第十一章 撮影
クランクインから二週間が経った。
撮影は順調に進んでいるように見えた。
王城の廊下、夜会の会場、主人公の屋敷。
それぞれの場面が、一つずつ丁寧に積み上げられていった。
スタッフたちの動きも、日を重ねるごとに息が合ってきた。
撮影監督は、光の角度に細かくこだわり、一つの場面のために何時間もかけてライティングを調整することがあった。
美術スタッフは、異世界の貴族社会を再現するために、細部まで手を抜かなかった。
現場全体に、この映画を本物にしようという意気込みが、確かに漂っていた。
そして、物語の核心となるあの場面の撮影日がやってきた。
婚約破棄のシーンである。
セットは、夜会の大広間を模して作られていた。
シャンデリアの光を再現するために、美術と照明が何日もかけて準備したものだ。
エキストラの貴族たちが衣装を身に纏い、所定の位置についている。
王太子役の俳優も、すでに衣装とヘアメイクが仕上がっていた。
凛とした立ち姿で、セットの中央に立っている。
聖女役の女優も、淡い光を宿したような衣装を纏い、その傍らに控えていた。
わたくしは、撮影前にキャスト全員を集め、最後の確認を行った。
この場面で求めていることを、もう一度丁寧に伝える。
全員が真剣な表情で耳を傾けていた。
準備が整い、撮影が始まった。
カチンコが鳴り、カメラが回り出す。
主演女優が、広間の中央へと歩み出た。
王太子役の俳優が、台詞を告げる。
婚約破棄を宣言する、あの言葉を。
そこから先の展開を、わたくしはモニター越しに見守っていた。
主演女優の表情が、台詞を受けて変化していく。
驚き、困惑、そして何かを必死に伝えようとする焦り。
技術的には、申し分のない演技だった。
それなのに、わたくしの中で、何かが引っかかった。
テイクが終わると、わたくしは静かに言った。
「違います」
現場がわずかにざわめいた。
主演女優が、わたくしを見つめる。
「どこが……でしょうか」
その問いに、わたくしはすぐに答えることができなかった。
何が違うのか、言葉にしようとすると、うまく出てこない。
父が横から静かに尋ねた。
今日の撮影には、父がオブザーバーとして同席していたのだ。
「何が違う」
父の問いに、わたくしは少し考えてから、答えた。
「絶望じゃありません」
その言葉に、現場がしんと静まり返った。
主演女優も、王太子役の俳優も、わたくしの言葉の意味を掴もうとするように、じっとこちらを見ている。
「絶望だけなら、あの顔でいい」
「でも、あの場面にあるのは……」
言葉が続かなかった。
胸の奥から、記憶が押し寄せてくる。
あの夜会の場面。
セドリック様の冷たい声。
エルフィーネの涙。
会場中の視線が、一斉にわたくしへと突き刺さった瞬間。
あの時、わたくしは本当に何を感じていたのだろう。
絶望だったか。
怒りだったか。
悲しみだったか。
違う。
もっと複雑な、言葉にならないものだった。
信じていた世界が崩れていくのに、それでもまだ信じたいという、矛盾した感情。
誰かに話を聞いてほしいという、消えることのない願い。
そして、その願いが決して届かないと悟った時の、あの静かな諦め。
わたくしは、気づかぬうちにセットの中央へ歩み出ていた。
「監督?」
スタッフの声が、遠くから聞こえる。
主演女優が、わたくしに道を譲るように、静かに一歩下がった。
気づいた時には、わたくしは王太子役の俳優の前に立っていた。
その目を見た瞬間、記憶と現実が混然と溶け合うような感覚を覚えた。
目の前にいるのは俳優だと、頭では分かっている。
それでも、体が記憶に引きずられるように、動き始めた。
「違います」
その声は、監督としてのわたくしのものではなかった。
あの夜の、リリアーナのものだった。
「わたくしは何もしていません」
「どうか、話を聞いてください」
声が震えていた。
セットの空気が、完全に変わった。
エキストラたちが、わたくしを見つめている。
スタッフたちも、誰一人として動かない。
「誰か……どうか……」
言葉が途切れた。
喉が詰まって、続きが出てこない。
前世のあの夜に流せなかった涙が、今になってこぼれ落ちそうになる。
カメラはまだ回っていた。
撮影監督は、わたくしが動き出した瞬間から、本能的にカメラを向け続けていたのだ。
どれくらいの時間が経ったのか分からなかった。
やがて、父の声が静かに響いた。
「カット」
その一言で、わたくしは我に返った。
セットの中央に、一人立ち尽くしているわたくし。
周囲には、凍り付いたような表情のスタッフとキャストたち。
誰も言葉を発しない。
空気そのものが、息を呑んでいるようだった。
主演女優の頬を、一筋の涙が伝っていた。
彼女は何も言わず、ただわたくしを見つめていた。
助監督が、おずおずと声をかけてきた。
「監督、少し休憩しますか」
わたくしは首を振った。
涙が出る前に、自分を立て直さなければならなかった。
「いいえ、続けます」
その声が、思いのほか落ち着いて出てきたことに、自分でも驚いた。
深く呼吸をして、主演女優の方へ向き直る。
「今の、見てもらいましたか」
女優は、静かに頷いた。
その目には、さっきまでとは全く違う光が宿っていた。
「絶望の一歩手前にあるもの、分かりましたか」
問いかけると、彼女はしばらく考えるような間を置いた後、口を開いた。
「それでも、まだ信じたいという気持ちですか」
その答えに、わたくしは頷いた。
「信じていた世界が崩れていく。それでもどこかで、誰かが助けてくれると信じたい」
「その二つが、同時に存在している」
「それが、あの場面の感情です」
女優は、わたくしの言葉を体の中に落とし込むように、目を閉じた。
しばらくの沈黙の後、ゆっくりと目を開けた。
「もう一度、やらせてください」
その声には、これまでとは別の決意が宿っていた。
再びカメラが回り始めた。
王太子役の俳優が、台詞を告げる。
主演女優の表情が、変化し始める。
今度は違った。
驚きの中に、僅かな期待が混じっていた。
それが少しずつ崩れていき、やがて、言葉にならない複雑な感情へと変わっていく。
絶望の一歩手前で揺れながら、それでも誰かに届けようとする、かすかな願いが。
モニターを見つめながら、わたくしは息を詰めた。
これだ、という確信が、胸の奥から湧き上がってくる。
テイクが終わると、今度は現場から自然と息が漏れた。
誰かが小声でつぶやいた。
「すごい……」
その言葉が、静寂の中に溶けていった。
撮影監督がわたくしの隣に来て、モニターをもう一度確認してから言った。
「監督、さっきのお前の演技も、ちゃんと収まってるぞ」
低い声だったが、その言葉には確かな重みがあった。
「使えるかどうかは別として……あれは本物だった」
わたくしは何も答えなかった。
ただ、モニターに映る主演女優の表情を、静かに見つめ続けた。
その日の撮影が終わり、スタッフたちが片付けを始めた頃、父がわたくしの隣に立った。
周囲に誰もいなくなったタイミングで、父は静かに言った。
「今日の、お前の演技を見た」
わたくしは、父の顔を見た。
その表情は、いつも通り読み取りにくいものだったが、目の奥には、これまでとは違う光があった。
「あれは演技じゃない」
父の言葉は、短かった。
それだけ言うと、父は荷物を持ち、何事もなかったかのように帰り支度を始めた。
わたくしは、その背中を見送りながら、父の言葉の意味を噛み締めた。
演技じゃない。
そうだ、あれは演技ではなかった。
前世の記憶が、わたくしの体を通して、そのまま溢れ出したものだった。
セットの照明が落とされ、広間が暗くなっていく。
昼間はあれほど輝いていたシャンデリアの光が、今は静かに消えている。
その薄暗い空間に一人立ちながら、わたくしは前世のあの夜会を思い返した。
あの夜、わたくしは何を願っていたのだろう。
誰かに話を聞いてほしかった。
ただ、それだけだった。
その願いが、今ようやく、映像という形を持ち始めている。
撮影はまだ続く。
この先には、裁判の場面も、処刑台の場面も待っている。
それらすべてを乗り越えた先に、初めてこの映画は完成するのだ。
セットを後にしながら、わたくしは静かに前を向いた。
冷えた夜の空気が、頬に触れる。
痛みはある。
それでも、この痛みこそが、この映画の核心だと、今のわたくしには分かっていた。




