怪物の動画
翌朝。
一条浅葱は、自室のベッドの上で死にかけていた。
「っ……ぁ゛……」
身体が全身痛い。特に脚。太腿とふくらはぎが、冗談みたいに重かった。
肩も痛い。背中も痛い。指先まで痛い。
浅葱は顔をしかめながら、どうにか上体を起こした。
その瞬間、腹筋が悲鳴を上げる。
「いっ……!」
情けない声が漏れた。
「だから言ったろ」
部屋の隅にいつの間にか千石紫苑が座っていた。
机の上に胡座をかいている。
「まだ馴染んでねぇって」
「勝手に……人の部屋……」
「幽霊にプライバシー求めんなよ」
最低だ。浅葱は枕を投げた。普通にすり抜けた。
「むなしい」
「ハハッ」
紫苑は笑う。朝からうるさい。
浅葱は重い身体を引きずって洗面所へ向かった。鏡を見る。顔色が悪い。寝不足もある。
昨日のあの瞬間を思い出す。
自分の身体を別人が動かしていた。
あれを思い出すだけで背筋がざわつく。
「……ほんとに、何だったんだよ」
「だから憑依だって」
背後から声。紫苑が壁をすり抜けて出てくる。
慣れない。一生慣れる気がしない。
「あんた、あれ平気なの……?」
「何が」
「他人の身体に入るの」
紫苑は少し考えた。
「まあ、初めてじゃねぇし」
「初めてじゃないの!?」
「以前ちょっとな」
さらっと怖いことを言う。
浅葱は頭を抱えた。
「ていうか、昨日の最後、急に終わったじゃん」
「ああ」
紫苑は肩を回す。
「お前の身体が限界だった」
「限界?」
「負荷に耐えられてねぇ」
紫苑の目が少しだけ真面目になる。
「俺の動き、今のお前には重すぎる」
浅葱は黙った。
昨日のダンクを思い出す。床を蹴った瞬間、身体が壊れると思った。
「……確かに」
浅葱は小さく言う。
「僕、別に運動神経いいわけじゃ――」
「いや、いい」
即答だった。
紫苑は面倒くさそうに続ける。
「反応速度、空間把握、柔軟性、全部高い」
「……分かんないよ、そんなの」
「俺が分かる」
紫苑は浅葱を見る。その目だけ少し鋭かった。
「普通の奴なら、昨日の時点で足首ぶっ壊れてる」
浅葱は言葉を失う。
「お前、昔バスケやってたろ」
ぎくりとした。紫苑が鼻で笑う。
「図星か」
「……中学まで、少し」
「少しねぇ」
見透かされている気がした。
浅葱は視線を逸らす。
「別に、上手くなかったし」
「またそれか」
紫苑が呆れた声を出す。
「お前、すぐ逃げる言い方すんな」
胸が痛む。浅葱は黙った。
洗面台の水音だけが響く。しばらくして、紫苑がぼそりと言った。
「……なんで辞めた」
浅葱の指が止まる。答えたくなかった。だが、紫苑は待っている。
浅葱は観念して口を開いた。
「……周りと上手くやれなくて」
「はあ?」
「ミスすると固まるし、声も出せないし……」
思い出す。
中学の体育館。先輩の怒鳴り声。チームメイトの視線。焦るほど動けなくなる身体。
「向いてないって思ったから」
数秒の沈黙後、紫苑が低く笑った。
「くだらねぇ」
浅葱は眉を寄せる。
「な――」
「才能ある奴が勝手に腐って逃げてんのが一番いらつく」
その言葉は乱暴なくせに妙に刺さった。
浅葱は言い返せない。
紫苑は立ち上がる。
「ほら、学校だろ」
◇
教室は、朝から少し騒がしかった。
浅葱は机に突っ伏したまま死んだ目をしている。
身体が重い。特に脚。階段で本気で転びかけた。
「浅葱」
声。顔を上げる。
女子が立っていた。
栗色の髪。涼しげな目。少しだけ気の強そうな、でも可愛らしい顔。
浅葱は瞬きをした。
「……朝比奈」
朝比奈澪。
小学校からずっと同じ学校の腐れ縁みたいな相手だった。
「何その顔。ゾンビ?」
「近い……」
「徹夜?」
「まあ……」
澪は浅葱をじっと見る。
その視線に、浅葱は少し落ち着かなくなった。
「……何」
「いや」
澪は首を傾げる。
「なんか、ちょっと雰囲気違うなって」
浅葱の心臓が跳ねた。後ろで、紫苑がニヤついている。
「鋭いじゃねぇか、この子」
うるさい。浅葱は無視した。
澪はまだ見ている。
「昨日なんかあった?」
「別に」
「ふーん」
絶対納得してない顔だった。
その時、教室後方が急に騒がしくなる。
「マジ!?」
「動画やばくね?」
「二宮蓮じゃん!」
浅葱の背筋が凍った。
スマホに昨日のコートが映っていた。嫌な予感しかしない。
男子の一人が叫ぶ。
「この謎の奴誰だよ!?」
浅葱は机に突っ伏した。
終わった。完全に終わった。
澪が怪訝そうに見る。
「浅葱?」
「……知らない」
「まだ何も聞いてないけど」
しまった。
後ろで、紫苑が腹を抱えて笑っていた。
「ダッセェ」
殺したい。もう死んでるけど。
◇
昼休み。屋上。
浅葱は逃げるようにパンを齧っていた。
紫苑はフェンスの上に座っている。危ない。幽霊だけど。
「動画、結構回ってんな」
「やめて……」
「お前、案外目立つ才能あるじゃねぇか」
「いらないよそんな才能……てか、誰のせいだよ」
浅葱は頭を抱える。だが、少しだけ昨日の映像を思い出していた。
あの感覚。風を裂くような加速。リングが近づく瞬間。
胸が熱くなる。
紫苑がそれを見逃さなかった。
「またやりてぇんだろ」
浅葱は黙る。否定できなかった。
紫苑は笑う。
「顔に出てんぞ」
「……うるさい」
「安心しろ。次はもっと上手くやれる」
その言葉に、浅葱の心臓が少しだけ高鳴った。
◇
同じ頃、別の高校で。
二宮蓮は、スマホを見つめていた。
何度も何度も、昨日の動画を再生する。
一条浅葱、という名前だとあとから聞いた。
最初はただの素人だった。動きも硬い。視線も弱い。
だが、途中から変わった。完全に。
蓮は動画を止める。
画面には、ダンク直前の浅葱。
その目。その重心。その空気。
蓮は低く呟いた。
「……誰なんだよ、お前」
妙に、頭から離れなかった。




