第39話 生還の音と、一瞬の覚醒
――限界だった。
「がはっ……!」
星喰いの竜の太い尾が、無情にも岩盤ごとリオンの体を薙ぎ払った。
鋭い岩の破片を全身に浴びた格闘士は、肺から大量の血を吐き出して火口の壁まで吹き飛ばされ、力なく地面を転がった。
ドワーフのバルバスもまた、眼前に迫り来る竜の巨大な爪を、特大のツルハシの柄でなんとか受け止めたものの、その圧倒的な重量と熱に耐えきれず、メキメキと音を立てて両膝から崩れ落ちた。
「ここまでか……ッ!」
バルバスが、血の滲むような歯軋りをする。
完全に無防備になり、動けなくなった小さな虫けらたちを見下ろし、星喰いの竜がトドメを刺そうとその巨大な顎をゆっくりと、そして大きく開いた。
赤熱した喉の奥で、再び致命のブレスの光が圧縮され始める。
「いやぁぁぁっ! 誰か、お願い……!」
ソフィアの悲痛な悲鳴が、絶望の火口に虚しく響き渡る。
彼女は自分の命が焼かれる恐怖も忘れ、両手から溢れんばかりの淡い緑色の光――ハーフエルフとしての潜在能力を限界まで引き出した。
莫大な治癒の魔力を、倒れた千代女の胸に注ぎ込み続けていた。
大粒の涙をボロボロとこぼしながら、ただひたすらに祈る。
だが。
死のブレスが放たれようとした、まさにその時だった。
「……やっと願いが叶って、戦場で死ねると思ったんじゃがの〜」
ピタリ、と。
ソフィアの白い頬を伝う熱い涙を、血と泥にまみれた細い指が、そっと優しく拭った。
「ソフィアの泣き声がひどくうるさくて、うっかり冥土の道から引き返してしもうたわ」
ソフィアが、ハッと息を呑む。
そこには、致命傷を負っていたはずの体をゆっくりと起こし、いつものようにニヤリと不敵に笑う千代女の姿があった。
「ち、千代女さん……ッ!?」
「よく持ち堪えた。……泣くのは終わりにせい。あとは某に任せよ」
千代女は静かに立ち上がると、足元の熱い地面に転がっていた『無銘』の柄を力強く握りしめた。
刀身は先ほどの激突で半ばから無惨にへし折れ、もはや刀としての体を成していない。ただの短い鉄の棒きれに等しい。
それでも彼女は、その折れた無残な刃を、見上げるほど巨大な竜に向けて真っ直ぐに、そして迷いなく構えた。
(……ほう。これは、なんとも妙な感覚じゃな)
千代女は、自分の体内で暴れ回る『熱い異物』の存在に気づいていた。
パニックに陥ったソフィアが、本来ならあり得ない莫大な精霊の魔力を、気絶した千代女の肉体に無理やり注ぎ込み続けた結果。
本来なら固く閉じているはずの千代女の『魔力回路』が、一時的にバチバチと強制開通してしまったのだ。
極限まで鍛え抜かれた筋肉の繊維一本一本に、高密度の魔力が無理やりねじ込まれ、爆発的なエネルギーが全身の血管を駆け巡っている。
長続きはしない。肉体が崩壊するまでの、今この瞬間、たった数秒間だけの異常な『強制強化』
「グルルォォォォォォォッ!!」
確実に仕留めたはずの小バエが息を吹き返したのを見て、竜のプライドが完全に激昂した。
ブレスの充填を止め、千代女を頭から丸呑みにしようと、地響きを立てて猛然と突進してくる。
「行くぞ」
ダンッ!!!!
千代女が、足を踏み込んだ瞬間。
火口の硬い岩盤が、まるで足元に巨大な爆弾を仕掛けて起爆したかのように、すり鉢状に吹き飛んだ。
「なっ……!?」
吹き飛ばされて倒れていたリオンが、自分の目を疑った。
速い。
先ほどまでの神速すらも赤子に見えるほどの、次元の違う異常な速度。
ソフィアの莫大な魔力によって生物としてのリミッターを完全に外された千代女は、空気を蹴り裂き、音すらも置き去りにして、巨大な竜の眼前に『瞬間移動』した。
「シッ!」
鋭い呼気と共に、千代女の右腕の筋肉が、魔力の緑色の光を帯びて異常に膨張する。
狙うのはただ一点。先ほどの命懸けの攻防で浅く切り裂いていた、竜の顎の下――鱗が剥がれた『逆鱗』の傷口。
折れて短くなった『無銘』の切っ先から、ソフィアから流れ込んだ莫大な魔力が、圧縮された『光の刃』となって鋭く伸びる。
「貫けェッ!!」
ズドォォォォォォォンッ!!!!!
折れた鋼の刃と光の刃が、竜の分厚い鱗の隙間、その傷口の奥深くへと深々と突き刺さった。
それと同時に、刀身に限界まで圧縮されていたソフィアの魔力が、千代女の剣気と共に竜の肉体の内側で大爆発を起こす。
「ギィギャァァァァァァァァァァッ!!!!!?」
火口全体、いや、山そのものを激しく揺るがすほどの、竜の悲痛な絶叫。
星の硬度を誇る絶対の鱗も、内側からの破壊には耐えられない。
首の内部で魔力を爆発させられた竜は、脳を直接激しく揺らされ、巨大な体をくの字に折り曲げて天高く跳ね上がった。
傷口から大量の熱い血が、黒い雨となってドロドロの溶岩の海へと激しく降り注ぐ。
ズズズズズンッ!!
火口の端に無様に墜落した巨竜は、全身を痙攣させ、もはや立ち上がる力すら残っていなかった。
だが、何百年も生きてきた中で初めて味わう、生物としての絶対的な『死の恐怖』が、そして絶対王者の生物としてのプライドが、かろうじて竜を動かした。
竜は赤黒い血反吐を吐きながらも、寝床に残されていた隕石の欠片を意地のように前脚でガシッと掴むと、ひしゃげた翼を無理やり羽ばたかせた。
そして、ふらつく体で空の彼方へ――己の領土を捨てて、文字通り命からがら逃げ去っていったのだ。
後に残されたのは、めちゃくちゃに崩壊した火口と、耳鳴りがするほどの静寂だけ。
「……ふぅ」
プシューッ、と。
千代女の全身から、限界を超えて無理やり開かれていた魔力回路が強制的に閉じる音と共に、高温の白い蒸気が立ち上った。
「……に、逃げた……あのバケモノが、逃げていったぞ……!」
「俺たち……生きてる……」
バルバスとリオンが、信じられないものを見たように、へたり込んだまま呆然と呟く。
千代女は、折れた刀をブラリと下げたまま、ゆっくりと振り返った。
そして、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしているハーフエルフの少女に向かって、最高に楽しそうな、突き抜けるような太陽の笑みを向けた。
「ガッハッハ! 見事な大金星じゃな、ソフィア! お主の泣き声と、その妙な力のおかげで、最高の死合ができたぞ!」
「ち、千代女さぁぁぁぁぁん!!」
ソフィアが子供のように声を上げて泣き叫びながら、千代女の腰に勢いよくしがみつく。
そんな彼女の頭をポンポンと撫でながら、千代女は右手に残った折れた『無銘』の刃を見つめ、ケロッとした顔でポツリと呟いた。
「いや〜、あんなトカゲ相手に刀を折るとは、某もまだまだ修行が足りんのう。次は折らずに捌きたいものだ」
「いや、あの状況から生還してAランクオーバーの古竜を追い払うとか、完全に人間辞めてるだろ!!」
リオンとバルバスが、血まみれになりながらも息を揃えて盛大にツッコんだ。
竜の恐怖は去ったものの、この常識外れの規格外の女剣士に対する新たな『戦慄』が、男たちの背筋をゾクゾクと駆け抜けていく。
圧倒的な力を持つ、星を喰らうAランクの巨竜との、互いに死を覚悟したギリギリの死闘。
それは、最愛の折れた名刀と引き換えに、彼らが全員で生き残ったという、何にも代えがたい絶対的な勝利の証だった。




