電話が鳴る 第7話
透は、床に落ちた携帯電話を拾い上げた。
画面に映っている写真から、目を離せない。
三枝。澪。そして、自分。確かに三人いる。しかも、三人ともカメラを見ている。
いや、違う。よく見ると、透だけがカメラを見ていない。透は、澪を見ている。その顔には、笑みがない。
「……この写真」
「はい」
「誰が撮った?」
澪は答えなかった。
「澪」
「分かりません」
「また?」
「本当に分からないんです」
透は写真を拡大した。
三人の背後には、地下通路の壁。
時刻は午後七時三十二分。
澪の胸には赤い染み。だが、血が流れている様子はない。
「これ、血じゃないんじゃないか?」
「……」
「何か塗っただけとか」
「そうかもしれません」
「じゃあ、どうして殺されたなんて言った?」
澪は黙った。
透は画面を見つめる。そこで、また違和感があった。
「……待て」
「何です?」
「俺の服」
写真の中の透は、濃い色のコートを着ている。左手には黒い鞄。そして右手には──傘。
「俺、傘を持ってる」
「はい」
「でも、この写真を撮った時間は七時三十二分だ」
「そうですね」
「俺はさっき、七時三十二分に三枝を殺したって言われた」
「……はい」
「なら、どうして写真を撮った人間は、俺が傘を持っているところを撮れた?」
澪の顔が強張った。
「何が言いたいんですか?」
「俺が三枝を殺したんじゃないなら、写真を撮った人間は誰なんだ?」
澪は答えなかった。透は写真をさらに拡大する。すると、画面の隅に何かが映った。
鏡。
地下通路の壁に設置された、防犯用の小さな鏡だった。その鏡に、撮影者の姿が反射している。
「……いた」
透が呟く。そこには、一人の人物が立っていた。顔は見えない。しかし服装は分かる。濃いコート。黒い鞄。そして──左手に傘。
「この人……」
澪が息を呑んだ。
「榊原さんと同じ服です」
「違う」
透は首を横に振った。
「俺は右手に傘を持ってる」
写真の中の透を見る。撮影者は左手。そして透は右手。
「つまり、同じ服を着た人間が二人いた」
「……そういうことになります」
「誰だ?」
澪は俯いた。
「分かりません」
「嘘だ」
「嘘じゃありません」
「じゃあ、どうしてそんな顔をする?」
澪は答えなかった。
そのとき、古い携帯電話が震えた。
着信。
画面には番号が表示されている。
透自身の番号。
「出ないでください」
澪が言った。
「でも──」
「絶対に」
透は迷った。しかし、電話は鳴り続ける。
一回。二回。三回。そして四回目で、透は通話ボタンを押した。
『もしもし』
自分の声。
昨日聞いた声と同じだった。
『やっと見つけたね』
「誰だ?」
『写真の三人目』
「お前は誰だ」
『それを聞くなら、先に一つだけ答えて』
「何を?」
『今、隣にいる水城澪を──』
声が一瞬途切れる。
そして、
『本当に生きていると思う?』
通話が切れた。
透はゆっくり澪を見る。
「……どういう意味?」
澪は答えない。ただ、ポケットから一枚の紙を取り出した。そこには、去年の新聞記事が印刷されていた。
見出しを読んだ瞬間、透の呼吸が止まる。
──“駅地下通路で女性死亡。身元確認急ぐ。”
日付は、二〇二五年十一月六日。
写真の下には、被害者の名前があった。
“水城澪・二十六歳。”
透は新聞と目の前の澪を交互に見た。
「……これ」
「はい」
澪は静かに言った。
「だから私は、死んでいます」
透は何も言えなかった。すると澪が、ほんの少しだけ笑った。
「でも……死んだ人間が、今ここにいる理由を知りたくありませんか?」
その瞬間、地下通路の奥で、“七時三十三分を告げる時計の音”が鳴った。
時計の音が、地下通路に三度響いた。
七時三十三分。
透は新聞記事から目を離せなかった。
水城澪、二十六歳……死亡。
「……これ、本物なのか?」
「はい」
「新聞社に確認した?」
「する必要はありません」
澪は淡々と言った。
「そこに書かれていることは事実ですから」
「じゃあ、お前は……」
「死んでいます」
あまりにもあっさり言うので、透の方が言葉に詰まった。
「でも、こうして話してる」
「そうですね」
「触れる」
「はい」
「歩ける」
「はい」
「血も出る」
「……それは、去年の写真の話ですね」
透は思い出した。
写真の中の澪の胸にあった赤い染み。
「じゃあ、どうして?」
「それを知るために、私はここにいます」
澪はそう言って、古い携帯電話を指差した。
「去年の十一月六日。私は死にました」
「誰に殺された?」
「分かりません」
「三枝は?」
「生きています」
「黒瀬は?」
「刑事です」
「じゃあ、俺は?」
澪は透を見る。
「榊原さんは、生きています」
「……それだけ?」
「それだけです」
透は頭を抱えた。
「全然分からない」
「分からなくていいんです」
「よくないだろ」
澪は少し笑った。
「でも、一つだけ覚えておいてください」
「何?」
「去年の十一月六日、榊原さんは私を殺していません。そして三枝さんも殺していません」
「じゃあ誰が──」
「それを明日、三枝さん本人に聞いてください」
澪は歩き出した。
「待って」
透も追う。
「明日って、何時?」
「七時二十三分」
「朝?」
「はい」
「どこ?」
「駅です」
「一人で来いってメッセージが──」
「その必要はありません」
澪は振り返った。
「私は、行きますから」
「でも、三枝からは──」
「大丈夫です」
澪が微笑む。
「私はもう、死んでいるんですから」
その言葉が、透には妙に引っかかった。
地下通路を出ると駅前には雨が降っていた。
透は傘を開いた。黒い傘。写真に写ったあの傘だった。柄の根元には「17」の数字。
隣で澪も傘を開く。
「……なあ」
「はい?」
「その新聞、本当に去年のものか?」
「はい」
「じゃあ、今は何年?」
「二〇二六年です」
「なら、お前は死んでから十ヶ月近く経ってる」
「そうですね」
「どうして誰も気づかない?」
澪は少し考えた。
「気づいていますよ」
「誰が?」
「榊原さんが」
透は黙った。
「ずっと気づいていたんです」
「俺が?」
「はい」
「でも覚えてない」
「だから、忘れたんです」
澪は駅前の時計を見た。午前ではない。午後七時三十三分。時計の針が、そこで止まっている。
「……まただ」
透が呟く。
「何が?」
「この時計も七時三十三分で止まってる」
澪は時計を見た。そして、小さく首を傾げた。
「変ですね」
「何が?」
「去年の十一月六日は、七時三十三分に時計が止まったんです」
透は息を止めた。
「駅の時計が?」
「はい」
「どうして知ってる?」
「私は、その瞬間を見ていましたから」
澪は雨の向こうを見る。
「そして、次に時計が動き出したとき──」
言葉を止める。
「何があった?」
澪は答えなかった。代わりに、透の後ろを指差した。
「榊原さん」
「ん?」
「今、誰かがあなたの傘を持っています」
透が振り返る。誰もいない。ただ、数メートル先に人影がある。
黒いコート。黒い鞄。そして──透と同じ黒い傘。
人影はゆっくり歩き出した。駅とは反対方向へ。
「待て!」
透が走り出す。しかし、角を曲がった瞬間、そこには誰もいなかった。足元に、一枚の写真だけが落ちている。
透が拾い裏を見る。そこには新しい文字が書かれていた。
──“水城澪は、二人いる。”
透は顔を上げた。
すると、隣にいたはずの澪が、いなくなっていた。
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