第24話 悍ましい緑の波と、完璧な防衛線
翌朝。
朝靄がまだ分厚く谷底に沈み込んでいる、アクアリアの街外れにある狭隘な峡谷。
左右を切り立った灰色の岩壁に挟まれたその地は、まるで天然の処刑場のようだった。
空は細い帯のように切り取られ、陽光はまだ深い谷底まで届かない。
湿った苔むす岩肌から滴る冷たい水音が、不気味に静まり返った空気に規則的な秒針を刻んでいる。
そこに、総勢数十名からなる冒険者連合が、幾重にも重なる強固な陣を敷いていた。
最前列。
Bランクパーティー『蒼天の黎明団』の重戦士ガルドを中心に、全身を分厚い鋼で固めた戦士たちが横一列に並ぶ。
彼らが構える巨大なタワーシールドが隙間なく重なり合い、金属と金属が擦れる鈍い音が谷間に反響する。
まさしく、動く鉄壁。
盾の縁と縁はガッチリと噛み合い、下部は硬い地面に深く食い込ませてある。
足元には後退を防ぐための滑り止めの太い杭。
凄まじい衝撃に備え、前衛の全員が深く腰を落とし、重心を低く構えて荒い息を吐いていた。
そのすぐ背後には弓兵隊。
矢はすでに番えられ、弦はギリギリと限界まで引き絞られている。
矢羽がわずかに震えるたび、張り詰めた緊張が空気をビリビリと震わせた。
さらに後方。
詠唱を開始した魔術師たちの足元には、淡く発光する幾何学的な魔法陣が浮かび上がっている。炎の精霊がチリチリとさざめき、氷の気配が谷の朝霧をさらに冷たく凍らせていく。
すべては、計算通り。
狭い地形を最大限に活かし、敵の圧倒的な数的優位を完全に殺す、理にかなった完璧な防衛陣形。
それを構築したのは、『蒼天の黎明団』リーダーのレオニスだ。
彼は陣の中央後方の小高い岩の上に立ち、戦場全体を俯瞰している。
大剣を肩に担ぎながらも、その鋭い視線は一瞬たりとも揺らがない。
敵の進路、かかる圧力の分散、後退のタイミング、その全てをすでに頭の中で盤面として描き切っていた。
だが、その最後尾。
遊撃として待機を命じられた若手パーティー『白銀の梟旅団』の中で、千代女だけが、退屈そうに、そしてひどく落ち着きなく地面をトントンと踏み鳴らしていた。
「まだか? まだ斬り込んではならんのか?」
親指で、愛刀の鯉口を切る。
チャキ、と澄んだ乾いた金属音。
またカチリと納める。
数秒後、再びチャキ。
隣でリーダーのヴァンが、冷や汗を流しながら必死に制止する。
「だーめ! 俺たちは後方の穴埋め担当! 前衛が崩れた所にすかさず差し込んでカバーするのが仕事なんだから、勝手に出ちゃダメ!」
「ひたすら待つ戦など、わしの性に合わぬ」
千代女の涼やかな瞳は、すでに血湧き肉躍る戦場を激しく欲していた。
極上の血の匂いを求める、飢えた獣のように。
その横で、回復担当のイリスは胸元で聖印を白くなるほど握りしめ、小声で必死に祈りを唱えている。
さらに隣では、ソフィアが真新しい杖を抱え込み、ガタガタと震える声で呟いていた。
「来ないで……お願いだから、来ないで……」
――ズズン……。
微かな、しかしひどく重い低い振動が足元から伝わってくる。
地面の小石が跳ね、前衛の構える盾が微かに揺れる。
――ズズン……ズズン……。
地鳴りは次第に規則的で巨大なものになり、谷奥の分厚い霧が大きく揺れ始めた。
弓兵のノアが、鷹のように目を細める。
「……来るぞ」
霧の向こうに、おびただしい数の黒い影が蠢く。
次の瞬間。
谷奥から一斉に溢れ出したのは、吐き気を催すような悍ましい『緑色の奔流』だった。
「ギギィッ!!」「ギャアァァァッ!!」
キーキーと耳の奥を裂くような、狂気に満ちた奇声の合唱。
錆びた剣、歪んだ槍、血の乾いた粗末な棍棒。
そこに統率も、美しい隊列も一切ない。
ただ、圧倒的な数だけで獲物を押し潰すための、純粋な殺意と食欲の塊。
ゴブリンの大群だ。
前列が石につまずいて転べば、後続が容赦なくその背中を踏み潰し、踏み越えていく。
それでも止まらない。背後から尋常ではない圧力で押され、前へ前へと泥水のように圧縮されて迫り来る。
その数、ざっと1000匹。
谷間を完全に埋め尽くす、緑の津波。
生臭いひどい体臭と、錆びた鉄と血の入り混じった悪臭が、突風に乗って防衛線へと叩きつけられた。
だが、指揮官のレオニスは微動だにしない。
冷徹な目で、敵が射程に入るのを待つ。
あと十歩。
八歩。
五歩。
彼の剣が真っ直ぐ高く掲げられ――鋭く振り下ろされた。
「――放てッ!!」
弓弦が一斉に鳴る。
ビィンッ! と空気を裂く凄まじい風切り音と共に、何十本もの矢の雨が緑の波へと降り注ぐ。
次いで、魔術師たちの魔法が解放された。
ドガァァァンッ!!
巨大な炎球が炸裂し、鋭い氷柱が地面から次々と突き上がる。
轟音と共に、先頭を走っていた数十匹のゴブリンたちがまとめて吹き飛び、黒焦げの肉片と緑色の血飛沫が宙を舞う。
谷壁に爆音が激しく反響し、耳がビリビリと痺れた。
だが。
後続のゴブリンたちは恐れるどころか、即座にその死体の穴を埋める。
仲間の死体を文字通り踏み台にし、盾にしながら、ただひたすらに突進してくる狂気。
「来るぞ、しっかり構えろ!!」
ガルドの腹の底からの怒号。
次の瞬間、ゴブリンの激しい濁流が、ついに『盾の壁』に激突した。
ドォンッ!! という、車同士がぶつかったような重く鈍い衝撃。
鋼の盾が一斉に軋む。
歯を食いしばり、顔を真っ赤にして踏ん張る重戦士たち。
土に深く埋めたはずの杭が、メキメキと悲鳴を上げる。1000匹の後方からの圧力が、前列のゴブリンを押し潰しながら、盾の壁を力任せに押してくるのだ。
「押し返せぇッ!! 押し潰されるな!!」
ガルドが吠え、巨大な盾を思い切り前へと押し出す。
重量と筋力の塊が前へ出たことで、圧力に耐えきれなくなった前列のゴブリンたちが、自らの仲間に押されてグシャリと潰れ、弾き飛ばされる。
その僅かに生じた隙間から、後列の槍兵たちの鋭い穂先が容赦なく突き出された。
喉を貫き、腹を裂く。
緑の血が、鋼の盾にドクドクと飛び散る。
足場が血と臓物でひどく滑る。
それでも、冒険者たちの陣は決して崩れない。
後方からは次々と正確な矢と魔法が放たれ、前衛の頭上を越えて、後続の敵を確実に削っていく。
「すごい……!」
イリスが、その完璧な連携に息を呑む。
「いける……! このままのペースで削り切れれば、勝てる……!」
ヴァンも、額に汗を滲ませながら力強く頷く。
序盤の流れは、完全にこちらの計算通り。冒険者連合の圧勝ペースだった。
最後尾の千代女は、ひどく退屈そうに大きな欠伸を一つ噛み殺した。
「なんじゃ。わしの出番は、このまま最後までなさそうじゃの」
だが。
戦場の空気がわずかに変質したのは、その時だった。
ひたすらに押し寄せるゴブリンの波の、ずっと奥。
他のゴブリンを虫けらのように撥ね除けながら、ひときわ大きな影が、ゆっくりと姿を現したのだ。
通常のゴブリンの倍、人間の大人よりも遥かに巨大な体躯。
異常に発達した黒ずんだ筋肉。
両手には、巨木をそのまま削り出したような、おぞましい無骨な棍棒が握られている。
上位種・ホブゴブリン。
その腹の底に響く咆哮が、谷全体をビリビリと震わせた。
「グォオオオオオオッ!!」
空気が、明確に変わる。
指揮を執るレオニスの目が、鋭く細められた。
ホブゴブリンの咆哮に呼応するように、ゴブリンの波の圧力が一段と増し、完璧だった盾の一角に、わずかな歪みが生じる。
長引けば、前衛の体力の消耗は避けられない。
そして。
最後尾にいた弓兵ノアの鋭い観察眼が、ゴブリンの後方で不自然な動きを見せる、小柄な複数の影を捉えた。
彼らは正面の盾の壁には向かわず、切り立った岩壁のわずかな足場を、猿のように器用に登って散開していく。
「……おい。あいつら、岩壁を伝って『横の死角』を狙ってきてるぞ。しかも、杖を持ってる奴がいる……ゴブリンメイジだ」
ノアが舌打ちをしながら呟く。
計算され尽くした平和な防衛戦は、終わりを告げようとしていた。
そして、その「崩れかけた戦況」を見た千代女の桜色の唇が、ゆっくりと、嬉しそうに吊り上がる。
チャキ。
本日何度目かの、鯉口を切る音。
だが今度は、刀身が半分以上、鞘から滑り出していた。
「ほう……ようやく、少しは歯応えのある奴が出てきたか」
退屈な作業場から、血湧き肉躍る『戦場』へ。
最強の侍の瞳の奥で、昏い歓喜の炎が燃え上がった。




