遊撃区でも生産をおこなうことができる (一九四五年一月三十一日)
これは、毛沢東同志が延安の『解放日報』にかわって書いた社説である。
敵後方の解放区のなかの比較的強固な根拠地では、軍隊と民衆の生産運動をおこすことができ、またおこさなければならないこと、これはすでに解決すみであり、もう問題にはならなくなっている。だが、遊撃区でも、つまり敵後方にある敵後方でも、そうすることができるかどうかは、これまで、多くの人びとの頭のなかでまだ解決されていなかった。それはまだ裏づけがなかったからである。
だが、いまではもう裏づけがある。一月二十八日の『解放日報』にのった山西・察哈爾・河北遊撃隊の生産運動についての張平凱同志の報道によると、山西・察哈爾・河北辺区の多くの遊撃区では、すでに一九四四年に大規模な生産をおこない、ひじょうによい成果をあげている。張同志の報道でとりあげられている地域および部隊には、河北省中部の第六分区、第二分区の第四区隊①、第四分区の第八区隊、徐水・定興支隊、保定・満城支隊、雲彪支隊があり、山西省の代県と[山+享]県の部隊がある。それらの地域の条件はひじょうにわろくて、「敵軍とかいらい軍の拠点やトーチカがたちならび、濠や防壁や道路が網の目のようにはりめぐらされ、敵は軍事上の優勢と交通の便利な点を利用して、たえずわが方を襲撃し、包囲し、『討伐』してくる。遊撃隊はこの条件に対処するため、日に数ヵ所も移動することがしばしばある。」だがそれでも、かれらは戦闘のあいまに生産をおこなうことができた。その結果、「みんなの給養が改善され、一人一日あたり油と塩が半両、野菜が一斤、肉は一ヵ月一斤半というところまでふえた。そのうえ、数年間つかったことのない歯ブラシ、歯みがき粉、読み書きの読本もいまではもうそろっている。」どうだろう、これでも遊撃区では生産をおこなうことができないといえるだろうか。
多くの人は、人口の密集している地方には土地がないという。だが、はたして土地がないだろうか。山西・察哈爾・河北辺区をみてほしい。「まず、農業を主とする方針のもとに土地問題を解決した。かれらには九つのやり方がある。第一に、封鎖用の防壁や濠をつぶして平らにすること、第二に、敵に利用されるおそれのある道路をつぶして、その両側に農作物をうえること、第三に、小さな荒れ地を利用すること、第四に、民兵に協力し、武装力の掩護によって、月明かりの夜に、敵のとりでの下にある土地の作付けを強行すること、第五に、労働力のたりない農民と共同で耕作すること、第六に、部隊が変装して、なかば公然たる形で、敵の拠点やトーチカの近くの土地を耕作すること、第七に、川べりを利用して、そこに堤防をきずいて砂州を改造し、砂をとりのぞいて耕地にすること、第八に、農民に協力して非灌漑地を灌漑地に改造すること、第九に、自分たちが活動するすべての村落で野良仕事を援助することである。」
農業生産はやれるとしても、手工業その他の生産は多分やれないのではないか。だが、はたしてやれないだろうか。山西・察蛤爾・河北辺区をみてほしい。「濠封鎖線の外にある部隊の生産としては、農業だけではなくて、根拠地内の強固な地区と同様、手工業や運輸業もおこなわれている。第四区隊ではフェルト帽をつくる手工業場を一つ、油をしぼる手工業場を一つ、粉をひく手工業場を一つつくり、七ヵ月のあいだに辺区の貨幣で五十万元の収益をあげた。こうして自分の困難を解決したばかりでなく、遊撃区の大衆の需要をもみたした。毛糸のジャケツや靴下なども、兵士たちは全部自給できるようになった。」
遊撃区ではあれほどひんぱんに戦闘があるのだから、軍隊が生産に従事すれば、おそらく作戦に影響するのではあるまいか。だが、はたしてそうだろうか。山西・察蛤爾・河北辺区をみてほしい。「戦闘の任務と生産の任務とをおなじように重視し、労働力と武装力との結合という原則が実現された。」「第二分区の第四区隊を例にとろう。春の耕作がはじまると、専門の部隊を派遣して敵に打撃をあたえるとともに、強力な政治攻勢をおこなった。だからこそ、軍事行動も活発になり、部隊の戦闘力も高まったのである。この小部隊は二月から九月のはじめまでに七十一回の戦闘をおこなって、朱東社、上荘、野荘、鳳家寨、崖頭などの拠点を攻略し、敵軍とかいらい軍に百六十五人の死傷者をださせ、かいらい軍九十一人を捕虜にし、軽機関銃三ちょう、小銃と拳銃百一ちょうをぶんどった。」「軍事行動と大生産運動の宣伝とを結びつけ、『大生産運動を破壊するものがあれば、それをやっつける』という政治攻勢をただちにおこした。代県、[山+享]県などの県都にいる敵が民衆に、『なぜ八路軍は近ごろこんなに手ごわいのか』とたずねたところ、民衆は、『お前さんたちが辺区の大生産運動を破壊するからだよ』と答えた。かいらい軍の兵士たちは、『向こうさんは大生産運動をやっているんだから、出ていくもんじゃない』とささやきあっている。」
遊撃区の人民大衆も生産運動をおこすことができるだろうか。それらの地方は、まだ小作料を引き下げていないかもしれず、引き下げていても不徹底かもしれないのに、それでも農民は増産に乗り気になれるだろうか。この点についても、山西・察哈爾・河北辺区の回答は肯定的である。「濠封鎖線の外にある部隊がくりひろげた生産運動は、また地元の大衆に直接的な援助をあたえている。一方では武力によって大衆の生産を掩護しているし、他方では労働力を提供してひろく援助をおこなっている。ある部隊は、農繁期に五〇パーセントの力をさいて、無償で大衆の生産を援助することをきめている。そのため、大衆の生産意欲が大いに高まり、軍民の関係がいっそううちとけたものとなり、大衆はだれも食うにこと欠かなくなった。遊撃区の大衆が共産党、八路軍によせる共鳴と支持は、それいらい、いっそう強まっている。」
遊撃区では、軍隊と民衆の大規模な生産運動をおこなうことができるし、またおこなわなければならない。このことについては、すべての疑問が解決された。われわれは、解放区の党、政府、軍隊のすべての要員、とくに遊撃区の要員にたいし、この点を完全に認識することを要求するものであり、この「できる」と「なければならない」とを認識すれば、この仕事はどこででもおこせるようになる。山西・察哈爾・河北辺区も、まさしく、このことからはじめたのである。すなわち、「濠封鎖線の外にある部隊の生産運動では、幹部がその考え方をあらためて、生産を重視し、労働力と武装力との結合を重視し、大衆のあいだの英雄、模範(初歩的な総括では、六十六名の英雄、模範)をそだてたため、わずか五ヵ月間に、濠封鎖線の外にあるわれわれの部隊は、生産任務の面で計画を期日どおりに完遂したばかりでなく、また、とりわけ、実際にそくした多くの新しい創造をおこなったのである。」
一九四五年には、全解放区のすべての人びとがこぞって、これまでよりも大規模な、軍隊と民衆の生産運動にたずさわらなければならない。そして、ことしの冬には、各区の成績をくらべてみよう。
戦争は、軍事上、政治上の競争であるばかりでなく、経済上の競争でもある。日本侵略者にうち勝つためには、われわれは、他のすべてのことに努力するとともに、経済活動にも努力しなければならず、二、三年で、この分野のことに完全に習熟しなければならない。そして、ことし――一九四五年には、これまでよりもいっそう大きな成績をおさめなければならない。これは中国共産党中央が全解放区の全要員と全人民に心から切望するところである。われわれはこの計画が完遂されるよう希望する。
〔 ##訳注## 〕
① 区隊とは当時山西・察哈爾・河北辺区の地方武装組織の骨幹部隊のことである。区隊は軍分区に所属し、数県の遊撃隊を統率していた。一区隊は通常五、六コ中隊からなり、およそ六、七百人であった。




