関東四大エース
放課後。
体育館の空気は、少しだけ張っていた。
キュッ、キュッ、と、シューズの擦れる音が響く。
浅葱は壁際で、ぎこちなくストレッチをしていた。
久方ぶりのバスケ部。正確には、「復帰するか迷っている体験参加」みたいな扱いだ。それでも胃は痛い。
「硬ぇなぁ」
頭上から声。
浅葱は肩を震わせた。
紫苑が、バスケットゴールの上に座っている。
危ない。いや幽霊だから落ちないのか。
「お前、毎回びっくりすんな」
「急に喋るからだよ……」
「メンタル弱」
うるさい。浅葱は小さく息を吐いた。
体育館の奥では、二、三年が軽くゲームをしている。
この九十九高校のバスケ部は中堅レベル。県ベスト16常連。
全国は遠い。だが弱くはない。
その空気が、浅葱には妙に重かった。
「……やっぱ帰ろうかな」
「帰ったら殺す」
「死んでる人に脅されてもねぇ」
紫苑が吹き出した。
「言うようになったじゃねぇか」
その時だった。入口側が急に騒がしくなる。
「うわ、来た」
「今日いるのかよ」
「機嫌悪そう……」
空気が変わる。浅葱もそちらを見た。
背の高い男が、気怠そうに体育館へ入ってくる。
金に近い茶髪。険のある顔つき。長い手足。
ジャージを肩に引っ掛け、片手でボールを回していた。
歩き方だけで威圧感がある。
浅葱は息を呑む。
「あ……」
知っていた。SNSでもバスケ雑誌でも見た顔。
三浦蒼士。
関東四大エースの一人。ドリブル特化のスコアラー。
強豪校から最初は何校も声がかかったのに、素行問題で敬遠された問題児。同じ高校の二年だ。
「……なんでこんな学校にいるんだよ」
思わず声が漏れる。
三浦は周囲を見回し、露骨に舌打ちした。
「狭っ。よくこんな環境でやれんな」
先輩相手でも態度が悪い。だが、誰も強く言えない。実力があるからだ。
紫苑が鼻で笑った。
「才能はあんのに、性格終わってそうなタイプだな」
偉そうに評する声も浅葱以外にはもちろん聞こえない。
三浦はそのままコートへ入り、適当にボールを突いた。
タンッ。
その一音だけで、浅葱にも分かった。
上手い。異常に。
力感がない。ボールが身体の一部みたいだった。
紫苑の目も少し細くなる。
「ほー」
三浦は軽くドライブした。
一歩。それだけでディフェンスが置き去りになる。
速く、低く、鋭い。
レイアップ。ネットが揺れる。
「っ……」
浅葱は無意識に息を呑んだ。
紫苑が呟く。
「面白ぇドリブルするな」
その時。
三浦の視線が、ふと浅葱に止まった。
数秒の沈黙。
「……誰?」
空気が冷える。浅葱は固まった。
部員の一人が慌てて言う。
「えっと、一条っす。また来るようになって――」
「あぁ?」
三浦が眉を寄せる。
「こいつが?」
見下ろす視線は露骨だった。
「なんか陰気くせぇな」
浅葱の喉が詰まる。
周囲も気まずそうに黙る。
「やっぱり分かりやすいクズだな」
紫苑だけが笑っていた。
三浦は興味なさそうに視線を外した。
「ま、いいや」
そのまま、再びゲームに入る。
圧倒的だった。一人だけレベルが違う。
抜く。切る。決める。ほぼ全部一人でやる。
チームプレーなんてほとんどない。それでも止められない。
体育館の空気を、完全に支配していた。
「……すご」
浅葱は思わず呟く。
だが、紫苑はつまらなそうだった。
「一人でやりすぎだ」
「でも強い」
「そりゃな。才能だけなら本物だ」
紫苑は続ける。
「でも、ああいう奴は止まる」
「……?」
「一人で勝てる範囲には限界がある」
その言葉だけ、妙に重かった。
浅葱が聞き返そうとした時。
「おい」
低い声。三浦だった。
ゲームを止め、こちらを見ている。
汗を拭きながら面倒そうに顎をしゃくった。
「そういえば、お前」
浅葱の心臓が跳ねる。
「はい……?」
「この前、二宮とやってた奴だろ」
体育館がざわつく。
浅葱の顔が引きつった。なんで知ってる。
三浦が鼻で笑う。
「動画回ってた」
終わった。完全に終わった。
「二宮が妙に執着してる感じだから、どんな奴かと思ったけど」
三浦は浅葱を見下ろす。失望したように。
「実物、ショボそうじゃん」
浅葱の胸がチクリと痛む。だが、反論できない。実際そうだから。
三浦はボールを指で回した。ボールスピンまで達人。
「なぁ」
嫌な予感がした。
「1on1やろうぜ」
体育館が静まる。浅葱は固まった。
「え……」
「遊んでやるよ」
三浦が笑う。悪童のような笑みだった。
「二宮ほど優しくねぇけど」
周囲がざわつく。
明らかに、遊ばれる流れだった。
浅葱は後ずさる。無理だ。こんなの。
その時、入口側から声がした。
「浅葱?」
振り向く。朝比奈澪だった。
制服姿のまま、体育館の入口に立っている。
「あ、やっぱここいた」
浅葱は顔を引きつらせた。なんていう最悪なタイミング。
澪は体育館の空気に気づき、少し眉を寄せる。
「……何これ」
部員の誰かが小声で説明した。
澪の顔色が変わる。
「ええ? 三浦先輩と?」
「いや、別に僕は――」
「逃げんの?」
三浦が笑った。浅葱の言葉が止まる。
周囲の視線。澪の不安そうな顔。
胸の奥が冷える。昔と同じだ。
こういう空気になると、身体が動かなくなる。
紫苑が、静かに浅葱を見ていた。
「……浅葱」
低い声。珍しく、少し真面目だった。
「べつに逃げてもいいぞ」
浅葱は目を見開く。
紫苑は壁にもたれたまま続けた。
「また同じ顔になるけど、それはお前の自由だし」
胸が痛む。何も言えない。
三浦が苛立ったように舌打ちした。
「やんねぇなら帰るけど」
その瞬間、浅葱は気づいてしまった。
悔しいし、怖いのに。
それでも。
あのコートに立ちたいと思ってる。
この前の感覚を、もう一度味わいたいと思ってる。
浅葱はゆっくり顔を上げた。
「……やります」
体育館が静まる。澪が目を見開く。
三浦は数秒黙った後、ニヤリと笑った。
「いいじゃん」
と、紫苑も少し楽しそうに笑っていた。




