電話が鳴る 第5話
三枝の言葉を聞いて、澪は動かなかった。ただ、唇だけがわずかに震えている。
「……覚えていたんですね」
三枝は答えなかった。
黒瀬が一歩横へ退く。まるで、二人の会話を邪魔しないように。
透は三枝を見つめた。去年の十一月から行方不明だった男。死んだという噂を聞かされた男。昨日、電話をかけてきた男。そして今、目の前にいる男。
「三枝……お前、本当に生きてるのか?」
「その質問は、少し難しいですね」
「何だよ、それ」
「榊原さんは、死んだ人間を見たことがありますか?」
「ない」
「なら、分からないでしょう」
三枝は笑った。
冗談のような笑い方だった。しかし目は笑っていない。
「僕が生きているかどうかは、あなたが決めることじゃない」
「じゃあ誰が決める?」
「水城さんです」
透は澪を見る。
「どういう意味?」
「……」
澪は答えない。
三枝が続けた。
「明日です」
「何が?」
「約束の日」
「だから、それは何なんだよ」
三枝は透を見た。
「あなたが忘れていることを、全部返す日です」
その瞬間、地下通路の照明が一斉に消えた。
完全な暗闇。透は反射的に澪の腕を掴んだ。
「澪!」
「ここです!」
「三枝は?」
「分かりません!」
足音がした。
一つ。
二つ。
三つ。
誰かが走っている。
「黒瀬さん!」
返事がない。透はスマートフォンのライトを点けた。
白い光が地下通路を照らす。
三枝はいない。黒瀬もいない。残っているのは、透と澪だけだった。
「……消えた?」
「違います」
澪がしゃがみ込む。
「ここを見てください」
床に何かが落ちている。
古い鍵だった。小さな札がついている。
17。
「また……」
透が拾い上げる。その瞬間、澪が鍵を奪った。
「これは私が預かります」
「何で?」
「危険だから」
「じゃあ、さっきの三枝の言葉は?」
「忘れてください」
「無理だろ」
透は澪の肩を掴んだ。
「明日って何だ?」
「……」
「俺が何を忘れてる?」
「……」
「三枝は何を知ってる?」
澪は目を閉じた。そして小さく息を吐いた。
「明日、十一月六日です」
「……は?」
透は一瞬、意味が分からなかった。
今日は八月三十一日だ。
「何言ってるんだ?」
「そうですよね」
澪は苦しそうに笑った。
「今は八月です」
「じゃあ──」
「でも、三枝さんにとっては明日が十一月六日なんです」
透は黙った。
「意味が分からない」
「私にも、最初は分かりませんでした」
「最初?」
「去年の十一月六日、三枝さんは私に言ったんです」
澪は鍵を握りしめる。
「『明日になったら、全部終わる』って。それを知るために、私は一年近く待っていました」
透は時計を見る。
午後七時四十三分。地下通路の時計は、なぜか十一時六分を指していた。
「……壊れてる」
「たぶん」
澪が答えた。そのとき、透のスマートフォンが鳴った。
着信だった。画面には非通知の文字。
透は迷うことなく出た。
『榊原さん』
昨日と同じ声。
「三枝?」
『違います』
「じゃあ誰だ」
少し沈黙があった。
『あなた自身です』
透は息を止めた。
『明日の朝、七時二十三分に、駅へ来てください』
「何をすればいい?」
『何もしなくていい』
「じゃあ、何のために?」
電話の向こうで、誰かが笑った。
『あなたが、去年の十一月六日に何をしたのかを見るためです』
電話が切れた。
透は画面を見つめた。そして、通話履歴を確認する。そこには奇妙な表示があった。
発信者──
“榊原透。”
自分の番号だった。
透は顔を上げた。澪は、その画面を見ていた。
「……だから言ったんです」
「何を?」
「雨の日には、記憶が戻るって」
地下通路の天井から、水滴が一つ落ちた。
ポタリ。
透の手の甲に落ちる。その水滴は赤かった。
♢♢♢
赤い水滴が、透の手の甲から落ちた。
床に小さな染みができる。
「……また血だ」
透は指で拭った。しかし、指先には何も付いていない。
「どういうことだよ」
「触らないでください」
澪が言った。
「何を?」
「その水です」
透は足元を見る。
いつの間にか、地下通路の床が濡れていた。雨漏りではない。天井から落ちているわけでもない。床の隙間から、細い水の筋が伸びている。
その先に──一枚の紙があった。
「……あれ」
透が近づく。
紙には日付が書かれていた。
“二〇二五年十一月六日。”
「また同じ日だ」
透が拾い上げる。紙の裏には、時刻が並んでいた。
午後六時四十分。
午後七時十六分。
午後七時二十三分。
午後七時三十一分。
ノートに書かれていた時刻と同じだった。
ただ、一つだけ違う。最後に書かれていた時刻。
“午後七時三十二分。”
その横には名前があった。
──榊原透。
「これ……俺が何をした時間?」
澪は答えない。
「澪」
「……違います」
「何が?」
「その時間に、榊原さんは何もしていません」
「じゃあ何で名前が?」
「名前が書いてあるだけです」
「意味が分からない」
澪は紙を取り上げた。
「これ以上は見ない方がいいです」
「またそれか」
「はい」
「どうして?」
「思い出してしまうからです」
「思い出したら何が起きる?」
澪は黙った。
透は、その沈黙の意味を考えた。そして気づく。
「……澪」
「はい」
「お前、去年の十一月六日からずっと、俺が記憶を取り戻さないようにしてたのか?」
澪の目が揺れた。
答えは、それだけで十分だった。
「何で?」
「約束したからです」
「誰と?」
「三枝さんと」
「何を?」
澪は鍵を握りしめた。
「あなたを守ること」
透は笑った。
「俺から?」
「……はい」
「誰から守るんだよ」
澪は答えなかった。
代わりに、地下通路の奥を見た。
「帰りましょう」
「まだ話は──」
「榊原さん」
澪の声が震えていた。
「今、誰かいます」
透も振り返った。
遠くの暗闇。誰もいない。しかし、音がする。水を踏む音。ゆっくり、こちらへ近づいてくる。
一歩。また一歩。透はスマートフォンのライトを向けた。
「誰だ!」
返事はない。光の届かない場所で、足音だけが止まった。
そして──
「榊原さん」
声がした。聞き覚えのある声。しかし、三枝ではない。黒瀬でもない。澪でもない。それは自分の声だった。
「……俺?」
「違います」
澪が答えた。
「あなたの声です。でも、あなたじゃない」
暗闇から、男が一歩出てきた。
顔は見えない。
濡れたコート。黒い鞄。手に傘。
透は息を呑んだ。
「……あの写真の男」
写真に写っていた人物と同じ服装だった。
男は立ち止まった。そして、傘をゆっくり開いた。黒い布が視界を覆う。その向こうから、声だけが聞こえた。
「七時三十二分です」
透の腕時計を見る。
午後七時三十二分。
「何の時間だ?」
男は答えた。
「あなたが、三枝さんを殺した時間です」
透の心臓が跳ねた。
「違う!」
澪が叫ぶ。
「榊原さんは殺してない!」
男は傘を閉じた。その時、初めて顔が見えた。
透は、その顔を見て──何も言えなくなった。
そこにいたのは、“榊原透自身だった。”
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