第十章 クランクイン
脚本が完成してから、わたくしの日々は一変した。
次のステップは、映画を共に作り上げてくれるスタッフとキャストを集めることである。
父が名前を出してくれたおかげで、スタッフ集めは思っていたよりも早く進んでいった。
撮影監督は、父の右腕として長年現場をともにしてきた人物にお願いした。
幼い頃から現場で世話になり、カメラの基礎を教えてくれた師匠でもある。
企画の話を持っていくと、脚本を一読した後、静かに言った。
「面白い素材だ」
「光で感情を作る仕事、久しぶりにやりがいを感じる」
編集は、父の映画を三十年近く手がけてきたベテランが担当してくれることになった。
録音、美術、衣装。
それぞれの分野で経験豊富なスタッフが、一人また一人と集まっていった。
問題はキャストだった。
主演となる公爵令嬢リリアーナを演じられる女優を探すことが、最も難しい作業になると覚悟していた。
この役には、ただ美しいだけでは足りない。
孤独を知り、理不尽な絶望に抗いながら、それでも誰かに真実を届けようとする強さを体現できる人物でなければならなかった。
オーディションには、予想を上回る数の女優が応募してきた。
父の名前と、脚本の評判が広まっていたからだろう。
それぞれの演技を丁寧に確認していったが、誰かを見るたびに、何かが違うという感覚を拭えなかった。
オーディションの最終日、一人の女優が会場に入ってきた。
年齢はわたくしとほぼ同じ、二十代半ばである。
これまでに主演を務めた作品はまだ少ないが、助演での評価は高い。
彼女が台本を手に演技を始めた瞬間、わたくしの中で何かが揺れた。
技術が際立っているわけではない。
表情が特別に美しいわけでもない。
けれど、彼女の目の奥に、確かな孤独の色が宿っていた。
作ったものではなく、彼女自身が何かを知っているような、そんな深みが。
オーディションが終わった後、わたくしは迷うことなく彼女の名前を告げた。
「この方に、お願いします」
こうして主演が決まり、キャストが出揃い、いよいよ撮影に向けた準備が整っていった。
クランクイン前日、わたくしはスタッフ全員を集め、最初の顔合わせを行った。
自己紹介と撮影スケジュールの確認を終えた後、場の空気は少しほぐれていた。
スタッフたちは、若い監督に対して表向きは礼儀正しく接してくれているが、その目の奥には、まだどこか様子を見るような色があることに気づいていた。
当然のことだろう。
実績のない新人監督が、商業的な見通しも立たない独自企画を撮る。
業界の常識から考えれば、不安を感じるのは当たり前のことだった。
顔合わせが一通り終わった後、わたくしは主演女優を別室に呼んだ。
二人きりになると、彼女はわたくしをまっすぐに見た。
「監督、一つ聞いてもいいですか」
わたくしは頷いた。
「この主人公を、どう演じればいいのでしょう」
真剣な目だった。
単なる挨拶でも、儀礼的な質問でもない。
彼女は本気で、この役と向き合おうとしている。
その姿勢に、わたくしは胸が熱くなった。
どう答えるべきか、少し考えた。
技術的な演技指導の言葉は、いくらでも出てくる。
けれど、それはこの場に必要な答えではないと思った。
わたくしは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「わたくしは、あの日笑えませんでした」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が変わった。
主演女優の目が、僅かに見開かれる。
「だから笑わないでください」
女優はしばらく、黙ってわたくしの顔を見つめていた。
わたくしの言葉が何を意味するのか、完全には理解できなかったかもしれない。
それでも、彼女は深く頷いた。
「分かりました」
その一言の重さが、静かな室内に響いた。
翌朝、クランクインの日がやってきた。
最初に撮影するのは、王城の廊下を歩く主人公のシーンである。
婚約破棄の夜会へ向かう、冒頭の場面だった。
カメラのポジションを確認し、照明の角度を調整する。
スタッフたちが、それぞれの持ち場でテキパキと動き回っている。
わたくしは、モニターの前に立ち、全体の仕上がりを見渡した。
衣装を纏った主演女優がセットに入ってきた時、現場に緊張が走った。
深紅のドレス。
細やかな刺繍。
その姿は、わたくしが前世で記憶していたあの夜の光景と、驚くほど重なっていた。
呼吸が浅くなるのを感じた。
けれど、わたくしはそれを抑え、静かに役者へと近づいた。
「準備はいいですか」
問いかけると、女優は静かに頷いた。
その目には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。
何かを内側に沈めながら、役へと入り込もうとしている。
本番前の最後の確認を終え、わたくしは監督席に戻った。
カチンコが鳴り、カメラが回り始める。
「本番」
その一言とともに、セットの空気が完全に変わった。
主演女優が歩き始めた瞬間、スタッフたちの間にざわめきが走るのが分かった。
誰も声を出していないのに、現場全体が息を呑んだような沈黙に包まれる。
モニターの中の彼女は、台詞を発する前から、すでに何かを体現していた。
誇り高く、けれど心のどこかに影を宿した歩き方。
華やかな夜会へ向かいながら、その華やかさとは相容れない孤独を纏った佇まい。
わたくしは、モニターを見つめながら、息を詰めた。
これは、ただの演技ではない。
彼女は、わたくしが伝えた言葉の意味を、自分なりの形で体の中に落とし込んでいた。
1テイク目が終わると、現場はしばらく静まり返ったままだった。
スタッフの一人が、小声でつぶやいた。
「なんか、すごい空気だったな」
その言葉が、場の感想を代弁していた。
撮影監督がわたくしの隣に歩み寄り、モニターを眺めながら静かに言った。
「監督、この現場は普通じゃないぞ」
その声には、批判ではなく、驚きと期待が混じり合っていた。
「この映画、何かとんでもないものになるかもしれない」
わたくしは、その言葉に何も答えなかった。
ただ、モニターに映る映像を見つめながら、胸の奥で静かに頷いた。
一日目の撮影が終わり、スタッフたちが片付けを始めた頃、主演女優がわたくしの元へやってきた。
「監督」
彼女の声には、疲労の中にも、確かな高揚感があった。
「この役、もっと深く理解したいんです」
「時間のある時に、もっと話を聞かせてもらえませんか」
わたくしは、彼女の目を見つめた。
真摯な光が、その瞳の奥にある。
「はい、もちろんです」
答えながら、わたくしは自分の中に、これまで感じたことのない感覚を覚えた。
孤独ではない、という感覚だった。
前世では誰一人として、わたくしの話に耳を傾けてくれなかった。
けれど今、目の前にいるこの人は、まだ何も知らないながらも、わたくしの物語と正面から向き合おうとしている。
撮影所の外に出ると、夜の空気が肌に触れた。
冷たく、澄んだ夜気の中に、かすかに春の匂いがする。
今日、この物語は動き出した。
クランクインという言葉の意味が、今日ほどリアルに感じられた日はない。
撮影はまだ始まったばかりだ。
この先には、もっと辛い場面が待っている。
それでも、わたくしの足取りは、これまでより確かだった。
夜空を見上げながら、わたくしはゆっくりと深呼吸をした。
前世で誰にも届かなかった声が、少しずつ、形を持ち始めている。
その実感だけを胸に、わたくしは翌日の撮影へ向けて、静かに歩き出した。




