喧噪の始まり
過去を遡っている暇などない。そう叱咤されている気がした。
「これは予言か?いや。わたしは、非科学的なことは信じない。落ち着け」
酒の匂いと吐しゃ物の香ばしい匂いが朝露と共に鼻腔を突く。
「シャンパーニュ、赤ワインに、果実酒‥‥雑穀酒‥‥つまみは、油で揚げた芋‥‥朝から悍ましい光景だ」
さきほどまでエドガーが回想していた中に登場する幼く素直な王子はもういない。あれから時が流れ、20歳を前にした成人男性に成長した国の王子は、お忍び用の質素な服をどろどろになるまで着潰し遊び歩きくたくたになった体を地面にこすりつけている。
「ちゅめたくて‥‥気持ちいー‥‥」
酒で火照った体温を冷ましているのだろうか。芋虫のように体をよじりながら地面をうにうに蠢く一国の王子の姿に、エドガーの眉間に盛大な量の皺が寄る。
「わたしがいなくなってから、城で何が起きているのやら」
不穏な噂は聞き入れていた。自分がいなくなってからというもの、城内の秩序が変わり、王と王子の派閥が割れ、支持する家臣たちの大移動があったという。
そして、民衆による選抜によって貴族に成り上がった一般市民が、民の代表として城内に入り込んで共闘勢力となり、次期王座を狙うべく覇権を築き始めたという話だ。
「王子の座を奪いたいがために彼を引き摺り下ろす勢力も出てくる。まぁ、それを守るのが王の役目であるはずなのだが‥‥」
「バカ王子の襲来でしたか。ヤードに通報を?」
いつの間にか隣に居並びながら冷めた眼つきで王子を見下げているアルフレッドに、エドガーは視線で一整した。
「この醜態を公にできるわけがないだろ。まずは王に‥‥」
突然コツコツと、質のいい革靴が地を踏みしめ進む音が聞こえた。不穏な空気を察し一瞥する。アルフレッドに冷ややかな視線を向けられたエドガーが、やや呆れた面持ちで足音の主を見やると。
「おはよう、諸君。清々しい朝だね」
オフホワイトの上質な張の羅に身を包み、穏やかな日差しを浴びた金髪が光を帯びながらキラキラと瞬いている。さながら絵本の王子様のような出で立ちの男は、エドガーの足元でむにゃむにゃと口を動かす男を見るなり様子を変え。
「おや。この酒と汗まみれの汚らしい男は?きみの邸の使用人かい?」
軽蔑の視線で眺めまわしながらぴかぴかの靴先で腹をこつこつ突き、不機嫌そうに口を尖らせる。幼い頃から変わってないな。揶揄る気持ちを押し戻したエドガーは、敬愛を示すための拳を胸に当てつつ。
「良くご覧ください。目の前で石ころのように転がっているこの男は、あなたの弟君ですよ、陛下」
「おや。ほんとうだ。よく見れば、わが愚弟ヒルメスだね」
奥歯を噛みしめながら苦苦し気に小突き続ける。めり込む靴先を制止したのはステッキの柄だった。竜の頭を象った彫像でディルハルトの靴先を押し戻したエドガーは、不満げな自国の王に向かってため息をつく。
「ディルハルト陛下。これは一体どういうことですか」
「これって?王子がなぜ、きみの邸の前に転がってるかってこと?」
「そうです」
「ぼくが捨て置いたんだよ。街中で泥酔して市民に管を巻いていたから」
なぜ城ではないんだと喉奥から出かかっていたが、ディルハルトの顔色が不穏に染まり始めたのを見て押し殺す。そう出ると思った。言わんばかりの満面の笑みのディルハルトがヒルメスの顔を覗きこむ。
「あれ?おかしくない?ぼくたちが知っているヒルメスの顔に似ても似つかない酷い人相をしている気がするんだけど?」
同意を求めるようにアルフレッドへと視線を向け発言を促すが、応えることなく、目の前で見事に咲き誇っている花のアーチから目を離さないまま。
「恐れながら。360度どの角度から見ても、10次元、11次元、26次元から観察しても、ヒルメス様だとお見受けいたします」
「そうか。なら、仕方ない」
興が醒めたと言わんばかりに吐き捨てた。ディルハルトは平淡な目でエドガーに詰め寄る。
「城に戻せば、ヒルメスが殺される」
「‥‥どういうことだ?」
「王統国家を崩し、選民国家に作り上げようとする思想が強まっていてね。ヒルメスの座が狙われている」
「なぜ?おまえが王位にいる限り、ヒルメスが次期王であることは必至だろ?王子の座を奪って何になる?」
「ヒルメスの出生を知られた。いずれ国民にも知れ渡るだろう」
「・・・・・」
足元ですやすやと寝息を立てるヒルメスの顔を眺めるエドガーの喉奥に苦味が広がる。
「母上が外で作った子供だと知られれば、王位継承権がひっくり返り、王権制度そのものの正当性が疑われ、ぼくもヒルメスも迫害される。しかも、こいつの父親が竜の末裔だと知られれば‥‥」
「おい。それ以上口走るのは辞めろ。使用人の目がある」
エドガーから険し気な視線を注がれてもめげもしないディルハルトは、いつの間にか背後で控えていた使用人に合図を送ると、満面の笑みを浮かべ。
「エリオン宰相ときみは、仲が良かったよね?」
「‥‥(小声)良いわけないだろうがっっ」
「ん?何か言った?」
「いいえ、なんでもございません」
肩を怒らせるエドガーの目の前に現れた男は、長い深緑の髪と同色の大きな瞳で訝し気に凝視した。モノクルメガネのレンズ右目に掲げる持ちながら、値踏みするようにエドガーを観察したあと。
「お久しぶりだね。エドガーくん。まだ生きてたんだね」
口端の黒子が愉快気につり上がっている。女のような端正な顔だったと思いだしながら、エドガーが軽い会釈を送った。
「はい。おかげさまで」
「あのね。ここに契約書があるから。サインしてほしいんだよね?」
言いながら羊皮紙を取り出すと、白黒柄の羽ペンをエドガーの手元に差し出した。
「‥‥この書類は?」
「あぁ‥‥陛下?エドガーくんにこの件の事前通告を?」
「するわけがないじゃないか。ぼくは忙しいんだから」
「左様ですか。では、わたしを証人として、陛下自らエドガーくんに勅命を申し伝えていただけると助かるのですが?」
エドガーに向けて促すように手を差し伸べる。エリオン宰相の真剣な面持ちを見たディルハルトは、エドガーに改めて向き直ると。
「エドガー・クレメンツ。きみには、このバカ王子専任の教育係になってもらう」




