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揺れる馬車の中で、黒髪の少女は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ手を強く握り締めていた。
これから向かう先はカルナ・ヴォルトガントでも有数の三つ星ホテル。
この一年、婚約者である彼が領地に送られたと聞いてどれ程喜んだことか。このまま婚約を解消してしまえたらと、どれ程願った事か。
それでも、その安寧はたった一年だけだった。
彼が王都に戻って来た。
その知らせに少女は絶望した。次の顔合わせも親が勝手に決めてしまい、拒否権など彼女にはなかった。出来る筈もない、彼女の家は伯爵とは名ばかりの貧乏貴族。
彼との婚約が成立したからこそ、彼女の家は今日まで金銭的支援を受けられているのだから。
今身に纏っているこのドレスも靴も宝石全てが、公爵家から今日のこの為に届けられた衣装だ。
今までの悪趣味でド派手な衣装とは違い、今回のは随分と大人しい極々一般的な衣装であり、そのことも気掛かりだった。
「シルヴィア」
向かいに座る父親に名前を呼ばれ、少女はハッとして顔を上げる。
「なんだね、その顔は?」
「いいえ、何でもございませんわ。お父様」
「まぁ、いい。いいか、レギュラス様の御機嫌を損ねることのないよう努めなさい」
「……心得て、おりますとも」
少女――シルヴィアは感情を押し殺すように、赤紫色の瞳を瞼で覆った。
***
それは待ちに待った、食事会。
今日この日の為にどれだけの苦行を強いられた事か……ッ!
シュベルツは領地での二週間を思い出し、涙腺を緩め、口元を手で覆った。
今日袖を通した服は新品で、今日の為に縫われたこれまたなんとも着心地の良いスーツ。全く貴族の金の使い所とは理解できぬ領分だ。
グレンさんと使用人の方々は、随分楽しそうに身につける装飾品を選んでくれている。
身につける物なんて何でもいいだろうと、適当に選ぼうとしたらグレンさんにめちゃんこ怒られて、タウン・ハウスの使用人には「身につける物全てに深くこだわりを持っていらしたレギュラス様が……っ!」なんて正気を保てずに泣き出す者まで現れて大変だった。
ケルヴィンさんは用事で出掛けたらしい。
「レギュラス様。ミス・シルヴィアは学業の合間をぬって来て下さるんですから。有意義な時間をプレゼントしましょうね!」
「……はい」
「おや、顔色が悪いですね。どこか、お加減でも?」
「いや、だって……これから婚約者に会うんですよね? もう緊張で緊張で」
「吐かないで下さいよ?」
「なんですか、グレンさん。そんな俺がよく吐くみたいな言い方……」
「俺との訓練ではよく吐いてましたよね」
「アンタが人の腹殴るからだろ?!」
あん時凄かったんだぞ、腹に痣が出来てさ。流石の脂肪も守ってはくれなかった。
それに体力限界まで走らされて吐いたし、食べさせられ過ぎて吐いたし……あれ? 俺結構吐いてた?? あ、吐いてたわ、めっちゃ食べた物吐き出してた。
「ほらほら、折角の衣装がそんなお顔では台無しですよ。ブローチはこれでいいでしょう。リボンも直してっと……良くお似合いですよ、レギュラス様」
「……アリガトウゴザイマス」
姿見の前に立った自分の姿に、馬子にも衣裳だという感想を抱き今日の予定をザッと確認する。
ヴォッケンシュタイン伯爵がご令嬢、ミス・シルヴィアとの顔合わせと言うお食事会の後、あとは若いお二人で、という事らしい。どういう事だよ。
「そろそろ、出発のお時間です」
シュベルツは馬車に乗り込んだ。ロードンは朝早くから家を出ており、会場のホテルで合流する手筈となっている。いやはや多忙な人だ。父親とは常に多忙で家に寄り付かない人種なのだろうか。
「会場となるホテル、グランド・ニフェルムには、それはそれは素晴らしい庭園がありましてね青い湖がとても神秘的で……って話聞いてます?」
「あ、すいません、景色観てました」
「もー! レギュラス様しっかりしてくださいよー! 初のお披露目みたいなもんなんですからね!」
グレンは様々なアドバイスを教え聞かせ、シュベルツは相槌を打ちながらも窓から見える貴族街の街並みに呆気に取られていた。
隅から隅まで整備に行き届いた石畳の道に、何処を見ても豪勢な建物の群れ、道行く人は煌びやかな衣装に身を包みゆっくりと移動している。雨も降っていないのに傘までさして。
常に人と物に溢れ、道にゴミが散らかっている下町とは大違いだ。
(犬が、服着て歩いてる……)
正に未知の世界。上流階級とはやはり、理解しがたい文化が根付いているようだ。ああ、恐ろしい。
シュベルツの常識では犬は確かに愛玩用でもあるが、家族として迎え入れ共に時を過ごし、家畜を守る役割も果たしてくれる良き隣人であり仕事仲間だ。
貴族街の豪勢な街並みは巨大な門を潜ると、今度は大自然の様に緑に囲まれながらも開けた道に続く。
「あ、もうここからホテルの敷地内です」
「え!?」
シュベルツは驚いて凝視してしまう。え、ここが、え?
「すっごい大自然」
「そりゃ、大都会の大森林が売りの一つですから」
馬車は道なりに進み、正面入り口ではなく、少し離れた別の入り口で停車した。
「ちょっとお話してきますから、レギュラス様は少々お待ちください」
グレンは馬車から降り、ホテル側の従業員に何かを見せ、確認し合い。ようやっとシュベルツも馬車から降りるよう声を掛けられた。
馬車から降りればグレンにステッキを手渡される。
黒檀の支柱と梟をあしらった銀細工のハンドル、梟の目には緑色の宝石が嵌め込まれた特注品。
「本日は当ホテルをご利用いただき、真に有難う御座います。ようこそ、おいで下さいました。レギュラス様」
「は、はいっ」
「それでは、此方へ」
ホテルマンに案内され廊下を歩く最中、様々な説明を受ける。このホテルの成り立ちと本日のおすすめスポットなど丁寧に説明されるも、シュベルツにはチンプンカンプンだった。
けれど知識として一応は記憶しておくように心がける。
部屋の一室のような広さを誇る広い廊下を進んでいると、見覚えのある壺を見かけた。
あの壺、屋敷に置いてあった壺と似てる。
「おや? お気づきになられましたか。この壺は彼の陶芸家ジョフィエが作ったものでして、見事な細工でしょう? 確か対になる壺はアッヘンヴェルバッハ家にあるとお話を伺っております」
「そうですね、えっとレリーフと飾り台が」
「そうです、この壺の一番の特徴は正にエミディオの戦いを精密に表したレリーフなのですが、飾り台にも深い意味がございます。そのことをご存じだとは流石はレギュラス様でございますね」
「あはは~」
帰ったら美術の授業をもっとちゃんと受けよう。
「既にヴォッケンシュタイン伯爵はご到着されており、アッヘンヴェルバッハ公爵閣下も先程到着したばかりで御座います」
「そうでしたか」
「お部屋は此方の……」
ホテルマンが案内しようとした部屋の扉が開き、中からロードンが現れた。
「では、込み入った話になります故、我々は部屋を移し……おお、レギュラス、来ていたのか」
「ち、父上?」
ロードンは息子を見つけると歩みより、肩を抱く。
「グレン、なにか問題はあったか?」
「いいえ。何一つ」
「そうか。レギュラス、私はヴォッケンシュタイン伯爵と席を外す、あとは任せた」
「え! は、はい!」
「ヴォッケンシュタイン伯爵、改めて紹介しよう。息子のレギュラスだ」
「……! な……っ! は……れ、レギュラス様でございますか?」
ヴォッケンシュタイン伯爵は息子だと説明を受けた少年を見て、目を見開く。なんせ見た目が全くの別人なのだ。
先ず体型が違う。それから、体型が違う、兎にも角にも体型が違う。
伯爵がよく知っているレギュラスはあまりにも巨体なデブで、常に相手を見下す様な態度をとる生意気な小僧だ。だが、今目の前いる少年はそれとはよほどかけ離れた美少年ではないか。
確かに美しい白銀の髪と、深緑の瞳は父親である公爵と同等で、血縁を感じさせるものはあるが……。
伯爵はロードンとその息子を見比べ、顔を引きつらせて言葉を失くしてしまう。
シュベルツは、そんな伯爵の気持ちを察して同情した。
(ええ、ええ。よく分かりますとも、その気持ち。別人だって言われた方がまだ理解出来るよな)
もう何度目かになるこの状況、慣れましたとも。
領地の屋敷では、使用人やロレシオン商会、エーデル&ジョンの皆々様。それからタウン・ハウスの使用人の方々からは、それはもう驚かれ、動揺され、中には気を失って寝込む者まで現れる始末。
「こ、こんにちは、ヴォッケンシュタイン伯爵。改めてご挨拶を、レギュラスです。あー本日はお日柄もよく」
「あ、ああ。レギュラス様、こんにちは、その……あー」
ヴォッケンシュタイン伯爵はロードンに助けを求める視線を送る。これは一体どんな催しなのか、と。
「ははっ、そう驚くなと言う方が難しいな」
「は、はぁ……」
「この一年、領地で少し鍛え直させた。それだけのことよ」
「……領地で休養されると、お伺い致しておりましたが……そうで御座いましたか。ええ、その大変驚きました。本当に、見違えたお姿で」
「私も随分と見違えたものだ。それでは、時間が迫っているな。グレン頼んだぞ」
「御意」
ロードンはレギュラスの肩を一叩きすると、伯爵を引きつれて別室に行ってしまう。
「えと、あのグレンさん?」
「ほら、ミス・シルヴィアがお待ちですよ」
「う、うん」
部屋の前まで移動しドアが開かれ、シュベルツは目を見張った。窓辺に佇む、美しい少女に目を奪われ、息を呑む。




