電話が鳴る 第1話
その電話が鳴ったのは、雨が降り始めてから十三分後だった。
榊原透は、窓の外を見ていた。六月の終わり。午後七時を過ぎた町は、雨のせいでいつもより早く夜になっていた。
出版社の編集部には、透しか残っていない。
正確には、もう一人いる。向かいの席に置かれた観葉植物だ。
「……帰るか」
透は独り言を言って、パソコンを閉じた。その瞬間、机の上の固定電話が鳴った。
一度。
二度。
三度。
会社の電話がこの時間に鳴ることは珍しくない。だが、透は受話器を取る前に、少しだけ迷った。画面には番号が表示されていない。
外線なのか内線なのかも分からない。
「はい、榊原です」
受話器の向こうから、雨音が聞こえた。電話なのだから、雨音が聞こえること自体はおかしくない。それでも透は眉をひそめた。
相手は何も言わない。
「もしもし?」
『……榊原さんですか』
「はい」
『三枝さんのことで、聞きたいことがあります』
三枝。その名前に、透は手を止めた。
三枝 恒一。三十一歳。以前、この出版社でアルバイトをしていた男だった。
一年ほど前に辞めている。特別親しかったわけではない。ただ、妙に印象に残る男だった。
理由は簡単だ。三枝は、毎週木曜日になると必ず同じ時間に会社へ来ていた。
午後六時四十分。仕事を辞めた後も、三か月ほど続いた。何をしに来ていたのかと聞いても。
「ちょっと用事があって」
と笑うだけだった。
ある日を境に、来なくなった。
「三枝さんがどうかしましたか?」
透が尋ねると、電話の向こうで小さく息を吸う音がした。
『昨日、三枝さんを見ました』
「……昨日?」
『はい』
「どこでですか?」
『駅の近くです』
透は窓の外を見る。
会社から駅までは歩いて十分ほどだ。
『でも、変なんです』
「何がです?」
『三枝さんは、去年の十一月に亡くなっているはずなんです』
透は黙った。
雨が強くなった。
「……誰が亡くなったって?」
『三枝さんです』
「それは、誰から聞いたんですか?」
『本人から』
「……え?」
『三枝さん本人が、自分は死んだと言ったんです』
意味が分からなかった。
透は受話器を握り直した。
「あなたは、三枝さんと会ったんですか?」
『はい』
「昨日?」
『いいえ』
そこで、相手は少し間を置いた。
『三枝さんに会ったのは、今日です』
透は時計を見た。午後七時十三分。
「……今、何時だと思います?」
『七時十三分です』
「そうじゃなくて」
透は言葉を選んだ。
「あなたが言った“今日”って、いつのことです?」
電話の向こうが静かになった。
そして、『雨が降る前です』そう答えた。
透は、窓の外をもう一度見た。雨が降り始めたのは、十三分前だ。ならば、この電話の相手は──雨が降る前に三枝に会い、その後で電話をかけてきたことになる。
だが、それだけなら何もおかしくない。問題は別にあった。
「……失礼ですが」
透はゆっくり言った。
「あなた、今どこから電話してます?」
返事はなかった。代わりに、受話器の向こうから雨音がした。そして三秒後、電話は切れた。
透はしばらく動かなかった。やがて受話器を置く。そのとき、机の端に置いていたメモが目に入った。
いつ書いたのか覚えていない。そこには、透自身の字でこう書かれていた。
──三枝は、雨の日にしか来ない。
透は、その文字を見つめた。そして初めて気づいた。今日は木曜日だった。
木曜日。
その言葉を見た瞬間、透の中で、古い記憶がひとつだけ浮かび上がった。
去年の秋。三枝が出版社へ来なくなった、最後の木曜日。あの日も雨だった。
「……偶然だろ」
透はそう呟いた。
誰に言ったわけでもない。机の上のメモにも、観葉植物にも。ただ、自分自身を納得させるためだった。
メモを裏返す。裏には何も書かれていない。
透は引き出しからスマートフォンを取り出した。
三枝の連絡先は残っていた。削除する理由がなかっただけだ。
名前を押す。電話番号は、まだ生きているように表示された。透は少し迷ってから、発信ボタンを押した。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
誰も出ない。
四回目で切った。
「……まあ、そうだよな」
三枝が死んでいる。
そんな話は聞いたことがない。だが、考えてみれば、透は三枝と一年近く会っていなかった。知らないうちに何かがあっても不思議ではない。問題は、その話を誰から聞いたのかだった。
透は会社の共有フォルダを開いた。三枝が在籍していた頃の資料を探す。社員名簿。アルバイト名簿。退職者一覧。どれにも三枝の名前はある。
死亡についての記録はない。
そもそも会社が、元アルバイトの死亡を記録することなどないだろう。
透は時計を見た。
七時二十七分。
もう帰ろう。そう思ってパソコンを閉じたときだった。
玄関の方から音がした。
カタン。
誰かがドアを開けた音。
透は顔を上げた。
「……?」
会社の出入口は、編集部から廊下を挟んだ先にある。
照明は消えている。人の気配はない。
透は椅子から立った。
「誰かいるんですか?」
返事はなかった。
ゆっくり廊下へ出る。外から雨の音が聞こえる。入口のガラス扉を見る。鍵は閉まっていた。
「……なんだよ」
透は苦笑した。
風で何かが動いたのだろう。戻ろうとしたところで、足元に白いものが落ちているのに気づいた。
それは封筒だった。会社の封筒ではない。真っ白な、何の印刷もない封筒。表には名前だけが書かれていた。
──榊原透様。
透は拾い上げた。
裏を見る。差出人の名前はない。
封はされていなかった。
「……なんだこれ」
中には、一枚の紙が入っていた。
手書きでたった一行。
──三枝さんを探さないでください。
透は眉をひそめた。
その瞬間、スマートフォンが鳴った。着信表示を見て、息が止まる。
さっき電話をかけたばかりの番号だった。
三枝の番号。透は出なかった。
その間も電話は鳴り続ける。
十秒。
二十秒。
やがて切れた。
そしてすぐに、メッセージが届いた。
画面を開くと、送信者はやはり三枝だった。
本文は一行だけだった。
──明日の朝、駅のコインロッカーを見てください。
透は画面を見つめた。今度こそ、偶然ではない。少なくとも、誰かが自分を三枝の件へ引き込もうとしている。ただ一つ、妙なことがあった。メッセージの送信時刻。それは、三分前だった。透が三枝の番号へ電話をかけるよりも、三分前。つまり──自分が電話をかけることを、このメッセージの送り主は知っていた。
雨音だけが、静かな編集部に響いていた。
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