第27話 怪物の王、凱旋と一刀両断
千代女の剣によって一方的な蹂躙が終わり、死の静寂が戻ったはずの谷底が、微かに、しかし確かに揺れた。
コロリと小石が跳ねる。
無数にできた緑色の血溜まりが、不気味な波紋を描いて震える。
1000の群れが完全に壊滅し、恐怖に狂った生き残りのゴブリンたちが蜘蛛の子を散らすように逃げ去ろうとしていた、まさにその時だった。
――ズ、ズゥゥゥンッ……!!
谷の最奥。
陽の光すら届かない一番巨大な巣穴の底から、これまでの雑兵たちとは次元が違う、濃密で粘り気のある『死の気配』が急激に膨れ上がった。
その場にいるだけで空気が鉛のように重くなる。
呼吸が詰まり、肺が凍りつく。
パニックを起こして逃げ惑っていたゴブリンたちが、目に見えない巨大な手に押さえつけられたかのようにピタリと動きを止め、一斉に地面に這いつくばって震えだした。
漆黒の闇の中から現れたのは、歩く巨城のような絶望的な影だった。
体高は優に四メートルに迫る。
先ほどのホブゴブリンすら子供に見えるほどの、異常に発達した規格外の体躯。
分厚く呪わしい黒鋼の重鎧を身に纏い、丸太よりも太い右手には、岩をも砕くであろう身の丈ほどもある無骨な大斬馬剣が握られている。
ズン、と一歩踏み出すごとに、大地が悲鳴を上げてひび割れた。
王の凱旋。
いや、己の軍勢を一人で皆殺しにされた王の、極限の『激怒』だ。
ゴブリン・キング。
並の魔物とは完全に一線を画す、高い知能と絶大な力を持つ群れの絶対的支配者。
その怒りに燃える赤い双眸が、谷を埋め尽くす同胞の死体の山を舐め、そして――その血の山の頂点に立つ、一人の華奢な人間の女を真っ直ぐに射抜いた。
キングは、長年の闘争本能で即座に理解した。
目の前に涼しい顔で立っているのは、か弱き人間などではない。
人の皮を被って顕現した『理不尽な災害』そのものだ。
この女をここで確実に殺さなければ、自分の築き上げた群れは今日、この瞬間に完全にこの世から滅び去る。
魔物であり、絶対者でありながら、キングの分厚い背筋を一筋の冷たい汗が伝った。
恐怖。
だが、それ以上の『王としての意地と怒り』が、巨体を爆発的に突き動かす。
「グォォォォォォォォォッ!!!」
キングが天に向かって、地獄の底から響くような咆哮を上げた。
ただの大声ではない。
膨大な魔力と濃密な闘気が混ざり合った、物理的な破壊力を持つ衝撃波。
ビリビリと空気が悲鳴を上げて震え、後方で辛うじて立っていたヴァンやノアたち若手冒険者が、その鼓膜を破る重圧に耐えきれず、耳を塞いで膝をつく。
「な、なんだあの禍々しい魔力は……」
「ホブゴブリンなんかとは次元が違う……あれは、単体で軍勢を滅ぼすAランク指定のバケモノだぞ……!」
歴戦の指揮官であるレオニスでさえ、顔面を紙のように蒼白にして大剣を握り直した。
手が震えている。
万全の状態で挑んだとしても、今の自分たちでは何十人いようが絶対に勝てない相手。
それが目の前に顕現したのだ。
だが。
その絶望的な威圧感と殺意を、真正面から真正面で浴びた千代女は。
「ほう!」
歓喜に、美しい桜色の頬をこれ以上ないほど紅潮させていた。
「お主、なかなか良い気迫じゃ! やはり王を名乗るだけのことはある!」
千代女が、ゆっくりと体の向きを変える。
だらりと下げていた『無銘』の切っ先が、流れるような動作でスッと上がり、ピタリと正眼の構えをとる。
その瞬間。
ピタリ、と。
喧騒に包まれていた戦場から、あらゆる『音』が消え失せた。
谷を吹き抜けていた風が止まる。
冒険者たちの荒い呼吸も、遠くで鳴いていた鳥の声も、すべてが真空の空間に吸い込まれたかのように消失した。
いや、違う。
対峙する『二つの化け物』が放つ異常な集中力と殺気が、周囲の空間を物理的に完全に制圧してしまったのだ。
キングが、天を衝くほどの巨大な斬馬剣を大上段に構える。
全身の黒ずんだ筋肉が、爆発寸前のバネのようにメキメキと音を立てて軋む。
一方の千代女は、力みなど一切感じさせず、ただ自然体でそこに立っていた。
だが、その白刃から放たれる凄まじい剣気は、巨大な王の闘気を一歩も退かずに、むしろ削り取るように押し返している。
静寂。
永遠にも似た、コンマ数秒のヒリつくような睨み合い。
そして。
千代女のよく通る涼やかな声が、真空の戦場に高く響き渡った。
「いざ! 尋常に!」
ドガァァァンッ!!!
二つの影が、爆発音と共に同時に弾けた。
巨体に似合わぬ、地盤を砕く神速の踏み込み。
キングの大斬馬剣が、千代女をまとめて両断すべく、容赦のない横薙ぎで全力で振り抜かれる。
空気が圧縮され、爆発する音がした。
すさまじい剣圧だけで地面が深くめくれ上がり、暴風となって後方の冒険者たちを吹き飛ばしそうになる。
回避不能の、死の暴風。
だが、千代女は一歩も退かない。避けることすらない。
「――チェストォォォッ!!」
裂帛の、腹の底から絞り出すような気合いと共に、下段から『無銘』を真っ向から振り上げる。
ガァァァァンッ!!
巨大な黒鋼の斬馬剣と、薄く美しい片刃の刀が、一切の誤魔化しなく正面から激突した。
見ている者の常識が崩壊する、あり得ない光景だった。
数十倍、いや数百倍の絶望的な質量差。それが、空中でピタリと完全に拮抗しているのだ。
激しい火花が散り、衝突によって生まれた二次的な衝撃波が、谷の岩壁をクレーター状に粉々に砕く。
キングの赤い双眸に、明確な驚愕と焦燥が走る。
押し負けている。
これほどの力比べで。
自分より遥かに小さなこの小柄な人間に。
純粋な膂力と、剣の理だけで。
「どうした! 王であろう! 腕力が足りんぞ! もっと腰を入れて踏み込まんか!」
火花を散らしながら、千代女が猛禽類のように嗤う。
ギリッ、と。
踏み込んだ足にさらに力を込め、刀を刃こぼれ一つさせずにグイッと押し込む。
ピキリ。
絶対の強度を誇るはずの、黒鋼の大斬馬剣の刀身に、致命的な亀裂が走った。
キングは焦燥と共に、強引に剣を引き剥がし、今度は大上段から渾身の力で千代女を頭から叩き割ろうとする。
己の命、群れの命、王の誇り。
そのすべてを乗せた、最速最強の最後の一撃。
だが、剣を振り下ろそうとしたその時。
千代女はすでに、神速の歩法でキングの懐深く――絶対の死地へと潜り込んでいた。
氷の上を滑るような、無音の歩法。
(――秘剣)
キングが最後に見上げたのは、視界の下から凄まじい速度で跳ね上がる、一筋の美しい月明かりのような、完璧な逆刃の光だった。
(『飛燕・滝割り』)
ズパァンッ!!
振り下ろされようとしていた分厚い斬馬剣が、真っ二つに両断され、宙を舞う。
一拍遅れて。
キングの強靭な肉体を覆っていたはずの黒鋼の鎧が、まるで濡れた紙のように何の抵抗もなく裂ける。
そして。
四メートルに迫る巨王の体が、股下から脳天まで、完全に、そして見事なまでに一直線に割断された。
一切の防御や抵抗を許さない、絶対的な一刀両断。
キングは、最後にそのあまりにも美しすぎる剣の軌跡を瞳に焼き付け。
声を上げることもなく、音もなく、左右に分かれて崩れ落ちた。
ズズゥン……。
重々しい、王の死の音。
それは、この地を脅かしていた1000の群れの、完全なる終焉を意味していた。
吹き荒れていた破壊の暴風が、嘘のようにピタリと止む。
土埃と砂煙が、ゆっくりと晴れていく。
真っ二つになった、血の海に沈む巨体の中心で。
千代女は、チャッ、と鋭い音を立てて血振るいをして、愛刀を鞘に納めた。
「むぅ」
そして、ひどく不満げに、子供のように唇を尖らせる。
「最後の一撃の気迫は悪くなかったが……やはり、日ノ本の猛将が着込む甲冑の方が、よほど硬くて斬り応えがあるわ。鉄の練り込みが甘いぞ」
Aランクのバケモノを真っ二つにしておきながら、ただの鍛冶屋の文句のようなことをつまらなそうに呟くその規格外の姿を。
へたり込んでいたレオニスやヴァンたち冒険者連合は、もはや恐怖すら通り越し、神話に登場する戦神でも拝むかのような顔で、ただただ口を開けて見上げることしかできなかった。
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