雨の止まない部屋 第3話
あの事件から、二週間が経った。
僕——柊亮のもとに、一通の封筒が届いた。
差出人の名前はない。だが、送り主に心当たりはあった。
「……鷹宮さんか」
封を切る。
中には、手紙と——小さな鍵が入っていた。
手紙は短かった。
「館の解体を始めました。ですが、おかしなことが起きています。雨は止んだはずなのに、“まだ濡れている場所”があるのです。あなたに、もう一度だけ見てほしい」
正直、嫌な予感しかしなかった。だが、放っておく気にもなれなかった。
翌日、僕は再びあの丘の上の洋館へ向かった。館はすでに半分ほど解体されていた。
外壁は剥がされ、骨組みが露出している。
あの異様な静けさは消え、代わりに金属音と作業員の声が響いていた。
だが——
「来てくれましたか」
鷹宮の顔は、以前よりもさらに疲れて見えた。
「何が起きているんです?」
「……見れば分かります」
鷹宮は僕を地下へと案内した。
地下室。
あの遺体が見つかった場所。
今は何もないはずの空間。
だが——
「……これは」
床の一部が、黒く濡れていた。水ではない。
もっと粘度のある、鈍い光を放つ液体。
「触らないでください」
鷹宮が言う。
「作業員の一人が触れて、ひどいことになった」
「ひどいこと?」
「……“思い出した”そうです」
僕は眉をひそめた。
「何を?」
「自分が殺した人間のことを」
空気が重くなる。
「その人は、そんな過去ないはずなんですよ。ただの真面目な作業員だ」
「でも“思い出した”」
「ええ。しかも、詳細に。名前も、場所も、殺し方も」
冗談には聞こえなかった。
「今、その人は?」
「病院です。取り乱して……ずっと同じことを繰り返している」
僕はしゃがみ込み、問題の液体を観察した。
確かに、水ではない。
だが——
「これ、“水のなれの果て”ですね」
「なれの果て?」
「ええ。あの雨が蒸発して、残ったものです」
「水が蒸発して、こんなものが残るはずがない」
「普通はね」
僕は静かに言った。
「でも、あの雨は普通じゃない。“情報”を持った水です」
鷹宮の顔が強張る。
「……まさか」
「はい。この液体には、“死”が溶けています」
そのときだった。
地下の奥から、物音がした。
ギシ、と何かが軋む音。
「今のは……」
「解体作業は上の階のはずです」
つまり——地下には、僕らしかいない。
はずだった。
もう一度、音がする。今度は、はっきりと。
コツン。コツン。
あの音だ。
床下から聞いた、“内側から叩く音”。
僕は立ち上がった。
「行きましょう」
「正気ですか」
「放置した方がまずい」
音のする方へ進む。
地下は迷路のように入り組んでいる。
解体の影響で壁が崩れ、見たことのない通路が露出していた。
その奥。ひときわ暗い空間に辿り着く。
そして——それは、いた。
最初は、人影に見えた。だが、違う。
形が曖昧すぎる。輪郭が揺らいでいる。
まるで——液体が人の形を取っているかのように。
「……なんだ、あれは」
鷹宮の声が震える。
それは、ゆっくりとこちらを向いた。顔のような部分が、わずかに歪む。
そして——
「ミツカッタ」
声がした。
複数の声が重なったような、不気味な響き。
「ミツカッタ。ミツカッタ。ミツカッタ」
僕は息を呑んだ。
これは——
「集まっているんだ」
「何が……」
「“見つけてほしかったもの”が」
あの雨は、ただ死体を繋げるためのものじゃなかった。
もっと根本的な役割があった。
“見つけること”。
隠されたものを、暴くこと。
そして、その過程で——“見つけられなかった死”が、ここに溜まっていった。
「逃げましょう」
僕は低く言った。
「これはもう、手に負えない」
「だが、放置すれば……」
「分かっています。でも——」
そのとき、それが一歩踏み出した。
床に触れた瞬間、黒い液体が広がる。
そして——視界が揺れた。
知らない景色が、頭に流れ込んでくる。
夜の路地。
倒れている男。
誰かの手。
血。
息が詰まる。
「ぐっ……!」
膝が崩れる。
これが、“思い出す”ということか。
自分のものじゃない記憶が、強制的に流れ込んでくる。
横を見ると、鷹宮も同じように苦しんでいた。
「やめろ……!」
だが、それは止まらない。むしろ——近づいてくる。
その瞬間、僕は気づいた。これは攻撃じゃない。
“共有”だ。
自分たちの存在を、知ってほしい。忘れられたくない。
それだけだ。
「……そうか」
僕は歯を食いしばりながら、立ち上がった。
「お前たちは……消えたいんじゃないんだな」
それは、動きを止めた。
「“覚えていてほしい”だけだ」
黒い表面が、わずかに揺れる。
僕は一歩、前に出た。
怖くないわけじゃない。
でも——逃げても終わらない。
「分かった」
僕は言った。
「全部、記録する。名前も、場所も、何があったのかも」
喉が焼けるように痛む。
「だから——もう、これ以上は広がるな」
長い、長い沈黙。
やがて、それは——ゆっくりと崩れた。
黒い液体が床に広がる。だが、さっきまでの不気味な気配はない。
ただの、重い水のようになっていた。頭の中に流れ込んでいた記憶も、止まる。
僕はその場に座り込んだ。
「……終わった、のか」
「ええ。たぶん」
その後、僕は数日かけて、あの地下で感じた“記憶”を書き起こした。
断片的で、完全ではない。だが、確かにそこにあった“誰かの人生”だった。
鷹宮は、その記録をすべて公的機関に提出した。
館は完全に取り壊された。
数ヶ月後。僕は、あの丘だった場所を訪れた。
もう洋館はない。更地になり、草が生え始めている。雨も降っていない。静かな、普通の場所だ——のはずだった。
ふと、足元を見る。地面に、小さな染みがあった。
ほんの一滴分の、暗い跡。
そして——ぽつ。
何もない空から、水が落ちた。ほんの一滴だけ。僕はそれを、しばらく見つめていた。
やがて、ため息をつく。
「……まだ、残ってるのか」
でも、もう分かっている。これは“終わっていない”んじゃない。
ただ——“忘れられていない”だけだ。
帰り道、僕はポケットの中のメモ帳を確かめた。
新しいページを開く。タイトルを書く。
『未解決記録:雨の残響』
そして、こう書き添えた。
「——これは、終わらせてはいけない話だ」
ぽつ。
遠くで、また一滴、音がした気がした。
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