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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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電話が鳴る 第4話

 ──黒瀬を信じるな。

 ──澪も。


 二通のメッセージを、透は何度も読み返した。


「……どういうことだよ」


 思わず声が漏れる。

 向かいに座る澪は、画面を見ていた。


「私も?」


「そう書いてある」


「そうですか」


 驚く様子がない。

 それが、かえって透を不安にさせた。


「何か心当たりある?」


「あります」


「あるのかよ」


「でも、言えません」


「どうして?」


 澪は少し考えてから答えた。


「言ったら、榊原さんが思い出してしまうから」


「俺が?」


「はい」


 透は黙った。

 思い出す。その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が痛んだ。

 雨。駅。血のついた傘。そして、誰かの声。


 ──まだ、見ないで。


「……澪」


「はい」


「俺は去年の十一月六日に、何をした?」


 澪は答えなかった。


「俺、三枝に何かしたのか?」


「それは違います」


「じゃあ何をした?」


「三枝さんを見つけました」


「どこで?」


「駅の地下です」


 透の脳裏に、薄暗い階段が浮かんだ。だが、それも一瞬で消えた。


「その後は?」


「榊原さんは、何も覚えていません」


「澪は覚えてるんだろ?」


「全部ではありません」


「何を覚えてる?」


 澪は俯いた。


「榊原さんが、三枝さんに言った言葉だけ」


「何て?」


「……『あなたは、もう帰れない』」


 透の背筋が冷たくなった。

 そんな言葉を自分が言ったとは思えない。


「俺が?」


「はい」


「どういう意味だよ」


「分かりません」


 また、その答え。

 透は苛立った。


「分からないって言うけど、澪は何か知ってるだろ」


「知っています」


「なら話してくれ」


「今は無理です」


「どうして!」


 店内の客がこちらを見る。

 澪は声を落とした。


「……ここでは話せません」


 そのときだった。


 店の窓ガラスに、雨粒が落ち始めた。一滴、二滴。やがて、細かな雨になる。

 澪の顔が強張った。


「帰りましょう」


「なんで?」


「雨が降ってきたからです」


「雨くらい──」


「違います」


 澪は立ち上がった。


「この町では、雨が降ると記憶が戻るんです」


 透は思わず笑った。


「何それ」


「私も信じていませんでした」


「じゃあ──」


「でも、去年の十一月六日から」


 澪は窓の外を見た。


「雨が降るたびに、誰かが何かを思い出しています」


 その言葉を聞いた瞬間、透のスマートフォンが震えた。

 またメッセージ。今度は、登録された名前だった。


 ──三枝恒一。


 本文は短かった。


 ──地下へ。


 透は立ち上がった。


「どこへ行くんです?」


「駅」


「やめてください」


「三枝が呼んでる」


「だからです」


 澪が透の腕を掴んだ。


「三枝さんは、今の榊原さんを呼んでいるんじゃない」


「どういう意味?」


「去年の榊原さんを呼んでいるんです」


 その瞬間、店内の照明が一度だけ消えた。

 真っ暗になり数秒後、明かりが戻った。テーブルの上に、見覚えのないものが置かれていた。黒い傘。透は凍りついた。その柄には、赤黒い染みが残っている。そして傘に、小さな紙が結ばれていた。


 ──思い出したくないなら、開かないで。


 透は紙を見つめた。

 澪は何も言わない。ただ、震える声で呟いた。


「……それ、去年のものです」


「どうして分かる?」


「私が、そこに結んだから」


 透は顔を上げた。


「いつ?」


 澪は答えた。


「去年の十一月六日です」


 そして彼女は、震える指で傘を指した。


「それを持っていたのは──」


 言葉が途切れる。

 透は自分の手を見る。右手に、いつの間にか赤い水滴が一滴落ちていた。


 雨水ではない。その匂いで分かった。これは間違いなく──血だった。


「……どこから?」


 澪が傘を見た。


「触ってません」


「じゃあ、どうして……」


 透は立ち上がった。

 店員が遠くからこちらを見ている。


 しかし、誰も傘を持ってきたところを見ていない。


 そもそも──


「これ、俺たちの席に最初からあった?」


 澪は首を横に振った。


「ありませんでした」


 透は紙を外した。


 ──思い出したくないなら、開かないで。


「開くなって書いてある」


「はい」


「じゃあ開ける」


「榊原さん」


「ここまで来て、今さら怖がっても仕方ないだろ」


 透は傘を開いた。

 だが何もない。ただの黒い傘だった。骨も、布も、普通。

 しかし、内側の柄の付け根に、小さな金属プレートが貼られていた。そこに数字が刻まれている。


 17。


 透の胸がざわついた。


「また十七……」


 澪が傘を覗き込む。


「それ、見覚えがあります」


「本当に?」


「はい」


「どこで?」


「地下通路です」


 澪は店の外を見た。

 雨は、いつの間にか強くなっている。


「駅へ行きましょう」


「地下に?」


「はい」


「でも、三枝からのメッセージは──」


「だからです」


 澪は傘を閉じた。


「地下に行けば、三枝さんが何を残したのか分かるかもしれません」


 二人は駅へ向かった。

 地下通路への階段を下りる。朝とは違い、人影は少ない。蛍光灯が一定の間隔で並んでいる。透は歩きながら、何度も後ろを振り返った。


「誰かついてきてる?」


「いいえ」


「どうして分かる?」


「足音が一つしかないから」


「……一つ?」


「私たちのです」


 透は足を止めた。

 確かに、二人が歩けば、二人分の足音がする。しかし今聞こえるのは──一人分だった。


「澪」


「はい」


「俺たち、今──」


 その瞬間、前方の照明が消えた。

 次の照明も。さらにその先も。暗闇が、こちらへ近づいてくる。


「走って」


 澪が言った。


「え?」


「早く!」


 二人は走った。


 背後で足音が響く。


 タッ、タッ、タッ。


 明らかに二人のものではない。


「誰だ!」


 透が叫ぶ。返事はない。

 足音だけが近づいてくる。

 角を曲がる。すると、そこに古いロッカーが並んでいた。


 十七番。


 朝と同じものだ。


 だが──


「開いてる」


 ロッカー17の扉が、わずかに開いていた。

 透が近づく。


「触らないで!」


 澪が叫んだ。しかし遅かった。

 透が扉を開いた。中には、何もない。ただし、奥の壁に紙が貼られていた。

 透はそれを剥がした。裏側に文字がある。


 ──三枝は、ここには来ていない。


「……何だよ」


 その下に、もう一行。


 ──来たのは、榊原透だ。


 透の手が止まった。


「俺が?」


 さらにその下。


 ──二〇二五年十一月六日 午後七時二十三分。


 その時刻を見た瞬間、透の頭の中で、何かが弾けた。


 地下通路。濡れた床。三枝の声。そして、自分自身の声。


 ──「ここから先は、俺がやる」


 透は壁に手をついた。


「……思い出した」


「何を?」


「俺は、この場所に来た」


 澪が息を呑む。


「そのあと……三枝がいた」


「はい」


「三枝は……」


 透は目を閉じた。

 だが、その先だけがどうしても思い出せない。代わりに、別の記憶が浮かんだ。誰かが言っている。


 ──三枝さんを殺したのは、あなたじゃない。


 透は目を開いた。


「澪」


「はい」


「俺が三枝を殺したんじゃないなら……」


 背後から声がした。


「そういうことです」


 二人が振り返る。

 そこに黒瀬が立っていた。濡れたコート。手には警察手帳。しかし、透が見たのはその顔ではなかった。

 黒瀬の足元。床に落ちた水滴が、赤く染まっている。


「……刑事さん」


 透が呟く。


「どうしてここに?」


 黒瀬は答えなかった。

 ただ、透を見つめている。


「榊原さん」


「はい」


「思い出すのは、まだ早い」


 その言葉を聞いた瞬間、黒瀬の背後から、もう一人の声がした。


「私も、そう思います」


 透は凍りついた。

 忘れていたはずなのに、その声を知っていた。

 絶対に忘れるはずのない声だった。


「……三枝?」


 暗闇の向こうから、男が一歩出てくる。


 三枝恒一だった。


 死んだはずの男が、そこに立っていた。

 そして三枝は、透ではなく──澪を見て言った。


「水城さん。約束の日は、明日ですよ」


 澪の顔から、血の気が引いた。

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