電話が鳴る 第3話
透は、黒瀬の手元から目を離せなかった。
「……それ」
「これですか?」
黒瀬が封筒を少し持ち上げる。
「昨日の夜、三枝さんの自宅から見つかりました」
「三枝の家?」
「正確には、三枝さんが最後に住んでいた部屋です」
透は眉をひそめた。
「どうして警察が今になって?」
「今になって、ではありません」
黒瀬は向かいの席に腰を下ろした。
「昨日、部屋をもう一度調べました」
「何か見つかったんですか?」
「ええ。ただし、奇妙なものが」
黒瀬は封筒をテーブルに置いた。
透の名前。透の筆跡。そして、封筒の右下に小さな数字が書かれていた。
──17。
「……ロッカーと同じだ」
透が呟く。
「そうです」
黒瀬は頷いた。
「だから、あなたに会いに来ました」
「中には?」
「まだ開けていません」
「どうして?」
「あなた宛てですから」
透は封筒を見つめた。
「警察なら開けてもいいんじゃないですか?」
「令状があれば」
黒瀬は淡々と言った。
「しかし、今のところ犯罪性を示すものがない。勝手に開ける理由はありません」
「じゃあ、俺が開けていい?」
「あなたの名前が書いてありますので」
黒瀬は封筒を透の方へ押した。
透はしばらく迷った。そして封を切る。
中に入っていたのは、一枚の写真だった。
古い写真。駅前の風景が写っている。雨の日だった。傘を差してが駅へ入っていく人々。
そして、写真の中央。そこに三枝が立っていた。
「これ……」
透は息を呑んだ。
三枝は駅の時計を見ている。時刻は午後七時二十三分。
去年の十一月六日。ノートに書かれていた時刻と一致する。
「この写真、いつ撮ったものですか?」
「裏を見てください」
透は写真を裏返した。
そこには日付と、もう一つの名前が書かれていた。
──十一月六日。
──榊原透。
「……俺?」
「そうです」
「俺が撮ったの?」
「それは分かりません」
黒瀬は答えた。
「写真は三枝さんの部屋にありました。ただ、カメラは見つかっていません」
透は写真をもう一度表に返した。
三枝の少し後ろ。駅の入口。そこに、もう一人いる。傘を差しているため顔は見えない。しかし、その人物の服装には見覚えがあった。
濃い色のコート。左手に黒い鞄。
「……これ」
「誰です?」
黒瀬が尋ねる。
「私です」
澪が言った。
透は振り返った。
「え?」
「その写真に写っているのは、私です」
澪は写真を見つめていた。
「十一月六日、私は駅にいました」
「どうして?」
「三枝さんを待っていたからです」
「何のために?」
「……あなたを迎えに行くために」
透は言葉を失った。
黒瀬が静かに尋ねる。
「水城さん。あの日、榊原さんと一緒にいましたか?」
「はい」
「何時頃まで?」
澪は答えなかった。代わりに透を見る。
「覚えてないんですよね?」
「……何を?」
「あの日のこと」
透の胸がざわついた。
黒瀬が写真を受け取る。
「実は、この写真には妙な点があります」
「どこですか?」
「三枝さんの影です」
黒瀬が写真を指差した。街灯に照らされた三枝の足元。確かに影がある。
だが──
「影の向きが、おかしい」
透は写真を凝視した。
街灯は三枝の右後方にある。なら影は左前方へ伸びるはずだ。ところが写真の影は、三枝の真後ろへ伸びている。
「……これ、加工じゃないんですか?」
「専門家に見せました。加工された形跡はないそうです」
「じゃあ、どういうこと?」
黒瀬は答えなかった。
その代わり、写真の裏側をもう一度確認した。そして眉をひそめる。
「……おかしい。さっきまで、ここに文字はなかったんですが」
透が写真の裏を見る。
そこには確かに。
──十一月六日。
──榊原透。
と書かれていた。
しかし今は、その下にもう一行増えていた。誰も書いているところを見ていない。なのに、そこには新しい文字があった。
──午後七時二十三分、三枝は死んだ。
透は顔を上げた。黒瀬も。澪も。
三人とも、しばらく何も言わなかった。やがて黒瀬が、低い声で言った。
「榊原さん」
「……はい」
「あなたは、本当に昨日の夜まで何も覚えていないんですか?」
透は答えられなかった。
なぜなら、その瞬間、ほんの一瞬だけ去年の十一月六日の記憶が、頭の中に浮かんだからだ。
雨の駅。三枝。澪。そして──自分の手に握られていた、血のついた傘。
透は目を閉じた。だが、次に目を開けたときには、その記憶はもう消えていた。
♢♢♢
「……傘」
透が呟くと、黒瀬が反応した。
「何です?」
「いや……」
透は額を押さえた。
「今、何か思い出した気がして」
「何を?」
「去年の十一月六日。駅で……」
そこまで言って、言葉が止まった。
血。赤い雨。三枝の背中。自分の手。しかし、その先が出てこない。
「傘を持っていました」
澪が言った。
透は顔を上げる。
「俺が?」
「はい」
「何色?」
「黒です」
黒瀬が写真をテーブルに置いた。
「この写真には、傘を持った榊原さんは写っていません」
「……え?」
「写真に写っている時間は午後七時二十三分。あなたがそこにいたなら、どこにいたんです?」
透は答えられなかった。
澪が静かに口を開く。
「駅の反対側です」
「反対側?」
「地下通路の入口」
「どうしてそんなこと知ってるんだ?」
「一緒にいましたから」
「じゃあ、どうして写真に写ってない?」
「……分かりません」
その答えに、黒瀬が小さく息を吐いた。
「三枝さんが失踪したのは十二月十一日です」
「はい」
「でも、我々が調べている限り、最後に三枝さんを見たのは十一月六日です」
透は写真を見る。
「じゃあ、この日に何かあった?」
「その可能性が高い」
「殺人?」
「遺体がないので、断定はできません」
「でも、写真には『死んだ』って……」
「それを書いた人間が誰なのかも分かりません」
黒瀬は写真を封筒へ戻した。
「ただ、ひとつだけ確かなことがあります」
「何ですか?」
「三枝さんは、十一月六日の夜から誰かに尾行されていた」
透は黙った。
「その人物を特定できれば、三枝さんの失踪について何か分かるかもしれません」
「誰だったんです?」
「まだ分かりません」
黒瀬は立ち上がった。
「だから聞きたいんです。榊原さん。あなたは本当に、何も覚えていませんか?」
「……はい」
「なら、思い出したことがあればすぐ連絡してください」
黒瀬が名刺を差し出した。透は受け取る。
そのとき、澪が突然言った。
「黒瀬さん」
「はい?」
「昨日の夜、警察は三枝さんの部屋を調べたんですよね?」
「そうです」
「じゃあ、どうしてそれを持っているんですか?」
澪が透の手元を指差した。そこには黒瀬の名刺があった。
「何を?」
「その名刺」
「普通の名刺ですよ」
「違います」
澪は首を横に振った。
「その名刺、去年のものです」
透は名刺を見た。黒瀬の名前。警察署。電話番号。一見、何もおかしくない。だが、澪は続けた。
「黒瀬さん、去年はその部署にいませんでしたよね?」
黒瀬の表情が変わった。ほんの一瞬。しかし、透には分かった。
「……よく覚えていますね」
黒瀬が言った。
「書庫で本を整理する仕事もありますから」
「なるほど」
黒瀬は名刺を取り返さなかった。
ただ、透を見た。
「これは私の名刺です」
「はい」
「でも、あなたが今持っているものが、いつ作られたものかは……」
そこで言葉を切った。そして突然、黒瀬は笑った。
「いや。失礼しました」
「何が?」
「少し疲れているようです」
黒瀬は店を出ていった。
ドアが閉まる。
透は澪を見る。
「……今の、どう思う?」
「怪しいです」
「やっぱり?」
「はい」
澪は即答した。
そして、黒瀬が置いていったテーブルを見つめる。
「でも、それより。もっとおかしいことがあります」
「何だよ」
「黒瀬さんは、三枝さんの部屋から封筒を見つけたと言いました」
「うん」
「でも、あの封筒」
澪は透の顔を見る。
「昨日、榊原さんが会社で拾った封筒と同じ筆跡でしたよね」
「そうだな」
「なら、どうして黒瀬さんは──」
澪が言いかけたところで、透のスマートフォンが震えた。
新しいメッセージ。送信者は、登録されていない番号。本文は一行だけだった。
──黒瀬を信じるな。
透は画面を見つめた。そして、その直後。もう一通届いた。
──澪も。
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