国民党進攻の真相 (一九四五年十一月五日)
これは、毛沢東同志が中国共産党スポークスマンの名で発表した談話である。そのころ、蒋介石はすでに「双十協定」を破棄しており、解放区を攻撃する内戦の規模は日ましに拡大していた。
重慶三日発UP電は、国民党中央宣伝部長の呉国楨が「政府はこんどの戦争では完全に守勢にたっている」と声明するとともに、交通回復についての規定〔1〕なるものをもちだしたと伝えている。新華社記者は、これについて中国共産党側のスポークスマンにただした。
中国共産党のスポークスマンは記者につぎのように語った。呉氏のいう「守勢」うんぬんは、真っ赤なうそである。わが軍のすでに撤退した浙江省東部、江蘇省南部、安徽省中部、安徽省南部、湖南省などの五つの解放区は、すべて国民党軍が占領し、ほしいままに人民を蹂躙しているが、そのほか、広東省、湖北省、河南省、江蘇省北部、安徽省北部、山東省、河北省などの他の大多数の解放区でも、国民党正規軍の七十余コ師団が、わが地区とその付近に移動してきて、人民を圧迫し、わが軍を攻撃しているか、あるいは攻撃しようとしている。このほか、現在わが解放区にむかって移動中のものが数十コ師団ある。これで守勢をとっているといえるだろうか。そのうち、彰徳から北進して邯鄲地区まで進撃してきた八コ師団は、そのニコ師団が内戦に反対し、平和を主張したが、他の六コ師団(そのうち三コ師団は米式装備)は、わが解放区の軍民が自衛の反撃にでたのち、やむなく武器を捨てたのである。この方面の国民党軍の多くの将校は、副司令長官、軍団長、副軍団長など多数をふくめて、げんざい解放区にいるが〔2〕、かれらはみな、自分たちがどこから進発してきたのか、どのように命令をうけて進攻してきたのか、そのすべての真相について証言することができる。これでも守勢をとっているといえるだろうか。わが河南、湖北両省の解放区の軍隊は、いま国民党の第一、第五、第六の三戦区の軍隊あわせて二十数コ師団に四方から包囲されており、劉峙がそれらの戦区の「共産党討伐」の総指揮官となっている。わが河南省西部、河南省中部、湖北省南部、湖北省東部、湖北省中部などの解放区は、いずれも国民党軍が占領して、放火・殺人をほしいままにしており、そのためわが李先念、王樹声らのひきいる部隊はどこにもいられなくなって、生存のため河南・湖北省境地区に駐屯地をもとめざるをえなくなっているが、なおも国民党軍からきびしい追撃をうけている〔3〕。これでも守勢をとっているといえるだろうか。山西、綏遠、察哈爾の三省でも同様である。十月上旬、閻錫山の指揮する十三コ師団は、わが上党解放区の襄垣、屯留地区に攻めこみ、この地方の軍民の自衛のための戦闘によってぜんぶ武装解除されたが、捕虜となったもののなかには、やはり軍団長や師団長が何人もいる。かれらは、みな生きていて、いまわが大行解放区におり、自分たちがどこから進発してきたのか、どのように命令をうけて進攻してきたのか、そのすべての真相について証言することができる。さいきん、閻錫山は重慶でいろいろとうそをつき、自分はどのように攻撃されたかとか、自分としては「守勢」をとっただけだとか言いふらしている。かれはおそらく、自分の第十九軍団長の史沢波、臨時編成第四十六師団長の郭溶、臨時編成第四十九師団長の張宏、第六十六師団長の李佩膺、第六十八師団長の郭天興、臨時編成第三十七師団長の楊文彩らの将軍〔4〕が現在わが解放区におり呉国楨氏、閻錫山氏、および内戦を挑発しているすべての反動派のあらゆるでたらめを反ばくできるということを忘れているのであろう。傅作義将軍は、命令をうけてわが綏遠、察哈爾、熱河三省の解放区に進攻をはじめてから三ヵ月あまりになるが、いちどは張家口の入口まで攻めよせ、わが綏遠解放区の全部と察哈爾省西部を占領した。これでもまだ、守勢をとっている、「最初の一発」は放っていない、などといえるだろうか。わが察哈爾、綏遠両省の軍民は自衛のためたちあがり、やはり反撃戦でおびただしい将兵を捕虜にしたが、これちの捕虜はみな、自分たちがどこから進発してきたのか、どのように進攻してきたのかなどについて証言することができる〔5〕。これまでの自衛のための戦闘で、わが方は大量の「匪賊討伐」文書と反共文書をぶんどったが、そのなかには、国民党の最高当局が配布しておきながら、呉国楨氏がそんなことは「でたらめだ」などといっている「匪賊討伐手帳」、「匪賊討伐」命令〔6〕、その他の反共文書があり、いま延安に回送中である。これらの反共文書はみな、国民党軍が解放区を攻撃していることの動かぬ証拠である。
記者はまた中国共産党のスポークスマンにたいし、呉国楨氏のもちだした交通回復規定についての見解をただした。同スポークスマンはつぎのように答えた。これは時をかせぐための計略にすぎない。国民党当局はいま兵力の大移動をおこない、洪水のように、わが全解放区をのみつくそうとしている。かれらは、九、十のニヵ月間の何回かの進攻に失敗したのち、いま、より大規模な新たな進攻のための部署配置をおこなっている。ところが、こうした進攻をはばむ武器、つまり、効果的に内戦を阻止する武器の一つは、鉄道による軍隊輸送をかれらに許さないことである。われわれも他の人びとと同様に、交通線の急速な回復を主張するが、降伏の受理、かいらい軍の処理、解放区自治の実施という三つの問題が解決をみたあとでなければ、交通線を回復させるわけにはいかない。さきに交通の問題を解決し、あとで三つの問題を解決するのか、それとも、さきに三つの問題を解決し、あとで交通の問題を解決するのか。解放区の軍隊は、八年間も苦難にみちた抗日の戦いをすすめてきたのに、なぜ敵軍の降伏を受理する資格がなく、ほかの軍隊にはるばる遠いところから降伏受理にきてもらわなければならないのか。かいらい軍は、すべての人から懲罰をうけるべきなのに、なぜ、ことごとく「国軍」に編入し、解放区への進攻にさしむけるのか。地方自治については、「双十協定」に明文の規定があり、孫中山先生もはやくから省長の民選を主張していたのに、なぜ、いまさら政府が官吏を派遣する必要があるのか。交通の問題もすみやかに解決すべきであるが、この三大問題はとくにすみやかに解決しなければならない。三大問題を解決せずに、交通の回復をうんぬんするのでは、内戦を拡大し、長びかせて、内戦挑発者たちの解放区をのみつくそうという目的をとげさせるだけのことである。すでに全国にひろがっている反人民、反民主の内戦をすみやかに阻止するため、われわれはつぎのように主張する。(一)すでに華北地方、江蘇省北部、安徽省北部、華中地方の各解放区およびその付近にはいっている政府の降伏受理部隊と攻撃部隊は、ただちに原駐屯地に撤退すること、そして、解放区の軍隊が敵軍の降伏を受理し、各部市と交通線に駐屯し、占領されていた解放区を回復すること。(二)すべてのかいらい軍をただちに武装解除し、解散させること、そして、華北地方、江蘇省北部、安徽省北部のかいらい軍は、解放区が責任をもって武装解除し、解散させること。(三)すべての解放区における人民の民主的自治を認めること、中央政府は官吏を任命、派遣してはならず、「双十協定」の規定を実行にうつすこと。なお、スポークスマンはつぎのようにいった。こうしてこそ内戦を阻止できるのであって、そうでなければ、その保障はまったくない。交通の回復は内戦のためではなくて人民のためだなどという国民党当局のことばがすこしも信用できないことは、綏遠、上党、邯鄲での三回にわたる自衛のための戦闘でぶんどった文書や、兵力の大移動と大挙進攻という実際行動によってじゅうぶんに立証されている。中国人民はすでにいやというほどだまされており、もうこれ以上だまされはしない。現在の中心問題は、全国人民が立ちあがり、あらゆる手をつくして内戦を阻止することである。
〔注〕
〔1〕 抗日戦争が終わったとき、中国の鉄道線路はその大部分が解放区の軍民に掌握されていたか、または包囲されていた。国民党反動派は「交通の回復」という口実のもとに、これらの線路を利用して、解放区を分断するとともに、かれらの数百万の軍隊を東北、華北、華東、華中地方に送りこんで、解放区を攻撃し、大都市をうばおうとたくらんだ。
〔2〕 一九四五年九月、国民党軍は鄭州、新郷一帯から北平=漢口鉄道にそって山西・河北・山東・河南解放区への進攻を開始した。十月下旬、その先頭の三コ軍団が、磁県、邯鄲地区に侵入した。解放区の軍民は自衛のために立ちあがった。一週間の激戦ののち、国民党第十一戦区副司会長官兼新編第八軍団長高樹勛将軍は、その配下の新編第八軍団と一コ縦隊あわせて一万余人をひきいて、邯鄲地区で蜂起をおこない、残りの二コ軍団も潰走中にわか軍に包囲殲滅され、武器を捨てた。当時、武器を捨てることをよぎなくされた高級将校は、国民党第十一戦区副司会長官兼第四十軍団長馬法五、第四十軍団副軍団長劉世栄、軍団参謀長李旭東、副師団長劉樹森など多数にのぼった。
〔3〕 日本が降伏したのち、国民党は三つの戦区の二十余コ師団の兵力をかきあつめ、大挙して河南、湖北両省の解放区に侵入した。国民党第一戦区司令長官胡宗南は、一部の兵力をさいて、西北方から天水=連雲港鉄道の両側ぞいに東進し、河南省西部解放区に侵入した。第五戦区司会長官劉峙の部隊は、北平=漢口鉄道の両側ぞいに、北から南にむかって阿南省中部、湖北省中部、湖北省東部の解放区に侵入した。第六戦区の部隊は、湖北省南部から北にむかって攻撃し、これに呼応した。以上の国民党軍は、そのほとんどか劉峙の指揮下にあった。河南・湖北解放区の人民軍隊は、侵入軍とだんこ戦い、実力を保存しながら、一九四五年十月下旬に、河南省と湖北省の省境にある大洪山、桐柏山、棗陽地区に移動したが、国民党がなおも追撃してきたので、さらに北平=漢□鉄道以東の宣化店地区に移動した。
〔4〕 上党戦役については、本巻の『重慶交渉について』注〔2〕を参照。ここにあげられている将校はみな、上党戦役で解放軍の捕虜となった閻錫山軍の高級将領である。
〔5〕 綏選はもと一つの省であったが、一九五四年三月六日に廃止され、その管轄区域は内蒙古自治区に編入された。博作義将軍は当時、国民党第十二戦区の司令長官であった。かれの部隊は、抗日戦争の時期には、綏遠省西部の五原、臨河一帯に駐屯していた。日本が降伏したのち、かれは命令をうけて綏遠、熱河、察哈爾三省の解放区を攻撃した。そして、一九四五年八月に帰綾、集寧、豊鎮を攻略し、九月はじめに興和、尚義、武川、陶林、新堂、涼城を占領し、大挙して察哈爾解放区を攻撃し、張家口にせまった。わが軍は自衛のために立ちあがって、これを撃退し、おびただしい将兵を捕虜にした。
〔6〕 「匪賊討伐手帳」とは、一九三三年に蒋介石が編集した反革命的な小冊子のことで、もっぱら中国の人民軍隊と革命根拠地を攻撃する方法についてのべたものである。一九四五年、抗日戦争が終わると、蒋介石はこの小冊子を再版して、国民党の将校に配布し、つぎのような密令をくだした。「今回の匪賊討伐は人民の幸福のかかるところである。かならず、従来の抗戦の精神にもとづき、中正の編集せる『匪城討伐手帳』にしたがって、配下のものを督励し、討伐に力をつくし、すみやかに任務をなしとげよ。国家に功労あるものはかならず賞をうけ、怠りたるもの、誤りをおかせるものはかならず法によって罪に問わるべきである。配下の匪賊討伐部隊に伝達し、将兵一体となってこれを遵守せんことをのぞむ。」




