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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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電話が鳴る 第6話

 そこにいたのは、榊原透だった。

 少なくとも、そう見えた。顔も。背丈も。濡れた髪の癖も。右眉の上にある小さな傷まで同じだった。

 透は、自分の顔を見ている。鏡ではない。鏡なら、こんなふうにこちらへ歩いてくることはない。


「……誰だ」


 自分でも馬鹿げた質問だと思った。

 男は答えない。ただ、透をじっと見ている。


「お前……俺なのか?」


「違う」


 男が言った。

 透とまったく同じ声だった。


「俺は、お前が忘れた方だ」


 澪が一歩前へ出た。


「やめてください」


「水城さん」


 もう一人の透が澪を見る。


「約束は守れましたか?」


「……まだです」


「そうですか」


 男は少し寂しそうに笑った。


「なら、僕が来る必要はなかった」


「何の話?」


 透が割って入る。


「約束って何だ?」


「あなたが知らなくていいことです」


「俺のことだろ!」


 透が叫ぶ。

 男は少しも動じなかった。


「そうですね」


「なら言え」


「言ってしまえば、あなたはまた忘れます」


「何?」


「だから、去年もそうした」


 透は言葉を失った。


「去年も……?」


「十一月六日」


 男は傘を閉じた。


「あなたは三枝さんを殺していません」


 透は息を吐いた。


「じゃあ──」


「殺したのは、あなたです」


「……は?」


「正確には、あなたの記憶が」


 意味が分からない。

 男は続けた。


「三枝さんは死んでいない」


「じゃあ、あの写真は?」


「本物です」


「血のついた傘は?」


「本物です」


「だったら──」


「三枝さんは死んだことになった」


 男の言葉に、澪が目を伏せた。


「死んだことに……?」


「はい」


 透は澪を見る。


「お前、知ってたのか?」


「……知っていました」


「じゃあ三枝はどこにいる?」


 澪は答えない。

 代わりに、もう一人の透が言った。


「明日の朝、七時二十三分に駅へ来てください」


「またそれか」


「そこで三枝さんに会えます」


「なら今会わせろ!」


「できません」


「どうして!」


 男は透を見つめた。


「今のあなたには、まだ早いからです」


「何が早いんだよ!」


「自分が誰なのかを知るには」


 男はそう言って、黒い傘を差した。


「あなたには、まだ一日必要です」


 照明が一つ、消えた。

 また一つ。暗闇がこちらへ近づいてくる。


「待て!」


 透が走り出した。だが、男の姿はもう見えなかった。

 澪が透の腕を掴む。


「追わないで!」


「離せ!」


「駄目です!」


「三枝に会えるんだぞ!」


「違います!」


 澪は叫んだ。


「明日会うのは、三枝さんだけじゃありません!」


 透が止まる。


「……どういう意味?」


 澪は息を整えながら、透を見た。


「去年の十一月六日。あなたは、三枝さんを殺していません。でも、あなたは──」


 澪の声が震える。


「“三枝さんを殺したことにしたんです”」


 透は意味を理解できなかった。

 いや、理解したくなかった。


「誰のために?」


 澪は目を逸らした。


「あなた自身のために」


 その瞬間、地下通路の照明がすべて消えた。真っ暗闇の中。透のスマートフォンだけが光った。


 新しいメッセージ。

 送信者──榊原透。


 本文は一行。


 ──明日、僕を殺してください。


 透は、その一文を何度も読み返した。送信者は、自分。電話番号も、自分のもの。けれど、そんなメッセージを送った覚えはない。


「……どういうことだ」


 澪は画面を見つめたまま、何も言わなかった。


「澪」


「はい」


「説明してくれ」


「……できません」


「またそれか」


「今説明したら、意味がなくなるんです」


「何の意味だよ」


 澪は暗闇の中で、ゆっくり首を横に振った。


「明日になれば分かります」


「明日、明日って……」


 透は苛立ってスマートフォンを握りしめた。

 すると画面がもう一度光った。


 新しいメッセージ。


 ──一人で来てください。


 続けて、三通目。


 ──澪を連れてきたら、三枝は死にます。


「……!」


 透は反射的に澪から離れた。


「何ですか?」


「これ」


 画面を見せる。

 澪は内容を確認すると、静かに目を閉じた。


「やっぱり……」


「何が?」


「予定通りです」


「予定通り?」


「はい」


「誰の予定だよ!」


 透の声が地下通路に響いた。

 澪は答えない。その代わり、ポケットから古い携帯電話を取り出した。


「これを渡しておきます」


「何?」


「去年の十一月六日に、榊原さんが使っていたものです」


「俺の?」


「はい」


 透は受け取って電源を入れる。

 古い機種だった。画面には、写真が一枚保存されている。駅前の写真。昨日見たものと同じだ。だが、こちらには違うものが写っていた。


「……三枝」


 写真の端。三枝の後ろに、もう一人立っている。黒い傘を持った人物。昨日の写真では顔が隠れていた。しかし、この写真でははっきり見える。


 その人物は──透だった。


「これ……いつ撮った?」


「十一月六日、午後七時二十三分です」


「俺が撮ったのか?」


「違います」


「じゃあ誰が?」


 澪は答えなかった。

 透は写真を拡大した。そのとき、もう一つの違和感に気づいた。写真の中の自分は、三枝を見ている。そして三枝も、自分を見ている。二人の間には、数メートルの距離。だが、その二人の足元。影が一つしかない。


「……なんで?」


 透が呟く。


「何がです?」


「影だ」


 澪が画面を見る。

 そして顔を強張らせた。


「見つけましたね」


「何を?」


「この事件の、一番最初の嘘です」


 透は写真から目を離さなかった。


「嘘?」


「はい」


 澪は静かに言った。


「十一月六日の午後七時二十三分に、そこにいた人間は二人じゃありません」


「じゃあ何人?」


「三人です」


 透は写真を凝視した。

 写っているのは三枝と自分。もう一人は、どこにもいない。


「誰がいた?」


 澪はしばらく黙った。

 そして。


「私です」


 と言った。

 透は顔を上げた。


「でも……写真には」


「写っていません」


「どうして?」


「だから、探しているんです」


「誰を?」


 澪は答えた。


「去年の十一月六日に、私を殺した人を」


 透の手から、古い携帯電話が滑り落ちた。

 床に落ちた衝撃で、画面が切り替わる。写真の下に保存されていた、別の一枚が表示された。

 そこには三人が写っていた。


 三枝。

 澪。

 そして透。


 撮影時刻は──


 “午後七時三十二分。”


 写真の中央で、澪が笑っている。その胸には、赤い染みが広がっていた。

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