電話が鳴る 第9話
暗闇の中で、俺は息を止めた。
「……三枝?」
返事はなかった。代わりに、隣にいた女の手が強く震えた。
「聞こえましたか?」
「聞こえた」
「今の声……」
「三枝だ」
断言した瞬間、ポケットの中で携帯が鳴った。
着信。
表示された名前は──三枝恒一。
指が動かなかった。
それでも、三度目の呼び出し音が鳴ったところで、俺は電話に出た。
『もしもし』
「三枝……なのか?」
『榊原さん』
間違いない。あの声だった。
『ようやく、ここまで来ましたね』
「お前は生きてるのか?」
少しだけ沈黙があった。
『生きている、という言い方は正しくありません』
「じゃあ何なんだ」
『僕は、あなたが死んだあとに残ったものです』
意味が分からない。
「俺は生きてる」
『ええ。今は』
その一言に、背筋が凍った。
『でも、あなたは去年の十一月六日に一度死んでいます』
さっきの女と同じことを言った。
「何があった?」
『あなたは駅の地下で倒れた』
「誰に殺された?」
『誰にも』
三枝の声が低くなった。
『だから、この事件は難しいんです』
「……どういうことだ」
『犯人がいないからじゃありません。被害者が一人じゃないからです』
電話の向こうで、雨の音がした。
駅の地下にいるはずなのに、俺の足元にも、いつの間にか水滴が落ちている。
ぽつ。
ぽつ。
妹の澪が怯えた顔で天井を見上げた。
「雨……?」
「ここ地下だぞ」
「違います」
彼女は首を振った。
「雨が降っているんじゃない」
そして、俺の足元を指差した。
「上から落ちてきているんです」
見上げるが天井には何もない。なのに、水滴が落ちてくる。
一滴。また一滴。
その水が床に溜まり、黒い文字を浮かび上がらせていく。
『十一月六日 一九:三二』
俺は後ずさった。
「三枝。お前は何を知ってる?」
『全部ではありません』
「なら、知っていることだけ言え」
『分かりました』
三枝は静かに答えた。
『十一月六日に死んだのは、あなたです』
「……」
『そのあと、あなたになった人間が、僕を殺したことにしました』
「俺になった……人間?」
『ええ』
「それは誰だ?」
長い沈黙の後に三枝が言った。
『……あなた自身です』
電話が切れた。同時に、駅の照明が戻った。
そして、俺の隣にいたはずの妹の澪が、消えていた。代わりに床に、一枚の写真が落ちている。
写真には、俺が写っていた。去年の十一月六日。
一九時三二分。
俺は駅の地下で倒れている。その俺を見下ろしている人物が一人。顔は見えない。ただ、その右手には──俺が今持っているのと同じ、黒い傘が握られていた。
写真を握ったまま、俺は自分の右手を見た。
黒い傘、さっきからずっと持っている。柄の部分には、小さな傷がある。三本の線。その傷を見た瞬間、記憶が弾けた。
──十一月六日。
雨。駅の地下。俺は倒れている。誰かが俺を見下ろしている。顔は見えない。けれど、その人間が傘を差し出した。
『これを持っていれば、誰もあなたを見つけられない』
俺は傘を受け取った。
そして──
「……違う」
思わず声が出た。
写真の中の人物が持っている傘と俺が今持っている傘、同じに見える。だが、傷の位置が違う。
写真の傘には、柄の左側に三本の線。今の傘には右側。
「二本ある……?」
そう呟いた瞬間、背後から声がした。
「そうです」
振り返る。
妹の澪が立っていた。
「傘も、二本あります」
「どこにいた?」
「ずっとそこに」
彼女が指差したのは、地下通路の柱の陰だった。
「見えなかっただけです」
「何を隠してる?」
彼女は答えなかった。代わりに、俺の持つ傘を見つめた。
「その傘を開いてください」
「開くなって書いてあったぞ」
「だからです」
意味が分からない。
「開いてはいけないのは、姉が持っていた傘です」
「これは?」
「あなたが持っているのは、別の傘です」
俺はゆっくり傘を開いた。
ぱさり。
黒い布が広がる。内側に、小さな紙が縫い付けられていた。
そこには名前が一つ。
『榊原透』
その下に日付。
『二〇二六年九月八日』
今日の日付だった。
「……なんで」
俺の手が震える。
妹の澪が言った。
「それが、答えです」
「何の?」
「あなたが、いつ死んだのか」
「去年じゃないのか?」
彼女は首を横に振った。
「去年死んだのは、あなたではありません」
「じゃあ誰だ」
「あなたの記憶の中にいる、榊原透です」
その瞬間、携帯が鳴った。今度は着信ではない。留守番電話の通知だった。再生すると、自分の声が流れた。
『もし、この傘を開いているなら、もう時間がありません』
俺は息を呑んだ。
『今日、二〇二六年九月八日』
自分の声が続く。
『この日、僕は初めて死にます』
妹の澪が目を閉じた。
『そして、去年の十一月六日に死んだ僕は──』
そこで音声が途切れた。ザーッというノイズ。その奥から、別の声が混じる。それは女の声だった。
「……違う」
澪の声。だが、今ここにいる澪とは違う。
『死んだのは、榊原透じゃない』
そして最後に。
『死んだのは──この物語を覚えている人間です』
録音が終わった。
俺は写真をもう一度見た。
地下で倒れている俺。その傍らに立つ謎の人物。そして、その人物の足元。そこには、もう一人の人間が倒れていた。今まで、暗くて見えなかった。
白いシャツ。長い髪。胸元に赤い染み。
──水城澪。
だが、その顔は。今、俺の隣にいる澪と同じではなかった。
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