死んだNBA選手
放課後の体育館は静かだった。
窓の外は、もう薄暗い。
西日だけが床を細長く照らしていて、ボールの転がる音がやけに大きく響く。
一条浅葱は、フリースローラインの少し前で、ぎこちないフォームのままシュートを打った。
ボールはリングに弾かれ、乾いた音を立てて床を転がる。
「フォーム、終わってんな」
突然、後ろから声がした。
浅葱は肩を跳ねさせる。振り返る。誰もいない。
「下だ、下」
低い声。
視線を落とす。ステージ脇の段差に、男が座っていた。
二十代半ばくらい。
黒いパーカー。無造作の黒髪。百九十センチはあるだろう長身。
初対面なのに、なぜか最初から空気を支配しているような男だった。
「誰ですか……?」
「それ、こっちの台詞だろ」
男は呆れたように笑う。
「今どき、そのシュートフォームでよくリング届くな」
浅葱は眉を寄せた。
いつ入ってきたのか分からない。
顧問もいない時間だ。外部の人間が勝手に入れるはずがない。
「……関係ないですよね」
ボールを拾って帰ろうとした。
男が立ち上がる。
その瞬間、浅葱は妙な違和感を覚えた。
靴音がしない。
「おい」
男が手を差し出す。
「ボール貸せ」
「嫌です」
「即答かよ」
男は鼻で笑った。
「つまんねぇ奴」
そう言いながら、浅葱の横を通り過ぎる。肩がぶつかる。――感触がない。
浅葱は目を見開いた。
男の身体が、一瞬だけ透けた。
「……っ!?」
反射的に後ずさる。
男は気だるそうに頭を掻いた。
「やっぱり完全に見えてんのな」
「な、なんだよ……それ……」
「幽霊ってこと」
あまりにも自然に言う。浅葱の思考が止まった。
男はボールを指差す。
「だから貸せって」
「い、いや……幽霊って……」
「証明してやろうか?」
次の瞬間、男の姿が消えた。
「は?」
耳元で声。
「遅ぇ」
振り向く。男はリング下にいた。
ありえない。瞬間移動みたいだった。
浅葱は息を呑む。
男はニヤついた。
「ま、普通は腰抜かすわな」
「……誰なんですか」
「千石紫苑」
男は当然みたいに言った。
「元バスケ選手」
どこかで聞いた名前だった。
浅葱は記憶を探る。ニュース。SNS。スポーツ番組。
確か――。
「……NBAの……?」
「おう」
紫苑は笑う。傲慢なくらい自然に。
「まあ、日本じゃそこそこ有名」
そこそこ。NBA選手が言う台詞じゃない。
浅葱は呆然とした。
「なんで、幽霊に……」
「知らねぇ」
その瞬間だけ、紫苑の笑みが少し薄れた。
「気づいたら死んでた」
体育館に沈黙が落ちる。窓の外から、遠くの車の音だけが聞こえた。
「名前も覚えてる。バスケも覚えてる。でも、死んだ理由だけ思い出せねぇ」
その言い方だけ、妙に温度が低かった。
浅葱は言葉を失う。だが紫苑は、すぐに空気を切り替える。
「で、お前」
指を向ける。
「名前は?」
「……一条浅葱」
「浅葱ね」
紫苑は浅葱を見下ろした。視線が鋭い。観察されている感覚。
「身長は悪くねぇ」
「は?」
「反応も速い。肩も柔らかい」
プロが選手を見る目だった。
「でも致命的にビビりだな」
浅葱は顔をしかめる。
「別に、バスケ上手くないし……」
「違う」
紫苑が遮った。
「お前、“逃げる癖”ついてる」
心臓が嫌な跳ね方をした。
図星だった。浅葱は視線を逸らす。
紫苑は鼻で笑う。
「ま、いいや。暇だし遊んでやる」
「は?」
「行くぞ」
「どこに」
「決まってんだろ」
紫苑はニヤリと笑った。
「コートだよ」
*
夜のストリートコートは騒がしかった。
高架下の広場。フェンスに囲まれたコートの周囲には、思った以上に人が集まっている。
歓声。スニーカーの摩擦音。スマホのカメラ。汗と夜風の匂いが混ざって、空気が妙に熱かった。
浅葱は居心地悪そうに立ち尽くす。
「なんで僕が……」
「いいから見とけ」
紫苑はフェンスに寄りかかった。
視線の先。コート中央では、一人の少年がプレイしていた。
黒髪。鋭い目。長い手足。
騒いではいないのに、自然と周囲の視線を集めている。
ドリブルが低い。速い。ボールが身体の一部みたいに吸いついていた。
「……うま」
思わず漏れる。
紫苑が笑った。
「ま、同年代じゃ抜けてるな」
少年が一気に踏み込む。
一人抜く。もう一人の横をすり抜け、そのままリングへ。
跳躍。
――ダンッ!!
片手ダンク。
歓声が爆発した。
「さすが二宮!」
「蓮、もう一本!」
「えぐっ!」
二宮蓮。
その名前だけは、浅葱も知っていた。
高校一年。世代最強候補。U世代代表候補。
SNSでもよく流れてくる有名人だ。
同い年なのに、住んでる世界が違うと思っていた。
その蓮が、ふと浅葱を見た。視線が合う。
「……誰?」
空気が少し止まる。
浅葱は反射的に目を逸らした。だが、隣で紫苑が笑う。
「面白ぇ」
嫌な予感がした。
紫苑が言う。
「浅葱。アイツと1on1しろ」
「はぁ!?」
浅葱は素っ頓狂な声を上げた。
「無理だよ!」
「なんで」
「相手、二宮蓮だよ!?」
「だからだろ」
紫苑は退屈そうに言う。
「強ぇ奴とやんなきゃ、面白くねぇ」
「僕は面白くなくていい!」
「つまんねぇ人生送ってんな」
ぐさりと刺さる。浅葱が言い返せずにいると、コートの方から声が飛んだ。
「……さっきから一人で何言ってんの?」
二宮蓮だった。
やはり、紫苑の声と姿は浅葱にしか分からないのだ。
周囲の視線が一気に集まる。浅葱は固まった。
蓮はボールを抱えたまま、こちらを見る。
汗で濡れた前髪の奥の目が、思った以上に鋭い。
「俺とやりたいの?」
「いや、違――」
「やる」
紫苑が割り込んだ。浅葱はぎょっとする。
「ちょっ……!」
「黙ってろ」
紫苑は面倒くさそうに言った。
「一回ちゃんとバスケやりゃ、現実見えるだろ」
「なんで僕が!」
「才能ある奴が腐ってんのイラつくんだよ」
浅葱は言葉に詰まる。その間に、周囲が勝手に盛り上がり始めた。
「誰あれ?」
「二宮とやんの?」
「一般人じゃね?」
「身長はあるな」
スマホが向く。最悪だった。今すぐ帰りたい。
蓮は少しだけ興味深そうに浅葱を見ていた。
「いいよ」
その一言で、周囲がどよめく。
蓮はボールを回しながら言った。
「三本勝負で」
浅葱の胃が痛くなる。
紫苑だけが、楽しそうに笑っていた。
「終わった……」
コートに立ちながら浅葱は半分本気でそう思った。
周囲には人だかり。スマホのカメラ。ざわめき。
完全に注目されている。
向かい側では、二宮蓮が軽くボールを回していた。力が抜けている。それなのに、立っているだけで絵になる。
同い年とは思えなかった。
「そんな緊張するなよ」
蓮が言う。
「別に取って食わないし」
周囲が笑う。浅葱はますます縮こまった。
紫苑だけが楽しそうだった。
「ほら、始まるぞ」
「……他人事だと思って」
「他人だしな」
最低だ。
蓮がボールを渡してくる。
「そっちからでいいよ」
完全に格上の余裕だった。
浅葱は震える手でボールを持つ。
どうする。何をすればいい。頭が真っ白だった。
ドリブル。
ぎこちない。蓮が一歩も動かない。完全に舐められていた。
浅葱は思い切って踏み込む。
抜けるわけがない。
そう思った瞬間。
ボールが消えた。
「え」
蓮が奪っていた。
速い。
理解が追いつかない。そのまま一瞬で抜かれる。
レイアップ。一点。歓声。
「うわ、速っ」
「二宮えぐ」
「レベル違ぇ」
浅葱は呆然と立ち尽くした。本当に、何もできなかった。
紫苑がつまらなそうに言う。
「ほら見ろ」
「……だから言ったのに」
「違ぇよ」
紫苑の目が細くなる。
「お前、今ので目はついてってた」
浅葱は顔を上げた。
「……え?」
「普通の初心者なら、何されたかも分かってねぇ」
紫苑は獰猛に笑う。
「やっぱいい身体してる」
嫌な予感がした。
蓮が再びボールを持つ。今度は少しだけ真面目な顔だった。
軽いドリブル。重心が低い。
「次行くよ」
踏み込まれる。
蓮のドリブルが右へ落ちる。
低く、速い。なのに――見えた。
次にボールが跳ねる場所が、なぜか分かった。
気づけば身体が動いていた。
バチンッ!
ボールが弾ける。
会場が静まった。蓮の目が変わる。
浅葱自身が、一番驚いていた。
「……取った?」
紫苑が口角を上げる。
「ほらな」
ざわめきが広がる。
「今の反応した?」
「マジ?」
「偶然じゃね?」
蓮が初めて真顔になる。浅葱を見る目が変わった。
その視線だけで浅葱はまた萎縮しかける。
怖い。無理だ。勝てるわけない。
その瞬間。
紫苑が言った。
「貸せ」
浅葱の呼吸が止まる。
「……え」
「身体」
紫苑が笑う。
「一回、本物見せてやる」




