九十九VS英星館(4) 紫苑降臨
第3Q開始。
九十九ベンチの空気はまだ重かった。
十七点差。英星館相手に、ほぼ致命傷。
犬飼が小さく息を吐く。
「……せめて一桁にはしたいな」
三浦は無言だった。タオルを頭から被ったまま苛立ちを隠していない。
そんな中。
「貸せ」
隣から声。紫苑だった。
浅葱は小さく息を呑む。
「……本当にやるの」
「当たり前だろ」
紫苑は口の片端を吊り上げた。
「こんな面白ぇ相手、見てるだけとか損じゃねぇか」
浅葱は少し迷った。でも。
コートを見る。二宮蓮。英星館。
あの洗練されたプレー。悔しかった。勝ちたいと思った。
「……一回だけ」
「十分だ」
気づけば、世界が反転していた。浅葱の意識は、ふっと遠のいていく。
身体が急激に軽くなる。浮遊感。
そして、浅葱は自分の身体を外側から見ていた。
浅葱の肉体の中で、紫苑が目を開ける。
「……さーて、遊ぶか」
紫苑は、小さく吐き捨てる。
誰も気づかない。九十九のベンチも。英星館の選手も。
まだ。
*
英星館のオフェンスから始まった。
英星館の二年生ガードがボールを持ち、味方へ展開する。いつも通りの流れだった。
次の瞬間。
出したパスは、途中で消えた。
「――っ?」
誰も追えていない。
紫苑が、そのパスコースに割り込んでいた。
手が伸びる。迷いがない。
ボールを掠め取る。
英星館側が反応する頃には、もう遅い。
紫苑が加速していた。
速い。いや、“速すぎる”。
一歩目。踏み込み。重心移動。
コートを疾風のように駆け抜ける。
誰も追いつけない。
観客も、まだ何が起きたか分かっていない。
そのままゴール下。
跳ぶ。まずは軽くレイアップ。
ネットが鳴った。
静寂。
一拍遅れて、ようやく歓声が響き渡った。
「……は?」
「今の何!?」
「え、スティールした!?」
ざわめきが一気に広がる。
浅葱の身体で紫苑は着地する。
振り返る。獣みたいに笑った。
その顔が、浅葱のものだと誰もすぐには結びつけられない。
だが。
三浦は、コートの端で目を細めた。
「……来たか」
小さく呟く。
その横で蓮も静かに顔を上げていた。目だけが鋭い。
何かが切り替わる音が、確かに聞こえた。
*
九十九の攻撃。
今度は紫苑がボールを運ぶ。
浅葱の身体なのに、その立ち姿だけで空気が違った。
余裕がある。ゆっくりだ。
目の前のディフェンスが構える。
紫苑は一度だけ、別方向を見た。
そして。
ボールを背中に回してパスを繰り出した。
蓮がさっき見せた背面パス。
それを彼よりも、鮮やかに、正確に。
「――っ!」
蓮の目が驚愕に開く。
犬飼の手元へ、 完璧な軌道でボールが収まっていた。
「え、マジ!?」
犬飼が反射的に受ける。
英星館のディフェンスが一瞬、犬飼へ寄る。
その隙。
紫苑はもうペイントエリアへ駆け上がっていた。
一拍遅れて状況を理解した犬飼がボールを上げた。
ふわりとしたパス。タイミングはほぼ完璧だった。
そこへ――紫苑が跳ぶ。
浅葱の身体なのに、異様に流麗だった。
空中捕球。
そのまま、ひねる。
ガンッ!!
リングが揺れた。
一瞬遅れて――。
大歓声が沸き起こる。
「うわああっ!」
「今の綺麗すぎる!」
「誰だよあれ!!」
紫苑は着地したあと、何事もなかったみたいに走り出した。
犬飼が呆然としていた。
「今の決めるの!?」
紫苑は笑う。
「ナイスパス」
「いや絶対お前がおかしいだろ!」
その傍ら、三浦は黙ったまま紫苑を見ている。
その目に、わずかに熱が宿る。
悔しさとも違う。もっと別の感情だった。
*
英星館の次の攻撃。
板倉が外へ開く。持田が中で構える。蓮がボールをさばく。
いつもなら、淡々と点が入る場面だった。
だが。
紫苑は、その全部を見ていた。
「甘ぇ」
ぼそっと呟く。
蓮の視線が外へ流れた。
そこへ合わせるように、紫苑が動く。
パスが出る。
だが、届かない。紫苑が手を伸ばしていた。
ぎりぎりの位置から、ボールを弾く。
そしてそのまま、一人で走る。
板倉が反応して追う。もう遅い。
紫苑はそのまま、中央の線を越えたあたりで急停止した。
そして。
信じられない距離から、ジャンプシュートを放つ。
「なっ――」
板倉が唖然とする。彼の射程より、さらに遠い。
ほぼハーフライン。
誰もが「入るわけがない」と思った。
高い軌道。長い滞空。全員がボールを見る。
ーーシュ。
ネットだけが強く鳴った。
一瞬、体育館が凍る。
次の瞬間。
「うおおおっ!?」
歓声が爆発する。
「今の距離で!?」
「ハーフラインから入ったぞ!!」
黄色い歓声も悲鳴も混じる。
板倉が言葉を失う。
自分の武器。自分の距離。それをさらに異常な形で返された。
次の攻撃。
今度は持田だった。
ポストで受ける。独特のステップ。
一歩目が遅い。なのに、気づけばもう中にいる。
フェイク。ターン。逆ステップ。フック。
綺麗だった。完成されていた。
持田が得点した。
その直後、紫苑が口を開く。
「それ、面白ぇな」
次の九十九の攻撃。
紫苑がボールを受ける。
独特のステップ。ターン。逆ステップ。フック。
同じだった。――いや、同じじゃない。
もっと滑らかで、もっと速く、もっと嫌な位置に入っていく。
得点され、持田の顔が変わる。
「……っ!」
紫苑の再現は上位互換だった。相手の武器を、いとも簡単に奪い取る。
英星館のベンチが、本格的にざわつき始める。
*
そして。
蓮が動く。コートの空気が変わった。
紫苑も、その気配に気づく。
蓮がトップでボールを受ける。前へ出る。正確に、無駄なく。
眼前で紫苑が構えた。
「よぅ、優等生」
その顔は楽しそうだった。
一対一。
観客席が息を止めた。九十九ベンチも英星館ベンチも。
蓮が踏み込む。速い。
だが、紫苑も速い。
蓮のドライブに、紫苑がぴたりとつく。
切り返し。クロスオーバー。
蓮が抜く。そう見えた。
しかし紫苑は、その一歩先を読んでいた。
身体をずらす。コースを消す。
蓮の洗練された動き。紫苑の暴力的な即応。どちらも完成度が高い。
体育館がどよめく。
「二宮を止めてる……!」
三浦は眉を寄せ、犬飼は完全に引いていた。
「いや、マジで誰なんだよアイツ……」
熊谷は黙っていた。目だけが鋭い。
紫苑と蓮。最初は互角に見えた。だが――。
蓮が跳ぶ。
ミドルシュート。綺麗なフォーム。
紫苑も跳んだ。高く、長く。
そして。
バァンッ!!
ブロック。
ボールが吹き飛ぶ。
体育館が静寂に包まれる。
蓮が着地する。
「……っ!」
蓮の目が見開かれる。冷静だったその顔に、初めて揺らぎが出た。
「まあ、悪くはねぇよ」
紫苑が笑った。浅葱の顔で不遜に、獰猛に。
*
観客席。
朝比奈雫は、言葉を失っていた。
雫は知っている。一条浅葱を。
気弱で、目立たなくて、すぐ逃げる奴。
なのに今コートにいるそれは、まるで別人だった。
全部違う。浅葱のはずなのに、立ち方も、走り方も、笑い方も。
「……浅葱」
声が漏れる。
少し怖かった。でも、目が離せない。
第3Q残り三分。
九十九 59 ― 60 英星館
ほぼ同点。
なのに。
体育館はもう歓声だけではなかった。半ば静まり始めていた。
理解したからだ。
今コートにいるのが、普通の選手ではないと。高校バスケに、規格外の異物が混じっている。
しかし、誰も彼から目が離せなかった。




