第25話 崩壊する戦線と、白銀の梟旅団の危機
ゴブリンという魔物の真の恐ろしさは、決して個の強さではない。
骨は細く脆く、知能は獣並み。
握っている装備も、どこかで拾った錆びた剣や木の棒きれなど粗末なものばかり。
一体一体であれば、村の農夫でも鍬で殴り殺せる程度の脅威でしかない。
だが。
仲間の死体を文字通り踏み台にし、ひしゃげた肉塊を滑る足場にしてなお、前へ前へと進み続けるその異常な執念。
己の痛みも、死の恐怖すらも、圧倒的な『数』で塗り潰して突進してくる狂気。
それこそが、ゴブリンという群れの真の本質だった。
「くそっ……! 殺しても殺しても、次から次へと……キリがねぇぞ!」
開戦から、すでに一時間が経過していた。
最前列で壁を作る重戦士たちの呼吸は限界まで荒くなり、1000匹の暴流を押し返す太い腕が、小刻みに震え始めていた。
全身を覆う重い鎧の隙間から滝のように流れる汗が、朝の冷気で急激に冷え、彼らから容赦なく体力を奪っていく。
盾の向こう側、足元にはすでに小山のような夥しいゴブリンの死体が積み上がっていた。
ドロドロの緑色の血と臓物が地面をひどく滑りやすくし、戦士たちの踏ん張りを奪う。
それでも、悍ましい緑の波は決して止まらない。
押す。
押し返す。
また、力任せに押される。
後衛。
ついに魔術師の一人が、魔力枯渇による激しい頭痛に耐えかねて膝をついた。
「はぁ……はぁ……もう、魔力が……」
後方から放たれる炎球は目に見えて小さくなり、敵を貫く氷柱は細くもろくなる。弓兵たちの矢筒も底が見え始め、空を覆っていた弾幕の密度が明らかに減っていた。
削られているのは、敵だけではない。
冒険者連合の体力と精神力もまた、じわじわと、しかし確実に削り取られていたのだ。
その時だった。
ひたすらに押し寄せるゴブリンの群れの、ずっと奥。
空間が揺らぐほどの異様な熱量が、急激に膨れ上がるのを感じた。
赤い、不吉な光。
次の瞬間、直径三メートルはあろう巨大な炎塊が、群れの奥から高く弧を描いて、防衛線の後方へと飛来したのだ。
「なっ……ゴブリンメイジか!? 後衛、散開しろ!」
指揮官レオニスの焦燥に満ちた声が谷に響く。
しかし、密集陣形をとっていた後衛にとって、それはあまりにも遅すぎた。
巨大な炎塊が着弾。
轟音。
強烈な爆風。
岩をも砕く爆炎が、逃げ遅れた弓兵を吹き飛ばし、魔術師の陣形を無残に焼き裂いた。
鼓膜を破るような悲鳴が重なり、焦げた布と肉の嫌な匂いが谷底に立ち上る。
最も頼りだった後方からの援護の弾幕が、完全に途切れる。
ほんの一瞬の、致命的な空白。
だが、知能の低い魔物たちにとって、その「一瞬の綻び」を突くにはそれで十分だった。
群れの奥から、先ほどとは比べ物にならない圧を持った影が現れる。
通常のゴブリンの倍以上の体躯。
異常に発達し、岩のように盛り上がった黒い筋肉。醜い牙を剥き出しにした獰猛な面構え。
上位種・ホブゴブリン。
それも、一体ではない。
三体だ。
彼らは地面をドスドスと揺らしながら、小鬼どもを蹴散らして最前線へと突進してきた。
「ガァァァァッ!!」
ズガァァァンッ!!
大気を震わせ、巨木のような太い棍棒が、渾身の力で盾の壁へと振り下ろされる。
ガルドの隣で必死に耐えていた戦士の鋼の盾が、ひしゃげるどころか完全に粉砕され、鋭い金属片が弾け飛ぶ。
戦士の身体はまるで紙屑のように空高く吹き飛ばされ、硬い地面を無残に転がった。
完璧だったはずの盾の壁に、ついに致命的な『大穴』が空いた。
その血の匂いのする隙間に向かって、狂喜した小鬼の群れが雪崩を打って殺到する。
「陣形に穴が開いたぞ!! 遊撃部隊、前へ出ろ! 穴を塞げ!!」
冷静沈着だったレオニスの叫びに、初めて隠しきれない焦りが混じっていた。
ついに。
後方で待機していた若手パーティー、『白銀の梟旅団』の出番が来たのだ。
「行くぞみんな! あの穴を俺たちで塞ぐ!」
リーダーのヴァンが悲壮な覚悟で剣を抜き、弾かれたように前線へと走る。
だが。
安全圏から一歩、最前線の地獄へと足を踏み入れた瞬間、凄まじい『実戦の圧力』が彼らの全身に重くのしかかった。
濃密な血と臓物の匂い。
入り乱れる断末魔の叫び声。
金属と肉が砕ける生々しい衝突音。
そして目の前には、血走った目で牙を剥いた、見上げるほど巨大なホブゴブリン。
「ベルカ、魔法の援護を!」
「わ、わかってる! お願い、風の精霊……あ、あっ!?」
後方で杖を構えた赤髪の精霊術師ベルカだったが、極度の緊張と死の恐怖によって魔力の流れが激しく乱れる。
紡ぎかけた術式が、虚しく空中で霧散する。一番肝心な場面で、詠唱が破綻してしまったのだ。
後方からの援護なし。
無情にも、ホブゴブリンの丸太のような棍棒が、先頭のヴァンに向かって容赦なく振り下ろされる。
ヴァンは咄嗟に剣を交差させ、盾代わりにして受け止めた。
全身を貫く、規格外の衝撃。
両腕に走る、骨が砕けそうな激痛。
「ぐっ、ああぁぁぁっ……!」
骨が嫌な音を立てて軋む。
泥まみれの足が地面に深く沈み込み、耐えきれずに膝がガクリと折れる。
人間と魔物の、圧倒的な膂力の差。
交差した刃が滑り、ヴァンの身体が徐々に押し潰されていく。
そして、彼が食い止めきれなかったその横。
陣形に空いた大穴から、何十匹ものゴブリンたちが、堰を切ったように陣形の内側へと溢れ出してきた。
黄色く濁った、飢餓に満ちた目。
いやらしく歪んだ、醜い口元。
彼らの標的は、抵抗力のない無防備な後衛。
杖を握りしめたイリスとソフィアだった。
「ひぃっ!?」
「いやぁぁぁっ! 来ないでぇっ!」
回復役と魔法使いの少女は、接近戦を凌ぐ術を何一つ持たない。
イリスが泣きそうな顔で震える手で聖印を掲げるが、当然詠唱が間に合うはずもない。
ソフィアは半狂乱になって杖を振り回すが、素早い小鬼の群れには掠りもしない。
不潔な手が伸びる。
鋭い牙が、少女たちの白い喉元へと迫る。
ヴァンは棍棒に押し潰されかけており、動けない。
指揮官のレオニスが、己の采配ミスを呪ってギリッと奥歯を噛み砕かんばかりに歯ぎしりをする。
「しまった……前線が完全に崩壊する……!」
盾の壁が内側から崩されれば、後はただの蹂躙だ。
1000匹という数の暴力は、一瞬にしてこの戦場を血の海へと呑み込むだろう。
死の真っ黒な影が谷を覆い尽くし、絶望が冒険者全員の胸を冷たく鷲掴みにした。
――その、絶望のどん底の瞬間。
チャキ。
騒音にまみれた戦場に似つかわしくない、ひどく澄んだ乾いた音が、凛と響き渡った。
刀の鯉口が、親指で静かに押し開けられる音。
「――待ちくたびれたぞ!」
絶望と血と泥に塗れた地獄の戦場に、まるで春の陽だまりのような、場違いなほど晴れやかで、弾むような声が響いた。
「ようやく、某の出番というわけだな!!」
今まで大人しく最後尾にいた千代女が、満面の笑みでスッと一歩、前へと出た。
その涼やかな瞳は、極上の獲物を前にした飢えた猛禽のそれ。
次の瞬間。
タァンッ!
軽やかな踏み込みの音だけを残し、彼女の姿が、完全にソフィアたちの視界から『消えた』。




