第26話 死狂いの剣神と、崩壊する戦術
それは、重力という世界の絶対法則すらも忘れさせる、軽やかすぎる跳躍だった。
棍棒の圧力に膝をつくヴァンの頭上を、ふわりと、一枚の黒い羽のような影が横切る。
空気が一瞬だけ、時を止めたように静止したように感じられた。
次の瞬間。
一人の薄着の女が、巨大なホブゴブリンの眼前に降り立っていた。
否。
怒り狂う1000匹の軍勢、そのど真ん中へ。
たった単騎で、文字通り飛び込んでいたのだ。
「ち、千代女さん!?」
ヴァンの制止の叫びが、無様に裏返る。
だが、空中で舞い降りる千代女は、心の底から楽しそうに笑っていた。
まるで、待ちに待った祭りの輪に飛び込む無邪気な子供のように。
カチリ。
腰の『無銘』の鯉口が、親指で弾かれる。
そのひどく澄み切った硬質な音が、鼓膜を破るような戦場の喧騒の中で、不思議なほど鮮明に全員の耳に響いた。
「前衛の猛者どもよ。骨のある獲物を独り占めとは、いささか狡いではないか」
彼女の涼やかな視線は、眼前に迫るホブゴブリンの首筋だけを真っ直ぐに射抜いている。
「某にも、少しは残しておけ」
――銀閃。
それはもはや剣の軌跡というより、空間そのものに走った『光の裂け目』だった。
ヴァンを押し潰そうとしていた丸太のような棍棒が、まず半ばから音もなく消えた。
一拍遅れて。
ホブゴブリンの岩のように分厚い胸板が、右肩から左脇腹にかけて、綺麗に斜めに滑る。
まるで、よく切れる鋏で柔らかい絹布を裂くように。
肉を断つ、骨を砕くといった「抵抗」が、一切存在しない。
ドッシャァァァンッ!!
ホブゴブリンの巨体が、左右に分かれて無様に崩れ落ちる。
内臓が滑り落ち、泥のように濁った血が間欠泉のように噴き出す。
だが。
千代女の着地は、舞い落ちる木の葉よりも軽い。
トスッ。
乾いた土の地面に、砂煙すら立たなかった。
「「「…………え?」」」
戦場の時間が、完全に止まった。
死を覚悟していた白銀の梟旅団の面々も。
疲労の限界で血に塗れていた前衛の重戦士たちも。
最後方で戦況を冷静に分析していた指揮官レオニスさえも。
誰一人として、理解が追いつかない。
斬った、という過程が見えない。
ただ『斬り捨てられたという結果』だけが、唐突にそこに提示されたのだ。
だが。
千代女の時間は止まらない。
血の一滴もついていない白刃をだらりと下げる。
視線の先には、仲間を殺されて呆然とする何百という緑の群れ。
その美しい桜色の唇が、ゆっくりと、三日月のように吊り上がる。
ぞくり、と。見ている味方の背筋すら粟立つほどの、凶悪で純粋な笑み。
「さあ。千の軍勢よ」
足元で、ホブゴブリンの血が川のように流れる。
「この剣神を、少しは楽しませてくれるのであろうな?」
トン。
石ころを蹴るように、地を蹴る。
その瞬間。
千代女の姿が、完全に視界から消えた。
比喩ではない。
本当に、煙のように消え去ったのだ。
「ギギャ?」
最前列で硬直していたゴブリンが、不思議そうに首を傾げる。
遅れて。
ポロリ。
その傾げた首が、地面に落ちた。
一匹、二匹ではない。
十。
二十。
三十。
最前列で盾の壁に群がっていた数十匹の首が、まるで目に見えない巨大な鎌で刈り取られたかのように、ほぼ同時に宙を舞う。
噴水のように吹き上がる緑の血。
首を失った胴体だけが数歩走り、そして崩れ落ちる。
「遅い」
凛とした声が、群れの背後から響く。
慌てて振り向いたゴブリンの顔面が、横に綺麗に滑り落ちる。
「遅い遅い遅い!」
黒い残像が何本も、群れの中を縦横無尽に走る。
縦に。
横に。
円を描くように。
千代女は、密集した敵陣の中を疾風のように疾走していた。
足場は折り重なる死体。
ぬかるんだ血溜まり。
だが、彼女の足裏は決して滑らない。むしろ、神々に捧げる舞台の上で舞うように、どこまでも軽やかで優雅だ。
一閃。
二閃。
三閃。
斬られたことすら理解できず、痛みを感じる暇すら与えられずに倒れていくゴブリンたち。
神速の刃は硬い骨を断ち、粗末な鎧を裂き、掲げた棍棒ごと太い腕を容易く落とす。
遅れてやってくるのは、肉が裂け、崩れ落ちる音だけ。
ザンッ。
ドサッ。
ズシャァァッ。
それは、もはや戦闘ではなかった。
完全なる蹂躙。
歩く自然災害だ。
「な、なんだあれは……」
弓を引く手を止め、ノアの声がカタカタと震える。
「速すぎる……剣が、ただの光の線にしか見えない……」
後方で指揮を執るレオニスは、大剣を握りしめたまま、一歩も動けずにいた。
彼が血の滲むような思考で構築した戦術も、完璧な陣形も、もはや一切の意味を失っている。
『千代女』という一人の規格外の存在が、盤面をひっくり返すどころか、盤面そのものを粉砕し、戦況を暴力的に塗り替えているのだ。
「おお! 後方からこそこそと火の玉を放っておったのは貴様か!」
群れの最後尾。
前衛の異常な崩壊に怯え、震える声で迎撃の詠唱をしようとするゴブリン・メイジ。
千代女が、いつの間にかその目の前に立っていた。
1000の群れをどうすり抜けたのか、誰の目にも見えていない。
「良い目をしておる。恐怖に染まった瞳、嫌いではないぞ」
死神のように微笑む。
「少しは斬り甲斐がありそうだな」
ギギィィッ!?
次の瞬間。
魔力を帯びたメイジの首が、呆気なく宙を舞った。
握られていた杖がカランと地面に転がる。
紡がれかけた火球は、主を失い霧散した。
それが、完全な終わりの合図だった。
圧倒的優位にあったはずの軍勢が、指導者を失い、絶対的な死の恐怖にパニックを起こす。
ざわめき。
後退。
悲鳴。
逃走。
一〇〇〇の群れが、蜘蛛の子を散らすようにボロボロと崩れていく。
「逃げるな!」
緑の血の雨が降る中で、千代女が楽しそうに笑う。
「死合の最中であろうが! 背を向けるなど言語道断!」
再び、姿が消える。
逃げ惑う背中が、逃走の悲鳴を上げる暇もなく、次々と斬り伏せられていく。
もはや戦場は、一人の剣鬼による一方的な処刑場と化していた。
◆
指揮官であるレオニスは、理解していた。
戦場とは、冷酷な数式だ。
兵数、地形の優位性、消耗率、士気、魔力残量。
それらの不確定要素を冷静に積み上げ、最適解を導き出せば、勝敗は自ずと読める。
今この瞬間も、彼の優秀な脳は裏で計算を続けていた。
前衛の耐久力は、限界まであと十五分。
後衛の魔力残量は、三割を切った。
遊撃の『白銀の梟旅団』を投入し、空いた穴を一時的に塞ぐ。
死傷者が出るのは避けられないが、持久戦に持ち込めば、いずれ敵の波は尽きる。
勝てる。
そのはずだった。
あの規格外のホブゴブリンが三体同時に出現するまでは。
後衛が爆炎で崩された瞬間、レオニスの中の完璧な計算式に初めて致命的な『誤差』が生じた。
陣形に空いた穴。
想定を上回る圧力の増大。
計算外の上位個体による蹂躙。
それでも、まだ立て直せる。そう信じていた。
遊撃の若い命を犠牲にしてでも差し込めば、陣形は保てる。
指揮官として、非情な決断を下す覚悟はあった。
だが。
次の瞬間。
彼の視界から、あのふざけた軽装の女、千代女が消えた。
「……は?」
数多の死線を越えてきた戦場で、彼がそんな間抜けな声を出したのは初めてだった。
彼の動体視力は、Bランク冒険者の中でも群を抜いて優れている。
一流の剣士の神速の踏み込みも、不可視の上級魔術の軌道も、これまで見逃したことは一度もなかった。
だが今。
本当の本当に、何も見えなかった。
空間が、コマ送りのように飛んだのだ。
ホブゴブリンの巨体が、斜めにずれる。
遅れて、真っ二つに分かれる。
レオニスの冷静な思考が、完全にショートし停止する。
切断面が、異常なほど滑らかすぎる。
それは、切断に対する『抵抗が一切なかった』という恐るべき証拠。
あれはもはや、剣技や斬撃と呼べる代物ではない。
ただそこにあるものを分かつという、純粋な『現象』だ。
「……戦術が」
極度の緊張と畏怖で、レオニスの喉がカラカラに乾く。
彼は悟った。
自分が必死に構築した鉄の盾も。
計算し尽くした陣形も。
仲間との完璧な連携も。
緻密な消耗計算も。
目の前で狂い咲くあの女には、一切の意味をなさないのだと。
彼女が一歩踏み込むたび、戦場の“前線”という概念そのものが消し飛ぶ。
彼女はたった一人で、千の敵陣の中央に、己を中心とした新たな死の境界線をゴリゴリと引き直しているのだ。
戦術とは、本来、非力な『個』の力を束ねて巨大な力に変えるための技術。
だが。
戦術という枠組みすら内側から破壊するほどの、圧倒的な『暴力的な個』が出現した瞬間。
すべてが不要になる。意味を消失する。
それを、彼は冒険者人生で初めて、この目で目撃していた。
「遅い」
千代女が、月明かりの下の狂鬼のように嗤う。
無造作に振るわれた刃から、空気が悲鳴を上げて裂ける音がした。
目に見えない強烈な刃圧が、一直線に走る。
次の瞬間。
射線上にいたゴブリン十数匹が、見えない壁に弾かれたようにまとめて吹き飛ぶ。
それだけではない。
その背後にある、切り立った強固な岩壁。
ビキリ、と。
深く、巨大な亀裂が走った。
レオニスの瞳が、限界まで見開かれる。
「……剣圧、だと? 剣を振った風圧だけで、岩を砕いたのか?」
だが千代女は、自分の放った斬撃の結果に振り返りもしない。
ただ、羽虫を払うように軽く刀を横に払う。
ブォン、と大気が低く唸る。
今度は、凄まじい横薙ぎ。
極限まで圧縮された空気が、目に見えるほどの衝撃波となって広範囲に拡散する。
逃げ惑うゴブリンの群れが、木の葉のようにまとめて宙へ弾き飛ばされ、岩壁に激しく叩きつけられる。
ドガァァァン!!
ついに、強固な岩壁がその衝撃に耐えきれず、広範囲にわたって崩落した。
家屋ほどもある巨石が轟音を立てて落ちる。
分厚い土煙が舞い上がり、峡谷の戦場全体が地震のように激しく揺れる。
もはや、ただの剣技ではない。
明らかな『地形破壊』。
「なんだ……あれは……」
ノアの冷静な声が、恐怖で上ずり震える。
レオニスは、ただ一つの恐るべき事実を理解する。
あの女が、もしここで本気で暴れ回れば。
この峡谷そのものが、跡形もなく崩壊する。
地形の利。
狭隘な地の防衛線。
挟撃防止のセオリー。
そんな冒険者の常識や前提すら、彼女にはまったく無意味なのだ。
彼女は、戦場という盤面の“外側”にいる人外なのだから。
「ふむ」
千代女は、土煙の中で血塗れの刀を肩に担ぐ。
足元には、数え切れないほどのゴブリンの死体が山を築いている。
「少々、暴れるには狭すぎるな」
不満げな呟きの後。
次の踏み込み。
ドッ! という爆発音と共に、硬い岩盤の地面がすり鉢状に大きく抉れる。
踏み込んだ一点から、蜘蛛の巣のように放射状に深い亀裂が走る。
凄まじい振動が地を伝い、生き残って逃げようとしていたゴブリンたちが、次々と体勢を崩して転倒する。
その、絶望的な隙に。
閃。
閃。
閃。
首が舞う。
胴が割れる。
四肢が宙を舞う。
おびただしい血飛沫が、赤い霧となって谷間を覆い尽くす。
それでも。
これだけの絶技を連続で繰り出しながら、彼女の呼吸はただの一つも乱れていない。
ただ純粋に、心の底から。
ひどく、楽しそうだ。
レオニスは、自分の大剣を力強く握りしめたまま、彫像のように動けなかった。
指揮官としての役目が、完全に消滅している。
味方に命令を出す必要が、どこにもない。
戦況は、あの女が飛び出した十数秒で、すでに終わっているのだから。
彼は長い冒険者人生で初めて、手の届かない遥か高みにいる“絶対的な上”を見た。
戦場という概念そのものを、個の暴力で支配する存在。
「……化け物か」
否。
違う。
あれは。
狂おしいほどに戦を愛し、そして戦という概念そのものに愛された、狂気の申し子だ。
千代女が、最後の一匹の首をトスッと落とした時。
喧騒に包まれていた谷には、死のような完全な静寂が戻っていた。
無惨に崩れ落ちた岩壁。
クレーターのように抉れた地面。
視界を埋め尽くす、積み上がる緑の死体の山。
それらすべてが、彼女の通った『蹂躙の軌跡』。
千代女は、血の一滴もついていない刀をゆっくりと鞘に納める。
カチリ。
静寂の谷に、ひどく澄んだ音が響く。
「うむ。ようやく少しは身体が温まったかの」
レオニスは、その信じられないほど華奢な背中を見つめながら、一つの真理を確信する。
この女は、いち冒険者という戦力などではない。
彼女自身が、歩く『災害』そのものなのだと。
数分後。
朝霧が晴れた谷に立っているのは、武器を下ろして呆然と立ち尽くす数十名の冒険者たちと。
山のように積み上がった、1000匹のゴブリンの死体。
そして。
肩で息一つ乱していない、涼しい顔の千代女だけ。
へたり込んだままのヴァンが、掠れた声でポツリと呟く。
「……千代女さんって、一体、何者なんだ……」
ソフィアは、魂が抜けたような極度の疲労困憊の顔で、遠くを見る。
周囲の惨状など気にも留めず、楽しそうに鼻歌を歌いながら戻ってくる、異常な女を。
「……見ればわかるでしょ」
深いため息。
「ただの、頭のおかしい戦闘狂の化け物ですよ」




