第21話 勇者の噂と、厄介な依頼
白亜の石造りの広く美しいギルド内に、ピリッとした……いや、完全に凍りついた空気が流れていた。
木っ端微塵になった扉の残骸を踏み越え、「この街の強者と手合い(死合)を所望する!」と堂々と宣言した千代女を前に、アクアリア支部のギルド長・ガイルスは、ひどく困ったように眉尻を下げ、深大なため息をついた。
「手合い、ですか……。あいにくですが、今このギルドに、千代女さんの相手になりそうな者はおりません。柄と素行はすこぶる悪いですが、今うちのギルドにいる中で腕の立つ高ランクの冒険者なら、すでに千代女さんの足元に……」
そう言ってガイルスが、疲れ切った顔で指差したのは、ギルドの床だった。
そこには、つい先ほど千代女の『鞘当て』を一撃食らい、ギルドの分厚い扉をぶち破って白目を剥いている巨漢の男が、ピクピクとカエルのように痙攣しながら転がっている。
「な……なんだと。まさか此奴が、この巨大な街の高ランクじゃと……!?」
千代女は、この世の終わりのような絶望に満ちた声を上げ、床に転がる巨漢とガイルスを交互に見比べた。
(なんという事だ。あれほど大口を叩き、殺気を放っておったから、さぞ骨のある猛者かと思いきや……ただの脆い薪ではないか!)
あまりのショックに、がっくりと肩を落とし、完全に覇気を失う最強の侍。
その様子を見て、案内役のソフィアが不思議そうに小首を傾げた。
「あの、ガイルスさん。確か、ファルサのギルド長のグレンさんは『この街の周辺には手強い魔物が溢れているから、強い冒険者もウヨウヨいる』って言っていたんですけど……」
「ああ、それは数ヶ月も前の、古いお話ですね」
ガイルスは神経質そうに銀縁の眼鏡の位置をクイッと直し、困ったような苦笑いを浮かべた。
「このアクアリアは、今や近隣でも類を見ないほど『比較的平和な街』になったのですよ。手強い魔物が激減したため、血の気の多い高ランクの冒険者たちも、新しい依頼や稼ぎ場を求めて別の街や大陸へ移ってしまったんです」
「手強い魔物が激減した?」
「ええ。数ヶ月前、この街に『勇者様』のパーティーが訪れましてね。港の海路を塞いでいたBランクのクラーケンや、周辺のダンジョンに巣食っていた凶悪な大物魔物を、文字通り根こそぎ退治されて行かれたのですよ」
その言葉を聞いた瞬間。
肩を落としていた千代女の頭の上に、ピコンと疑問符が浮かんだ。
「……ゆうしゃ? とは、なんぞやソフィア? 日ノ本でいうところの、幕府の将軍か何かか?」
「ええっ!? 千代女さん、嘘でしょ!? 勇者様を知らないんですか!?」
ソフィアは猫のように目を真ん丸にし、慌ててこの異世界における絶対の常識を説き始めた。
「勇者様というのは、神様からの神託を受けて聖なる剣に選ばれた、世界で一番強いと言われている人間のことです! いずれ復活して世界を滅ぼすと言われている『魔王』を倒すために、世界中を旅している絶対的な強者なんですよ!」
「――なんと!!」
千代女の涼やかな瞳の奥で、カッと、太陽よりも眩しい凄まじい光が燃え上がった。
『世界で一番強い』『絶対的な強者』。
究極の戦闘狂である彼女の耳には、それ以上に魅力的な響きはこの世に存在しない。「魔王を倒す世界の希望」や「平和のための旅」といった超重要情報は、千代女の耳を完全に、一片の引っ掛かりもなく素通りしていた。
「そのような、頂を極めた強者がこの世に居るのか! 是非! 是非是非とも、手合わせをしたいものじゃ!! 魔王とやらより先に某が斬る!!」
千代女はガバッと身を乗り出し、子供のように目をキラキラと輝かせながら、鼻息を荒くしてガイルスに詰め寄った。
「だーかーらー! 勇者様は魔王を倒す世界の希望なんです! 辻斬りみたいに手合いを申し込まないでください!! 神罰が下りますよ!」
「どこだ! その勇者とやらは今どこにおる、ギルド長よ! 案内せい!」
「い、いや、落ち着いてください千代女さん。近すぎます。残念ながら、勇者様はもうこの街にはいらっしゃいませんよ」
目を血走らせて迫り来る千代女の凄まじい圧に、タジタジと後ずさりしながら、ガイルスは両手を振って全力で否定した。
「勇者様は、次に魔物の被害で困っている街を救いに行くとかで、とうに船で出立されました。今頃は遥か南の国か、あるいは東の修羅の大陸に向かっているかもしれません」
「……なんじゃ、ひどくつまらんのう」
千代女は、不満げに口を尖らせてスッと元の位置に戻った。
まるで、ずっと楽しみにしていた祭りが目の前で終わってしまった子供のような、露骨な落ち込みようだ。
そんな、いつ爆発するかわからない不完全燃焼の化け物を前に、ガイルスは兄からの紹介状――『退屈させると街を半壊させかねないから、さっさとデカい仕事を振れ』という切実な警告文――を思い出し、コホンとわざとらしく咳払いをした。
「ただ……千代女さんの、ワイバーンを討伐したその『規格外の腕』を見込んで、ギルドとして一つ、特例の依頼をお願いしたいのですが」
「む? 依頼?」
ガイルスの言葉に、千代女がスッと顔を上げる。
「ええ。勇者様が去った後、この街の近郊に、新しく住み着き大繁殖した魔物がおりましてね。これが……個の力としては大したことないのですが、その『異常な数』ゆえに少しばかり厄介で、今のこの街の残った戦力では非常に手を焼いているのですよ」
ガイルスの銀縁眼鏡の奥が、鋭く光る。
その『厄介』という言葉の響きと、途方もない数を匂わせる気配に、千代女の美しい貌に再び、凶悪で美しい武人の笑みがゆっくりと浮かび上がった。




