電話が鳴る 第8話
──“水城澪は二人いる。”
にわかには信じられない話だった。俺は言葉の真意が理解できないまま固まっていた。
駅の時計は、七時三十三分を指したまま動かなかった。
いや、正確には、動かなかったのではない。秒針だけが、ほんの少し震えている。まるで、進むべき時間を決めかねているようだった。
「……水城さん?」
返事はない。
さっきまで、確かにそこにいた。新聞を握ったまま、俺の正面に立っていた。そして──死んでいる、と言った。
なのに──いない。
俺はホームへ続く階段を見た。だが誰もいない。続けて地下通路も見た。そこにも誰もいない。ただ、濡れた床に足跡が残っていた。
一人分の足跡。黒い靴の跡が、俺のいる場所から階段へ向かって伸びている。
「……一人分?」
俺はしゃがみ込んだ。足跡は途中で消えていた。階段の三段目。そこから先には、何もない。
その代わり、床に小さな紙片が落ちていた。
拾い上げると、見覚えのある筆跡があった。
──俺の字だ。
『澪を探すな』
その下に、もう一行。
『二人目を見つけろ』
背筋が冷えた。
二人目。写真の裏に書かれていた言葉と同じだ。
『水城澪は、二人いる。』
俺は写真を取り出した。
三人が写っている。
三枝──澪──そして俺。
いや、違う。もう一度、写真を見る。
三枝の右肩の後ろ。そこに、ぼんやりと人影があった。
さっきまで気づかなかった、黒い髪に白いシャツ。そして──澪と同じ顔。
「……二人?」
写真の中の澪は、こちらを見ている。
その後ろにいるもう一人の女は、こちらを見ていない。駅の時計を見ていた。
七時三十三分。
俺は写真を裏返した。
さっきまでなかった、新しい文字が増えていた。赤いインクで、こう書かれている。
『一人目は死んだ。』
その下に。
『二人目は、まだ生きている。』
そして最後に、小さな文字。
『でも、どちらが先だった?』
その瞬間、背後で、靴音がした。
一歩。また一歩。
俺は振り返った。すると、階段の上に女が立っていた。
水城澪だった。
──いや。違う。服が違う。髪型も違う。何より、その女は俺を見るなり、怯えたように後ずさった。
「……榊原さん」
声は同じだった。けれど、今までの澪とは、何かが決定的に違う。
女は震える手で、俺を指差した。
「どうして……まだ、あなたがいるんですか?」
「……俺が?」
「だって、去年の十一月六日に──」
そこで女は言葉を止めた。そして、泣きそうな顔で呟いた。
「あなた、死んだはずでしょう?」
駅の時計が、七時三十四分へ進んだ。
「……俺が、死んだ?」
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。
階段の上にいる女は、ゆっくり首を横に振った。
「違います。あなたが死んだ、という意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味だよ」
「……あなたは、十一月六日の夜に、一度死んでいます」
胸の奥で、また嫌な音が聞こえた。
まただ。また、十一月六日。この日付が出てくるたび、頭の奥に霧がかかる。
俺が階段を上っても、女は逃げなかった。近づいてみると、やはり水城澪と同じ顔だった。
だが、目が違う。さっきまでの澪は、何かを知っている人間の目だった。この女は──何も知らない人間の目をしていた。
「あんた名前は?」
「水城澪です」
「……やはり同じ名前なのか」
「はい」
「じゃあ、あいつは?」
女はしばらく黙ってから答えた。
「あなたが会っていた人も、水城澪です」
頭が混乱する。
「二人とも本物なのか?」
「はい」
即答だった。
「でも、同じ人間ではありません」
女はバッグから一枚の紙を取り出した。古い住民票の写しだった。そこには、同じ住所に二人の『水城澪』が記載されている。
生年月日まで同じ。ただし、続柄だけが違っていた。
一人は──子。もう一人は──
「……同居人?」
俺が読み上げると、女は頷いた。
「姉です」
「姉?」
「私たちは双子です」
そんな話は初めて聞いた。それに、なぜ姉は同居人?
いや。本当に初めてなのか?
胸の奥で、何かが引っかかった。
双子。二人の澪。写真の中の二人。そして、俺自身も二人いる。
「じゃあ、俺が会っていた澪は……」
「姉です」
女は答えた。
「水城澪は、姉と私の二人がいます」
俺は写真を見た。
三枝。姉の澪。俺。そして、その背後にいたもう一人──妹の澪。
では、なぜ俺は妹の存在を知らなかった?
女が静かに言った。
「榊原さん。お願いがあります」
「何?」
「姉を見つけないでください」
「……どうして?」
「姉は、あなたを殺すつもりだからです」
その言葉と同時に、俺の携帯が震えた。
画面を見る。
送信者は──水城澪。
メッセージは一行だけだった。
『妹の言うことを信じないで。』
直後。もう一通。
『あの子は、私を殺した犯人です。』
俺は顔を上げた。
目の前の女は、泣いていた。
「そんな……違います」
震える声。
「私が殺したんじゃない」
そして彼女は、俺の手を強く握った。
「殺したのは──」
そこで、駅の照明がすべて消えた。
暗闇の中で、どこからか三枝の声がした。
「違う……殺されたのは、澪じゃない──榊原透だ」
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