電話が鳴る 第2話
翌朝。透は、予定より三十分早く駅に着いた。
昨夜のことを夢だったことにしたかった。しかし、スマートフォンには、あのメッセージが残っている。
──明日の朝、駅のコインロッカーを見てください。
問題は、「どのコインロッカー」なのかということだった。駅にはロッカーが三か所ある。改札の外。改札の中。そして、地下通路。
透は腕時計を見る。時刻は午前八時二十分。出勤時間にはまだ余裕がある。
「……全部見るか」
最初に改札の外を調べた。空いているロッカーばかりだ。
次に改札内。ここも何もない。
最後に地下通路へ向かう。そこには古いロッカーが十数個並んでいた。その一番端に、一つだけ鍵が差し込まれていた。
透は立ち止まった。
ロッカー番号は「17」。
鍵には小さな紙が貼られている。そこに書かれていたのは。
──榊原透
だった。
「……俺宛てかよ」
透は周囲を見回した。朝の駅は、人が多い。しかし誰もこちらを見ていない。
鍵を抜きロッカーを開けた。中に入っていたのは、古い紙袋だった。
持ち上げると思ったより軽い。中には、一冊のノート。
黒い表紙。表紙には何も書かれていない。
透はページを開いた。最初のページに、日付があった。
──二〇二五年十一月六日。
去年の木曜日。透はページをめくった。そこには短い文章が並んでいた。誰かの行動記録らしい。
午後四時。駅前の喫茶店。
午後五時半。図書館。
午後六時四十分。出版社。
透の手が止まった。
六時四十分。
三枝が会社に来ていた時間と同じだった。さらに読み進める。
午後七時十六分。駅へ戻る。
午後七時二十分。電話。
午後七時二十三分。雨。
透は眉をひそめた。その日の天気を調べたことはない。だが、覚えている。
あの日は雨だった。
ノートには、まだ続きがあった。
午後七時三十一分──榊原透、帰宅。
「……なんだ、これ」
自分の名前。しかも、自分が会社を出た時刻まで記録されている。
透は急に気味が悪くなった。
ページをめくる。
次の日付。
十一月十三日。
また木曜日だった。
そこにも同じように、三枝の行動らしきものが書かれている。
そして最後に。
午後七時三十一分──榊原透、帰宅。
さらに次。
十一月二十日。
十一月二十七日。
十二月四日。
毎週木曜日。
毎回、同じような記録。そして最後のページだけ、文章が違った。
──十二月十一日。
──三枝は来ない。
──だから、榊原透が来る。
透は息を止めた。
「……俺が?」
その下には、もう一行。
──雨が降ったら、順番が変わる。
意味が分からない。
いや、分からないこと自体よりも、透には気になることがあった。
このノートを書いた人間は、三枝ではない。文字が違う。
では誰が書いたのか。
透は最後のページをもう一度見る。紙の端に、小さな文字があった。
──これを読んでいるなら、三枝はまだ死んでいない。
その瞬間。
「榊原さん?」
背後から声がした。
透は勢いよく振り返った。そこに立っていたのは、水城澪だった。
図書館の司書をしている、透の昔からの知人。
澪は透の手元を見た。
黒いノート。そして、ほんの一瞬だけ表情を変えた。
「……それ、どこで見つけたんですか?」
「ロッカー」
「何番?」
「17番」
澪は黙った。
「どうして?」
透が聞く。
澪は答えなかった。代わりに、ロッカーの番号を見た。
17。
そして小さく呟いた。
「……まだ、開けちゃいけなかったのに」
透は、その言葉を聞き逃さなかった。
「まだ、開けちゃいけなかったって?」
透が聞き返すと、澪はロッカーから目を逸らした。
「……何でもありません」
「いや、今のは何でもないって顔じゃないだろ」
「榊原さん」
澪は声を落とした。
「ここで、そのノートの話をするのはやめましょう」
「どうして?」
「人が多いから」
「だから?」
「聞かれたくない話です」
透は黙った。
澪がこういう言い方をするときは、本当に何かを知っている。学生時代からそうだった。嘘をつくときは、むしろ饒舌になる。
何かを隠しているときだけ、必要以上に短く話す。
「じゃあ、場所を変えよう」
駅を出て、二人は近くの喫茶店へ入った。
朝の店内には数人の客しかいなかった。
窓際の席に座る。
透は黒いノートをテーブルに置いた。
「これ、三枝のもの?」
「違います」
「じゃあ誰の?」
「分かりません」
「嘘だろ」
澪はコーヒーを一口飲んだ。
「分からないんです。本当に」
「でも、十七番のロッカーを知ってた」
「……知ってました」
「このノートの存在も?」
「それも」
「じゃあ、誰が書いたのかは?」
澪は答えなかった。
透はノートを開いた。
「十一月六日。三枝が出版社に来てる。十一月十三日も。二十日も。毎週木曜日」
「はい」
「どうして知ってる?」
「私も見ていたから」
「三枝を?」
「あなたを」
透は顔を上げた。
「……俺?」
澪は静かに頷いた。
「毎週木曜日、あなたは三枝さんの後を追っていました」
「俺が?」
「はい」
「覚えてない」
「そうでしょうね」
澪は窓の外を見た。
「榊原さんは、覚えていないことが多いから」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味です」
透は笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
「俺が三枝を追っていたなら、何のために?」
「それを知るために、ノートを見たんじゃないですか?」
「いや、だから……」
透は言葉を止めた。
ノートの最後の一文。
──これを読んでいるなら、三枝はまだ死んでいない。
「三枝が死んでるって話、澪は知ってるのか?」
「……誰から聞きました?」
「昨日、電話があった」
「誰から?」
「分からない。番号非表示だった」
澪の顔から、わずかに血の気が引いた。
「何て言ってました?」
「三枝を昨日見たって」
「それだけ?」
「三枝は死んでるはずだ、とも」
澪はしばらく黙っていた。
そして、カップを置いた。
「三枝さんは、死んでいません」
透は目を見開いた。
「じゃあ、何なんだよ」
「でも」
澪は続けた。
「三枝さんは、去年の十二月十一日から一度も家に帰っていません」
「……失踪した?」
「はい」
「警察には?」
「届け出は出ています」
「じゃあ、どうして俺は知らない?」
「知っていたからです」
「え?」
「あなたが、警察に届け出を出したんです」
透は固まった。
冗談だと思った。しかし、澪の顔は冗談を言っている顔ではない。
「……俺が?」
「はい」
「そんな記憶ない」
「だから、覚えていないんです」
その言葉を聞いた瞬間、店の入口でベルが鳴った。
二人が振り返る。
雨傘を閉じた男が一人、入ってきた。透は知らない男だった。
男は店内を見回し、こちらを見つけた。そして真っ直ぐ歩いてくる。
「榊原さん」
「……はい?」
男は立ち止まった。
「三枝さんのことで、少しお話があります」
澪が立ち上がった。
「黒瀬さん」
男は警察手帳を見せた。
黒瀬 恒一。
警察署の刑事だった。
「榊原さん。昨日の夜、三枝さんから電話がありませんでしたか?」
透は答えようとして──ふと、気づいた。
黒瀬の右手には、濡れた封筒が握られている。その表には、透の名前が書かれていた。
──榊原透様。
昨夜、会社で拾ったものとまったく同じ筆跡だった。
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