憑依
「俺もやりたくなってきた。身体を貸せ」
浅葱は息を呑んだ。
「む、無理――」
「安心しろ」
紫苑は笑う。
「死にはしねぇよ」
信用できる顔じゃない。
だが、蓮の視線が刺さる。周囲のざわめきも。
逃げたい。今すぐ帰りたい。それなのに。
胸の奥が、少しだけ熱かった。
あのプレー。あの速さ。届きたいと思った。
紫苑が手を差し出す。
「許可しろ」
浅葱は迷った。数秒、沈黙。
やがて小さく頷く。
「……一回だけ」
紫苑の口元が歪んだ。
「上出来」
その瞬間、世界が反転した。
ぐらりと視界が揺れる。耳鳴り。身体が急激に軽くなる。
浅葱は反射的に地面を踏もうとした。――踏めない。
「――え?」
軽く浮いていた。今は浅葱が幽体離脱したようになっていた。
自分の身体が、目の前に立っている。いや、自分の身体じゃない。
そこにいたのは、まるで別人だった。
猫背だった背筋が伸びている。力の抜き方が違う。立ち姿だけで、空気が変わっていた。
浅葱は言葉を失う。
自分の身体を、外から見る。
それだけでも異様なのに、そこにいる“自分”は、もう自分ではなかった。
紫苑が、浅葱の身体を使ってゆっくり首を鳴らし、指をゆっくり開閉した。
「……へぇ。悪くねぇな」
まるで新品の道具を試すみたいな声だった。
その声は、浅葱のものなのにまるで違った。
低く、鋭く、獣みたいな圧。
周囲も異変を感じたらしい。ざわめきが止まる。
蓮だけが、じっとこちらを見ていた。
紫苑はボールを受け取る。
軽く一度、床につく。
タンッ。
その一音だけで、浅葱にも分かった。
ドリブルの質が別次元だった。
リズム。重心。指先の吸いつき。全部が違う。
「……なんだ、それ」
蓮が初めて警戒を見せる。
紫苑は笑う。
「来いよ」
挑発だった。露骨なほど。
蓮の眉が動く。
次の瞬間、蓮が踏み込んでくる。
速い。さっきまでとは比べ物にならない。
だが――。
紫苑は動かなかった。ギリギリまで引きつける。
一歩。半歩。
蓮がボールを奪った――そう見えた瞬間。
紫苑の身体が消えた。
「――は?」
蓮の横を、風みたいに抜ける。
浅葱は息を呑んだ。
速い。
違う。速いだけじゃない。“重心”が見えない。
動きが滑らかすぎる。紫苑は手元を見ずにボールを操る。
ターン。そのまま、滑るようにゴール下へ。
レイアップ。ネットが鳴る。
静寂。誰も声を出せない。
蓮だけが、ゆっくり振り返る。
その目が変わっていた。完全に。
紫苑はニヤつく。
「おいおい」
浅葱の顔で、獰猛に笑った。
「今ので抜かれんのかよ。日本、レベル落ちたな」
ざわり、と空気が揺れる。
蓮の目が細くなる。怒りを見せた。
浅葱にも分かった。だが、紫苑は楽しそうだった。
「次だ」
蓮にボールを回す。
その仕草一つで、周囲の温度が変わる。
浅葱は呆然と見ていた。
これが。
これが、NBAに行った人間。
「……もう一本」
蓮が低く言った。
空気が変わる。さっきまでの余裕が消えていた。
周囲も黙る。スマホを構えたまま誰も喋らない。
紫苑は肩を回した。
「いい目になったな」
浅葱の身体なのに、立ち姿がまるで違う。
重心が低い。視線が鋭い。
コート全体を支配しているみたいだった。
蓮がボールを持つ。今度は最初から本気だった。
鋭いドリブル。細かなフェイク。一気に加速。
浅葱ですら、見失いそうになる。
だが紫苑は動じない。
「浅ぇ」
一歩。踏み込む。
蓮がクロスオーバー。
紫苑は逆方向へ滑った。完全に読んでいる。
「っ!」
蓮が強引に身体をぶつける。高校一年とは思えない当たり。
浅葱なら吹き飛んでいた。だが紫苑は耐えた。むしろ笑う。
「軽ぃ」
次の瞬間。
バチンッ!
ボールが弾けた。
スティール。
歓声が爆発する。
ボールを奪った紫苑は一気に加速した。
速すぎる。
浅葱の身体とは思えない。床を蹴る音が、一歩ごとに鋭い。
蓮が追う。だが差が縮まらない。
「うそだろ……」
誰かが呟く。
紫苑はゴール下で急停止した。
身体が沈む。
次の瞬間、跳んだ。
浅葱は目を見開く。
高い――。
自分の身体が、こんなに跳べるなんて知らなかった。
空中で、紫苑が笑う。
「いい身体じゃねぇか」
叩き込む。
――ダンッ!!
リングが揺れた。
会場が静まり返る。一拍遅れて、歓声が爆発した。
「えっぐ!?」
「誰だアイツ!?」
「二宮抜いた!?」
スマホのカメラが一斉に向く。
蓮はリング下で止まっていた。汗が頬を伝う。視線だけが、紫苑を射抜いている。
「……お前」
その声には、確かな違和感が混じっていた。
「誰だ」
浅葱の身体を使ったまま紫苑は笑ったのみ。
「さっきまでと別人だ」
周囲がざわつく。
浅葱は外側からそれを見ていた。
自分の身体。自分の声。なのに完全に他人だった。
恐ろしいくらい自然に、紫苑は浅葱を使いこなしている。その事実に少しだけ寒気がする。
紫苑はボールを回した。
「続けるか?」
挑発。蓮の目が鋭くなる。
だが次の瞬間、浅葱の身体がぐらりと揺れた。
視界が歪む。
紫苑が舌打ちする。
「……チッ」
浅葱は気づく。
息が上がっていた。肩が大きく上下している。筋肉が悲鳴を上げていた。
紫苑ほどの動きに身体が耐えられていない。
「もう限界かよ」
紫苑が不満そうに呟く。
蓮の眉が動く。
「……?」
「今日はここまでだ」
「待て」
蓮が即座に言う。
「お前――」
その瞬間、視界が引き戻された。
落ちる。そんな感覚。
浅葱は自分の身体に叩き戻された。
膝が崩れる。
「っ……!」
息が苦しい。心臓が暴れている。汗が一気に吹き出した。指先が震える。
まともに立てない。
周囲の音が遠い。紫苑の声だけが聞こえる。
「お前の身体が俺にまだ馴染んでねぇんだよ」
浅葱は荒い呼吸のまま顔を上げた。
紫苑はもう自分の横に戻っている。いつの間にか、半透明の姿に戻っていた。
コートの空気は変わってしまっていた。
全員が浅葱を見ている。さっきまでのただの一般人を見る目じゃない。
特に蓮だった。真っ直ぐ浅葱だけを見ている。獲物を見つけたみたいな目。
「……次」
蓮が静かに言う。
「次は、ちゃんとやろうぜ」
浅葱は何も返せなかった。
ただ、胸の奥だけがさっきまでとは違う熱を持ち始めていた。




