第37話 星喰いの竜と、砕ける大地
――ルルォォォォォォォォォォォッ!!!!
火口の底が、内側から爆発したかのように激しく揺れた。
眠りを妨げられた『星喰いの竜』が、天の底を突き破らんばかりの咆哮を上げる。
ただの音ではない。それは濃密な魔力と物理的な圧力を伴った、致死の衝撃波だった。
声だけで周囲のドロドロの溶岩湖が荒れ狂うように波打ち、岩盤を赤熱させるほどの凄まじい熱風が、千代女たちを容赦なく襲った。
「ぐおっ!?」
「ひゃああっ!」
リオンが顔の前で太い両腕を交差させ、ブーツの底を岩に擦りつけながら吹き飛ばされるのを必死に耐える。
後方のソフィアは為す術もなく悲鳴を上げ、無様に尻餅をついた。
マグマの照り返しの中に浮かび上がる、全長十メートルを優に超える漆黒の巨躯。
どんな名剣の刃すら弾き返すであろう、幾重にも重なる鋼よりも硬い星屑の鱗。
圧倒的な『質量』と、周囲の空気を歪ませるほどの『超高熱』。
ただそこに存在しているだけで、人間という脆弱な生物としての本能を、抗いがたい死の恐怖で完全に塗り潰してくる。
「ソフィア! 休むな、風の盾を何重にも張り続けろ! そのままじゃ熱気だけで肺の中までこんがり焼かれるぞ!」
リオンが怒鳴り声を上げながら、自らは恐怖を押し殺し、弾丸のような速度で竜の正面へと真っ直ぐ飛び出した。
「俺の拳を、舐めるなァッ!!」
武道家であるリオンの狙いは、分厚い鱗で覆われ、打撃の通りにくい胴体や頭部ではない。
彼が見据えたのは、竜が身を乗り出したことで数トンの体重が一点に乗っている、太い前脚の『膝の関節』だ。
低い姿勢で岩肌を滑り込むと、全身のバネを極限まで圧縮し、腰の捻りから生み出された遠心力をすべて乗せた、渾身の右ストレートを関節の側面に叩き込んだ。
ガキィィンッ!!
肉を殴ったとは思えない、巨大な教会の鐘を全力で打ち鳴らしたような硬質な音が火口に響き渡る。
当然、星屑の鱗を砕くには至らない。だが、リオンの放った強烈な物理的打撃のベクトルは、竜の巨体をほんのわずかに、しかし確実に横へと揺らした。
「グルルッ!?」
「今だ、姐さん!!」
関節を横から打たれ、竜の強固な姿勢が崩れた、ほんの一瞬のコンマ数秒。
その神がかり的な隙を、戦場の死神たる千代女が見逃すはずがなかった。
――ダンッ!
踏み込んだ足元の硬い岩盤が、爆発したようにクレーター状に陥没する。
大気を引き裂く爆発的な脚力。千代女は、低く、一直線に竜の懐深くへと飛び込んだ。
彼女は、愛刀を大上段から振り下ろしはしない。
すでに激戦で刃こぼれが酷い『無銘』を庇うため、そして鋼の鱗に弾かれる愚を避けるため、力任せの斬撃は完全に捨てている。
千代女の極限まで研ぎ澄まされた目は、竜の太い首の筋肉の動きを、スローモーションのように正確に捉えていた。
首が捻られ、動く瞬間にだけ生じる、鱗と鱗が重なり合う『ほんの数ミリの隙間』。
「シッ!」
鋭く短い呼気と共に、刃を下から上へ。
極小の針穴に糸を通すような、恐ろしいほどの正確さと神速で、千代女の白刃が分厚い鱗の隙間へと滑り込む。
シャクッ。
硬質な戦場には似つかわしくない、肉を裂く、ひどく生々しい音。
分厚い星屑の装甲の下にある、脈打つ柔らかい大血管を、薄く刃こぼれした刀が的確に切り裂いたのだ。
漆黒の鱗の間から、マグマのように熱い赤黒い血が、噴水のように激しく噴き出す。
「ギャァァァァァァァッ!!」
想像を絶する激痛に狂った竜が、空を裂く悲鳴を上げ、巨大な太い尻尾をデタラメに振り回した。
大木を何本も束ねたような太さを持つ尻尾が、周囲の岩壁をミキサーのように粉々に粉砕しながら薙ぎ払われる。
「危ないッ!!」
千代女は即座に刃を引き抜くと、後方へ大きく跳躍し、直撃の軌道から紙一重で逃れる。
しかし、巨大な尻尾が空気を強引に叩き潰したことで生じた強烈な暴風が、空中にいた千代女の細い体を激しく吹き飛ばした。
「くっ……!」
千代女の身に纏っていた耐熱マントの一部が熱線で焼け焦げ、宙を舞った鋭い岩の破片が彼女の白い頬を浅く掠め、一筋の赤い線を描く。
だが、千代女が吹き飛ばされたことで、竜の眼前に巨大な『空白』が生まれた。
怒り狂い、血走った竜の金色の瞳が、その空白の向こう――背後で動く、別の影を捉える。
カンッ!! ガァァァンッ!!
「よっしゃァ! 一番魔力の濃い部分、見つけたぜェ!!」
巨大な隕石の上で、ドワーフの老鍛冶師バルバスが、汗だくになりながら特大のツルハシを狂ったように振り下ろしていたのだ。
自分の寝床であり、何より己の力の源である至高の宝を削り取ろうとする、不届きな小人。
竜の明確な殺意の標的が、千代女から完全にバルバスへと切り替わった。
「ルォォォォォォォォッ!!」
竜が大きく息を吸い込むと、その分厚い胸元が、内側から不気味に青白く発光し始める。
周囲の熱気が急速に竜の口元へと渦を巻いて吸い込まれ、谷底の気圧が急激に下がる。
獲物を骨の髄まで、いや魂すらも消し炭にするための、超圧縮・超高熱の破壊光線――『竜のブレス』の予備動作だ。
「マズい……! 親父、逃げろ!! 仕事は後だ!!」
「ひゃああっ! 風よ、大いなる風よ、私の前に集まってぇぇッ!!」
リオンが絶望的な声を上げ、ソフィアが半狂乱になって杖を振り回し、バルバスの前に分厚い『風の防壁』を何重にも展開する。
しかし、竜の口元に限界まで圧縮されていく青白い光の密度は、ソフィアの急造の風魔法の防御力を遥かに、絶望的なまでに上回る破壊のエネルギーを孕んでいた。
直撃すれば、防壁ごとバルバスは跡形もなく消し飛び、火口の地形すら大きくえぐり取られて変わるだろう。
「……させんッ!」
空中で体勢を立て直し、岩壁を強く蹴って着地した千代女の顔から、いつもの余裕のある戦闘狂の笑みが、完全に消え失せていた。
これまでの相手なら、己の神速を以て避ければ済む話だった。
だが、今は違う。背後には、どうしても守らねばならないバルバスと、新しい刀を打つための希望である隕鉄がある。
避けるわけには、絶対にいかない。
「来い、星喰いの巨獣!! お主の命、この千代女が丸ごと喰らってやる!!」
千代女は、細い足の筋肉が千切れるほどの異常な踏み込みで、再びブレスを放とうと首をもたげた竜の真正面へと、自ら踊り出た。
極限まで姿勢を低く沈め込み、刃こぼれした刀を、静かに鞘の奥深くへと収める。
極限の抜刀術の構え。
静と動。
迫り来る圧倒的な質量と熱量の暴力に、薄っぺらい鋼の一閃だけで正面から真っ向勝負で激突しようとする。
それは、剣に生きた者しか選び得ない、最高に美しく、最も狂気的な選択だった。




