分かっていたが、もう取り繕う気力は残っていなかった。
撮影監督が、静かに近づいてきた。
「今日の分、全部収まってるぞ」
その言葉の意味を、わたくしはすぐには理解できなかった。
「お前が倒れる前まで、カメラは回り続けていた」
わたくしは、思わず撮影監督を見上げた。
「使うかどうかは、監督が決めることだ」
「ただ、あの映像は本物だと思う」
その言葉に、言い返すことができなかった。
けれど、カメラが回り続けていたということ、その事実だけは、どこか安堵のようなものをもたらした。
主演女優が、わたくしの隣に立った。
「監督、この場面……わたくしにはまだ足りないところがあると思います」
「もう一度、時間をもらえますか」
彼女の声は、穏やかだったが、その目には強い光があった。
わたくしは、彼女の顔を見つめた。
「次の撮影日に、もう一度やりましょう」
そう答えながら、わたくしは自分の声が、思いのほか落ち着いていることに気づいた。
泣き続けた後の声は、少し低く、掠れていた。
けれど、その声には、不思議な静けさがあった。
その日の撮影を片付け、全員が撤収した後、わたくしは一人でセットに残った。
父も、スタッフも、先に帰している。
がらんとした処刑台のセットに、一人で向き合った。
本物の処刑台ではない。
スタジオの中に作られた、映画のための舞台に過ぎない。
けれど、その階段の前に立つと、あの日の感覚が静かに蘇ってくる。
今度は、押し潰されるような感覚はなかった。
泣き切った後の、不思議な静けさの中で、ただその場所を見つめていた。
前世のわたくしは、この場所で孤独だった。
誰にも話を聞いてもらえないまま、一人で終わりを迎えた。
けれど今、この場所には、一緒に泣いてくれた人がいた。
カメラを回し続けてくれた人がいた。
黙って抱き締めてくれた父がいた。
処刑台のセットを、ゆっくりと見上げた。
この映画を完成させることが、あの日のわたくしへの、唯一の答えになる。
そう感じた。
スタジオの照明が、一つずつ消えていく。
薄暗くなった空間の中で、わたくしは静かに踵を返した。
まだ撮影すべき場面は残っている。
けれど、今夜だけは、ゆっくりと休もうと思った。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。
冷たいはずなのに、その感触がどこか温かく感じられた。
父の体温が、まだ残っているような気がした。




