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重慶交渉について (一九四五年十月十七日)

これは、毛沢東同志が重慶から延安にかえったのち延安での幹部会議でおこなった報告である。



 当面の時局の問題について話すことにしよう。これは同志諸君が関心をよせている問題である。こんど、国共両党は重慶チョンチンで交渉をおこない、四十三日間話しあった。交渉の結果は、すでに新聞に発表されている〔1〕。現在、両党の代表はまだ交渉をつづけている。こんどの交渉は収穫があった。国民党は、平和・団結の方針と人民の若干の民主的権利を認め、また、内戦をさけ両党が平和的に協力して新中国を建設することを認めた。これらの点については、取り決めができた。このほかに、取り決めのできなかったものもある。解放区の問題は解決されなかったし、軍隊の問題も実際には解決されなかった。すでにまとまった取り決めも、まだ紙の上のものにすぎない。紙の上のものは、現実のものではない。それを現実のものとするには、なお大きな努力をはらわなければならないことを、事実は立証している。

 国民党は、一方でわれわれと交渉しながら、他方ではさかんに解放区を攻撃している。陝西シャンシー甘粛カンスー寧夏ニンシァ辺区を包囲している軍隊はさておき、直接、解放区を攻撃している国民党軍だけでも八十万人にのぼっている。現在、解放区のあるところではどこでも、戦争をしているか、あるいは戦争の準備をしている。「双十協定」の第一条は「平和建国」であるが、紙に書かれたこのことばは事実と矛盾しているのではないか。そのとおり、矛盾している。だから、紙の上のものを現実のものとするには、このうえとも、われわれの努力が必要なのである。なぜ、国民党はあれほど多くの軍隊を動員してわれわれを攻撃してくるのか。それは、国民党の腹がとっくにきまっていて、人民の力を消滅し、われわれを消滅しようとしているからである。すぐ消滅できれば、それにこしたことはないが、すぐには消滅できなくても、われわれの形勢をもっと不利にし、国民党の形勢をもっと有利にしたいからである。平和という一ヵ条は、協定には書いてあっても、実際には実現されていない。現在、一部の地方ではかなり大きな戦いがおこなわれており、山西シャンシー省の上党シャンタン区がその一例である。大行山タイハンシャン大岳山タイユエシャン中条山チョンティアオシャンにかこまれて一つのたらいがあるが、それが上党区である。そのたらいのなかには魚もあれば、肉もあるので、閻錫山イェンシーシャンが十三コ師団をくりだして略奪しにきた。われわれの方針もとっくにきまっている。それは、まっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うということである。こんど、われわれは「対決」し、「争」った。しかも、みごとに「対決」し、みごとに「争」った。つまり、かれらの十三コ師団をのこらず殲滅せんめつしたのである。攻撃してきたかれらの部隊が合計三万八千人であったのにたいし、われわれは三万一干人を出動させた。かれらは、三万八千人のうち、三万五千人を殲滅され、二千人が逃げのび、一千人がちりぢりになった〔2〕。こうした戦いは、これからもやるであろう。かれらは、われわれの解放区の土地を死にものぐるいで奪いにくる。この問題は説明のしようがないようにみえる。かれらは、なぜ、こうまでして奪いにくるのか。われわれの手中にあり、人民の手中にあって、それで結構ではないか。これはわれわれの考えであり、人民の考えである。もしかれらもそう考えるなら、それで統一したことになり、みんな「同志」だということになる。しかし、かれらはそう考えるはずがなく、あくまでもわれわれに反対する。かれらは、われわれに反対しなければ釈然としない。かれらが攻めてくるのは、きわめて自然なことである。われわれとしても、解放区の土地をかれらに奪われるのでは、やはり釈然としない。われわれが反撃に出るのも、きわめて自然なことである。釈然としないものがいっしょになると、いくさになる。両方とも釈然としないのに、なぜ交渉をしたり、「双十協定」を結んだりしたのか。世の中のことは複雑で、いろいろな面の要因によってきまる。問題は、一つの面からだけ見るのでなく、いろいろな面から見なければならない。重慶には、蒋介石チァンチェシーはあてにならない、うそつきだ、かれと交渉してなんらかの結果をえようとしてもそれは不可能だ、という考えの人も一部にいる。わたしの会った多くの人はそういっていたし、そのなかには国民党員もいた。わたしはその人たちにこういった。あなた方のいわれることには道理があり、根拠がある、そんなところだろうということは、十八年の経験から〔3〕よくわかっている。国共両党は、きっと交渉がうまくいかず、きっといくさになり、きっと決裂するだろうが、しかし、これはことの一面にすぎない。そのほかにも別の一面があり、多くの要因があって、蒋介石もなおあれこれと気がねをしないわけにいかないのである。それには、主として三つの要因がある。解放区が強大なこと、大後方の人民が内戦に反対していること、それに国際情勢である。わが解放区には一億の人民、百万の軍隊、二百万の民兵がおり、この力はだれも軽視することができない。わが党が国内の政治でしめている地位は、もはや一九二七年のころの状態とはちがっているし、また一九三七年のころの状態ともちがっている。国民党は、これまで共産党の対等の地位を認めようとしなかったが、いまでは認めるほかなくなっている。わが解放区の事業はすでに全中国、全世界に影響をおよぼしている。大後方の人民はみな平和をのぞみ、民主をもとめている。わたしはこんど重慶で、広範な人民がわれわれを心から支持していることをしみじみと感じた。かれらは国民党政府に不満をいだき、われわれの側に希望をかけている。わたしはまた、アメリカ人をもふくめて、多くの外国人がわれわれに大いに共鳴していることを知った。外国の広範な人民は、中国の反動勢力に不満をいだき、中国の人民の力に共鳴している。かれらも蒋介石の政策に賛成していない。われわれは全国、全世界に、多くの友人をもっており、われわれは孤立していない。中国の内戦に反対し、平和と民主を主張しているのは、われわれ解放区の人民だけでなく、大後方の広範な人民、全世界の広範な人民もそうである。蒋介石の主観的な願望は、あくまでも専制をつづけ、共産党を消滅することにあるが、その願望を実現するには、客観的に多くの困難がある。そこで、かれも現実主義でいかざるをえない。むこうが現実主義でくるなら、こちらも現実主義でいく。むこうが現実主義で招くなら、こちらも現実主義で交渉に出かける。われわれは八月ニ十八日に重慶についた。二十九日の晩に、わたしは国民党の代表にいった。九・一八事変のときから、平和・団結の必要がうまれた。われわれはそれを要求したが、実現されなかった。西安事変のあと、「七・七」抗戦のまえになって、やっと実現した。八年の抗戦では、みんなが一致して日本と戦った。しかしひっきりなしに大小の摩擦がおき、内戦は絶えたことがなかった。内戦などなかったというなら、それは人をあざむくものであり、事実に反している。八年のあいだ、われわれは交渉の用意があることを一再ならず表明してきた。われわれは党の第七回代表大会でも、国民党当局が「いったん、いまのあやまった政策を放棄することをのぞみ、民主改革をおこなうことに同意しさえすれば、われわれはかれらとの交渉を再開する用意がある」〔4〕ことを声明した。交渉の過程で、われわれは、第一に中国は平和を必要としている、第二に中国は民主を必要としている、と主張した。蒋介石は反対する理由がないので、しかたなく賛成した。「会談記録要綱」に発表されている平和の方針と若干の民主についての取り決めは、一方では紙に書かれたもので、まだ現実のものではないが、他方ではやはり各方面の力によって決定されたものである。解放区の人民の力、大後方の人民の力、国際情勢など、大勢のうごきによって、国民党はこれらのものを認めざるをえなかったのである。

 「まっこうから対決する」にも、情勢を見なければならない。時によっては、交渉に出かけないことが、まっこうから対決することになるし、時によっては、交渉に出かけることが、やはりまっこうから対決することになる。以前に出かけなかったのも正しければ、こんど出かけたのも正しく、どちらもまっこうからの対決である。こんど、われわれは、出かけていってよかった。これによって、共産党は平和をのぞまない、団結をのぞまない、という国民党のデマを粉砕したのである。つづけざまに三通も招請の電報をよこしたので、出かけていったわけだが、かれらにはなんの準備もなく、提案はみなわれわれのほうからださなければならなかった。交渉の結果、国民党は、平和・団結の方針を認めた。これは結構なことだ。国民党がまた内戦をおこすなら、かれらは全国と全世界のまえで道理をうしなうことになり、われわれは、なおさら、その攻撃を粉砕するための自衛戦争をおこなう理由をもつことになる。「双十協定」成立後のわれわれの任務は、この協定を堅持し、国民党にその実施を要求し、ひきつづき平和をかちとることである。もしかれらが戦うというなら、かれらを徹底的に消滅するまでである。相手が攻めてくれば、われわれはそれを消滅する、そうすれば相手はさっぱりする。つまり、すこし消滅してやれば、すこしさっぱりし、たくさん消滅してやれば、たくさんさっぱりし、徹底的に消滅してやれば、徹底的にさっぱりする。ものごとはそうしたものである。中国の問題は複雑だから、われわれの頭もすこし複雑にならなければならない。むこうが攻めてくれば、こちらも戦うが、戦うのは平和をかちとるためである。解放区をあえて攻撃する反動派に大きな打撃をあたえなければ、平和はやってこない。

 一部の同志から、なぜ八つの解放区〔5〕をわたすのか、という質問が出ている。この八つの地域をわたすのはひじょうに惜しいが、そうしたほうがよいのである。なぜ惜しいのか。それは人民が血と汗をながしてつくりあげ、苦労してきずきあげた解放区だからである。したがって、わたすことになったところでは、土地の人たちにはっきりと事情を説明し、適切な処置をとらなければならない。では、なぜわたすのか。それは国民党が安心しないからである。かれらが南京ナンチンにもどろうとしているのに、南方の一部の解放区が寝床のそばにあったり、廊下にあったりして、われわれがそこにいたのでは、かれらは安心して眠れない。だから、どうしても争うのである。この点でわれわれが譲歩すれば、国民党のたくらむ内戦の陰謀をうちやぶり、国内国外の広範な中間層の共鳴をうるのに有利である。現在、全国の宣伝機関は、新華社をのぞいて、みな国民党の手ににぎられている。それらはすべてデマ製造工場である。こんどの交渉にさいしても、それらの宣伝機関は、共産党はとにかく地盤をほしがる、とても譲歩はすまい、というデマをとばした。われわれの方針は、人民の基本的利益をまもることである。人民の基本的利益をそこなわないという原則のもとでいくらかの譲歩をし、そうした譲歩によって全国人民の必要とする平和と民主を手にいれるということは許される。われわれは以前、蒋介石と交渉したさいにも、譲歩したし、現在よりもっと大きな譲歩をした。一九三七年には、全国の抗戦を実現するため、われわれは自発的に労農革命政府の名称をとりけし、赤軍も国民革命軍と改称し、さらに、地主の土地の没収を小作料・利子の引き下げにあらためた。こんど、われわれが南方で若干の地域をわたしたため、国民党のデマは全国人民と全世界人民の目のまえで、完全に破産したのである。軍隊の問題もそうである。共産党はとにかく鉄砲を争いとろうとする、と国民党は宣伝した。われわれは、譲歩の用意があるといった。われわれは、まず、われわれの軍隊を現在の数から四十八コ師団にまで縮小する案をだした。国民党の軍隊は二百六十三コ師団だから、われわれは六分の一をしめることになる。その後、われわれはまた四十三コ師団、つまり、七分の一にまで縮小する案をだした。すると、国民党はかれらの軍隊を百二十コ師団にまで縮小するといった。そこで、われわれは、おなじ割合でへらして、われわれの軍隊を二十四コ師団に縮小してもよいし、さらに二十コ師団にまでへらしてもよい、やはり七分の一である、といった。国民党軍は、将校の多いわりに兵士が少なく、一コ師団は六干人にたっしない。かれらの編制でいくと、われわれの百二十万人の軍隊は、二百コ師団に編成できる。しかし、われわれはそうはしない。こうなっては、かれらも返すことばがなくなり、デマはすっかり破産してしまった。では、われわれは鉄砲をかれらにひき渡すのか。そうではない。ひき渡せば、かれらのほうがさらに多くなるではないか。人民の武装力は、たとえ一ちょうの銃、一発の弾丸ものこしておくべきであり、ひき渡してはならない。

 以上が、同志諸君に話そうとおもっていた時局の問題である。当面の時局の発展には、多くの矛盾した現象がみられる。国共間の交渉で、なぜ、一部の問題については取り決めができ、一部の問題については取り決めができなかったのか。「会談記録要綱」には平和・団結がうたわれているのに、なぜ実際には戦っているのか。こうした矛盾した現象が一部の同志には納得できない。わたしの話はこれらの問題に答えたものである。蒋介石は一貫して反共、反人民であるのに、なぜ、われわれはかれと交渉しようとするのか、一部の同志はこのことが理解できない。わが党の第七回代表大会では、国民党の政策に転換が見えさえすれば、かれらと交渉する用意があるという決定をおこなったが、これは正しかっただろうか。まったく正しかった。中国の革命は長期にわたるものであり、勝利は一歩一歩かちとられるものである。中国の前途がどうなるかは、われわれみんなの努力いかんにかかっている。半年ぐらいのあいだ、情勢はなお不安定なままであろう。われわれは情勢を全国人民に有利なほうへ発展させるため、いっそう努力しなければならない。

 われわれの活動についても、すこしばかり話しておきたい。ここにいる同志のなかには、前線におもむくものもいる。多くの同志は、先をあらそって前線へ仕事にいこうという熱意にもえているが、こうした積極性と熱意は非常にとうといものである。しかし、ごく一部にではあるが、まちがった考えをもっている同志もいて、むこうには解決しなければならない困難がたくさんあるとは考えず、なにもかもうまくいっていて延安イェンアンよりも楽だ、と考えている。こんなふうに考えているものはいないだろうか。いるとおもう。わたしはそうした同志に、自分の考え方をあらためるようすすめたい。いくのは、仕事のためにいくのである。仕事とは何か。仕事とは闘争である。そうしたところには困難があり問題があるので、われわれがいって解決しなければならない。われわれは困難を解決するために仕事をしにいくのであり、闘争をしにいくのである。困難なところほどすすんでいく、それでこそりっぱな同志である。そうしたところの仕事はひじょうな困難にみちている。困難な仕事は、われわれの目のまえにおかれている荷物のようなもので、それをかつぐ勇気があるかどうかが問題である。荷物には軽いのもあれば、重いのもある。なかには重いのをいやがって軽いのをとり、重い荷物は人におしつけ、自分は軽いのをえらんでかつぐものもいる。これでは、りっぱな態度といえない。ある同志たちはそうではない。楽しみは人にゆずり、荷物は重いのをえらんでかつぎ、人に先だって苦しみ、人におくれて楽しむ。こうした同志こそりっぱな同志である。こうした共産主義者の精神を、われわれは学ばなければならない。

 多くの地元の幹部は、いま郷里をあとにして、前線におもむこうとしている。また、多くの南方生まれの幹部は、以前に南方から延安にやってきたのだが、いまやはり前線におもむこうとしている。前線におもむくすべての同志は、むこうについたち、そこで根をおろし、花を咲かせ、実を結ぶよう、じゅうぶんな心構えをしておかなければならない。われわれ共産党員はいわば種子であり、人民はいわば土地である。われわれはいく先ざきで、そこの人民と結びつき、人民のあいだに根をおろし、花を咲かせなければならない。われわれの同志は、どこへいこうと、大衆との関係をよくし、大衆に関心をよせ、かれらをたすけて困難を解決しなければならない。広範な人民と団結すべきで、団結する大衆は多ければ多いほどよい。思いきって大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にし、わが党の指導のもとに、侵略者をうちやぶり、新しい中国をきずきあげる。これが党の第七回代表大会の方針〔6〕であり、われわれはこの方針のためにたたかわなければならない。中国のことは、共産党がやり、人民がやらなければならない。われわれには、平和を実現し民主を実現する決意があり、その万策がある。われわれが全人民といっそうよく団結するなら、中国のことはうまくいくであろう。

 第二次世界大戦後の世界の前途は明るい。これは全般的な趨勢すうせいである。ロンドンの五ヵ国外相会議は失敗したが〔7〕、これですぐ第三次世界大戦になるだろうか。そんなことはない。考えてもみたまえ、第二次世界大戦が終わったばかりなのに、どうして第三次世界大戦がおこりえよう。資本主義国と社会主義国は、多くの国際問題でやはり妥協するであろう。なぜなら、妥協したほうがためになるからである〔8〕。反ソ、反共の戦争には、全世界のプロレタリア階級と人民がみな断固として反対している。ここ三十年間に世界大戦が二度おきたが、第一次大戦と第二次大戦のあいだには、二十数年のへだたりがあった。人類の歴史五十万年のうち、世界戦争がおきたのはこの三十年間だけである。第一次大戦後、世界は大きな進歩をとげた。こんどの大戦のあとでは、世界はより急速な進歩をとげるにちがいない。第一次大戦後、ソ連がうまれ、全世界に数十の共産党がうまれたが、これはかつてなかったことである。第二次世界大戦ののち、ソ連はいっそう強力となり、ヨーロッパはその面目をあらため、全世界のプロレタリア階級と人民の政治的自覚はいっそうたかまり、全世界の進歩勢力はいっそう団結している。わが中国もはげしい変動のさなかにある。中国の発展の全般的な趨勢もわるくはならず、かならずよくなっていくであろう。世界は進歩しつつあり、前途は明るい。この歴史の全般的な趨勢は、だれも変えることができない。われわれは世界の進歩の状況と明るい前途をつねに人民に宣伝して、人民に勝利の確信をもたせなければならない。同時に、われわれはまた、道がまがりくねっていることを人民におしえ、同志たちにおしえなければならない。革命の道にはまだ多くの障害があり、多くの困難がある。わが党の第七回代表大会では多くの困難を予想した。困難はむしろおお目に考えておくほうがよいのである。一部の同志は、困難についてあまり考えたがらない。しかし、困難は事実であり、あればあるだけ認めるべきで、「不承認主義」をとってはならない。われわれは困難を認め、困難を分析し、困難とたたかわなければならない。世の中にはまっすぐな道はない。安易なことばかり考えずに、まがりくねった道をあゆむ覚悟がなければならない。ある朝突然、すべての反動派がのこらすみずから地べたにひざまずくなどということは、とうてい考えられないことである。要するに、前途は明るいが、道はまがりくねっている。われわれの前にはまだ多くの困難があり、これを無視してはならない。全人民と団結してともに努力すれば、かならず万難を排して勝利の目的をとげることができるのである。




〔注〕

〔1〕 一九四五年十月十日、国共双方の代表によって調印された「会談記録要綱」、すなわち「双十協定」をさす。この記録要綱のなかで、蒋介石はうわべではしかたなく、中国共産党の提出した「平和建国の基本方針」に同意し、「平和、民主、団結、統一を基礎として……長期にわたって協力し、あくまで内戦をさけ、独立、自由、富強の新中国を建設する」こと、「政治の民主化、軍隊の国家化および諸政党の対等と合法化が平和建国を達成するためにかならず通らなければならない道である」ことを認め、また国民党の訓政期をはやく終わらせて、政治協商会議を招集すること、「すべての民主主義国の人民の平時に享有すべき身体、信教、言論、出版、集会、結社の自由を人民か享有できるよう保証し、この原則にしたがって現行法令をそれぞれ廃止あるいは改正する」こと、時粉機関を撤廃し、「司法および警察以外の機関か人民を逮捕、審問、処罰する権限をもつことを厳禁し」、「政治犯を釈放する」こと、「積極的に地方自治をおしすすめ、下からの普通選挙を実行する」ことなどにも同意した。だが、同時に、蒋介石政府は人民の軍隊と解放区の民主政権の合法的地位を承認することを頑強に拒否するとともに、「軍令の統一」と「政令の統一」を口実にして、中国共産党の指導する人民軍隊と解放区を完全に解消しようとたくらんだ。そのため、この問題について取り決めをまとめることができなかった。以下は、「会談記録要綱」のなかで解放区の軍隊と政権の問題についての交渉の経過を記載した部分である。ここでいわれている「政府側」とは蒋介石の国民党政府のことである。

 「軍隊の国家化の問題について、中国共産党側はつぎのような案をだした。政府は、全国の軍隊を公平に合理的に再編成し、数期に分けてそれを実施する計画をきめるとともに、軍区の再区画をおこない、補充徴集の制度をきめて、軍会の統一をはかるべきである。こうした計画のもとでは、中国共産党は、その指導する抗日軍隊を現在の数から二十四コ師団、さらには最少限二十コ師団にまで縮小する用意があり、また、広東省、浙江省、江蘇省南部、安徽省南部、安徽省中部、湖南省、湖北省、河南省(河南省北部をのぞく)の八地区に散在しているその指導下の抗日軍隊の復員にすぐ着手するとともに、再編成されるべき部隊を上述の地区から逐次撤退させて、天水=連雲港鉄道以北および江蘇省北部、安徽省北部の解放区に集結してもよい、と表明した。政府側はつぎのように表明した。全国的な再編成計画はいま立案中であり、このたびの交渉に提出された各項の問題か全面的に解決されるなら、中国共産党の指導する抗日軍隊を二十コ師団に縮小することは考慮してもよい。駐屯地の問題については、中国共産党側から案をたし、討議のうえ決定してもよい、と。中国共産党側はまたつぎのような案をだした。中国共産党およびその地方軍事要員は軍事委員会およびその各部の仕事に参加するのが当然である。政府は、人事制度を保障して、原部隊所属要員を再編成後の部隊の各級の将校に任用し、編成からはみだした将校にたいしては各区ごとに訓練をほどこし、公平で合理的な給与制度を設け、政治教育計画を確定すべきである、と。政府側は、提案された各項目については問題がない、詳細な方法についても相談したい、と表明した。中国共産党側は、解放区の民兵は一律に地方自衛隊に編成すべきである、と提案した。政府側は、地方の状況にしたがってその必要性と可能性があるばあいにのみ、適宜にこれを編成する、と表明した。本項にのべられた諸問題について具体的な計画をたてるため、双方は三人小委員会(軍令部、軍政部および第十八集団軍からそれぞれひとりを派遣する)を設けることに同意した。」

 「解放区の地方政府の問題について、中国共産党側は、政府が解放区の各級民選政府の合法的地位を認めるべきである、と提案した。政府側は、解放区という名称は、日本が降伏したのちには、過去のものとなるべきであり、全国の政令はかならず統一されるべきである、と表明した。中国共産党側が最初だした案は、いま十八の解放区が存在するという事情にてらして、省と行政区の再区画をおこなうとともに、もとからの各級民選地方政府の名簿をただちに中央に提出し、その任命の承認をもとめて、政令の統一をはかる、というものである。政府側はつぎのように表明した。蒋主席かかって毛氏に表明したように、中央は、全国の軍令、政令が統一されたのち、中国共産党の推薦する行政要員の人選を考慮してもよい。回復地区の抗戦関係のもとの行政要員にたいしては、その仕事の能力と実績におうじて、政府はこれを適宜に、ひきつづきその地方で勤務させるようにし、政党関係によって差別をつけるようなことはしない、と。そこで、中国共産党側は、第二の解決案、すなわち陝西・甘粛・寧夏辺区および熱河、察哈爾、河北、山東、山四の五省では、中国共産党の推薦するものを省政府の主席および委員に任命し、綏遠、河南、江蘇、安徽、湖北、広東の六省では、中国共産党の推薦するものを省政府の副主席および委員に任命し(以上の十一省には、広大な解放区または地域的な解放区があるからである)、北平、天津、青島、上海の四つの特別市では、中国共産党の推薦するものを副市長に任命し、また東北各省では中国共産党の推薦するものが行政に参加することを承認するよう、中央に要請するという案をだした。この件については、いくども討議をかさねたのち、中国共産党側で、上述の提案にいくらかの修正をくわえ、省政府の主席および委員への任命を要請するものを陝西・甘粛・寧夏辺区および熱河、察哈爾、河北、山東の四省にあらため、省政府の副主席および委員への任命を要請するものを山西、綏遠の両省にあらため、副市長への任命を要請するものを北平、天津、青島の三つの特別市にあらためることにした。政府側は、これにたいし、抗戦に顕著な働きのあったもので、政治的にも能力のある同志について、中国共産党が、政府に任用の決定を申請することはさしつかえないが、もし、中国共産党が某省の主席や委員、某省の副主席になどと推薦するなら、それは誠意をもって軍令、政令の統一をはかるということにはならない、と表明した。そこで、中国共産党は第二の主張を放棄してもよいと表明し、あらためて、つぎのような第三の解決案をだした。解放区の各級民選政府によって、あらためて人民による普通選挙をおこなう。諸政党および各界の人士が帰郷して、政治協商会議から派遣されたものの監督のもとで、選挙に参加することを歓迎する。過半数の区、郷がすでに民選を実行している県では、県の民選をおこなう。過半数の県がすでに民選を実行している省もしくは行政区では、省もしくは行政区の民選をおこなう。選出された省、行政区、県の政府は、一律に中央に報告してその任命の承認をもとめ、それによって政令の統一をはかる、と。政府側はつぎのように表明した。こうした省、行政区の任命方式は、政令の統一をはかるものではない。県の民選だけは考慮してもよいが、省の民選は、憲法が公布され、省の地位か確定するのをまって実施すべきである。目下のところ、行政をすぐ正常な状態にもどすには、中央から任命された省政府官吏が各地におもむいて行政をひきつぐほかはない、と。ここにいたって、中国共産党側はつぎのような第四の解決案をだした。それは、各解放区については、しばらく現状を維持して変えず、省政府の民選が憲法によってきめられ、実施されるのをまって、あらためてこれを解決することにし、いまは、臨時の規定をさだめて、平和的秩序の回復を保証する、というものである。同時に、中国共産党側はこの問題を政治協商会議に提出して解決すべきであるとした。政府側は、政令の統一を予定よりはやく実現すべきであるとし、この問題がいつまでも未解決のままになっていれば、平和建設の障害となるおそれがあるので、やはり、具体的解決案について話し合いがつくことを切望した。中国共産党側もまたひきつづき交渉することに同意した。」

〔2〕 上党とは山西省東南部の長治県を中心とする地区のことで、むかしは上党郡に属していた。この一帯の山岳地区は、抗日戦争の時期には、八路軍第一二九師団の根拠地であり、山西・河北・山東・河南解放区に属していた。一九四五年九月、国民党の軍閥閻錫山は十三コ師団の兵力を集中し、日本軍・かいらい軍の協力のもとに、あい前後して臨汾、浮山、翼城および太原、楡次から出発し、山西省東南部解放区の襄垣、屯留、[シ+路]城などに侵入した。十月、同解放区の軍民は反撃にでて、侵入部隊の三万五千人を殲滅し、軍団長、師団長などの多くの高級将校を捕虜にした。

〔3〕 「十八年の経験から」とは、一九二七年に国民党が革命を裏切ったときから一九四五年までのあいだ中国共産党が国民党とたたかってきた経験をいう。

〔4〕 本選集第三巻『連合政府について』の第四部分の「われわれの具体的綱領」の第二節から引用。

〔5〕 広東省、浙江省、江蘇省南部、安徽省南部、安徽省中部、湖南省、湖北省、河南省(河南省北部をのぞく)の八地区に散在していた人民軍隊の根拠地をさす。

〔6〕 本選集第三巻の『中国の二つの運命』、『愚公、山を移す』にみられる。

〔7〕 一九四五年九月十一日から十月二日まで、ソ、中、米、英、仏五ヵ国の外相がロンドンで会談し、ファシスト・ドイツの侵略戦争に荷担したイタリア、ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー、フィンランドとの平和条約の締結、イタリアの植民地の処理などの問題について討議した。この会議は、米、英、仏などが帝国主義的侵略政策を固持し、反ファシズム戦争の勝利後に樹立されたルーマニア、ハンガリー、ブルガリアなどの人民政権の転覆をたくらみ、ソ連の道理にかなった主張を拒否したために、話がまとまらなかった。

〔8〕 本巻の『当面の国際情勢についてのいくつかの評価』を参照。



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