雨の止まない部屋 第4話
最初の“報告”は、ありふれたものだった。
地方の小さな交番から、上がってきた不可解事例。
「屋内で水滴が落ち続ける」
それだけなら、設備不良で片付く。
だが——添えられていた一文が、僕の目を止めた。
「落下位置が時間とともに変化する」
僕は資料を閉じた。
「……来たか」
あの館の件から、三ヶ月。
僕は“雨”に関する記録を個人的に集めていた。
そして今——同じ現象が、別の場所で起きている。
現場は、古いビジネスホテルだった。地方都市の駅前、取り壊し予定の建物。
問題の部屋は、五階の角部屋。鍵は、すでに開けられていた。
「誰も入っていないはずなんですが……」
対応していた警官が困惑した顔で言う。
「音がするんです。中から」
「開けます」
扉を押す。
湿った空気が、流れ出てきた。
そして——
ぽつ。
音がした。同じだ。あの部屋と、まったく同じ。天井から落ちる一滴。ゆっくりと、位置を変える水滴。
そして──床に広がる、わずかに黒ずんだ染み。
「……遅かったか」
僕は小さく呟いた。
「え?」
「いや、こっちの話です」
部屋を調べる。
床、壁、天井。やはり、配管に異常はない。だが、ひとつだけ違う点があった。
「染みの広がり方が、不自然だ」
通常、水は低い方へ流れる。だがこの染みは、何かを避けるように広がっている。
まるで——
「……輪郭をなぞっている」
「輪郭?」
警官が怪訝そうな顔をする。僕は床にチョークで線を引いた。染みの外周をなぞる。やがて——ひとつの形が浮かび上がる。人の形。横たわった、人間のシルエット。
しかも——
「これ、ちょうど“欠けてる”」
「何がです?」
「右腕がない」
空気が、重くなる。
「この部屋、以前に何か事件は?」
「……一件だけ、あります」
警官は渋い顔で言った。
「数年前、宿泊客が行方不明になった。結局、見つかっていません」
「特徴は?」
「男性。右腕に大きな傷跡があった、という証言があります」
僕は目を閉じた。
繋がった。これは模倣じゃない。
“続き”だ。
あの館で起きたことは、そこで終わらなかった。“記録”として外に持ち出された。
僕が。
「……やらかしたな」
思わず声が漏れる。
「何がです?」
「この現象、“知ると広がる”んです」
「は?」
「正確には、“理解すると再現される”」
警官は完全に混乱していた。
無理もない。僕だって、半分は仮説だ。
だが──辻褄は合う。
あの地下で、僕は“記憶”を受け取った。そして、それを文章にした。名前、場所、死の経緯。“形”を与えてしまった。
結果——現象は、再現可能になった。
「これは、感染みたいなものです」
僕は言った。
「情報の形をした“現象”」
「そんな……」
「ただし、媒介は物理じゃない。“認識”です」
部屋を見渡す。
雨は、相変わらず落ちている。だが、その動きは——明らかに早くなっていた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
間隔が詰まる。位置の移動も速い。
まるで——“完成を急いでいる”。
「このままだとまずい」
「どうすればいいんです!」
「未完成のまま、固定するしかない」
「固定?」
「“意味を与えない”ことです」
僕は深く息を吸った。
「これは、解釈すると進行する」
「じゃあ、どうしろと……」
「見ないでください」
「は?」
「見たままを“理解しない”」
自分で言っていて無茶だと思う。
だが、他に手がない。僕は目を閉じた。音だけを聞く。
ぽつ、ぽつ。
位置は分からない。形も、考えない。
ただ——“水が落ちている”という事実だけを受け取る。
時間の感覚が曖昧になる。数分か、数十分か。
やがて——音が、止んだ。
「……終わった、のか?」
恐る恐る目を開ける。天井は、ただの天井だった。
床の染みも——途中で止まっている。
人の形になりきらない、歪な模様のまま。
「……助かった」
警官が崩れるように座り込む。
「今の、何だったんですか……」
僕は少し考えてから答えた。
「“未解決のままにされた死”が、形になろうとしたんです」
「意味が分かりません」
「分からないままでいいです」
僕は苦笑した。
「その方が、安全なので」
外に出る。夕方の空気が、やけに乾いて感じた。
ポケットの中で、メモ帳が重い。
僕は、その夜——初めて迷った。
書くべきか、書かないべきか。記録しなければ、消えていく。だが、記録すれば——広がる。結局、僕は折衷案を選んだ。“断片だけ”を書く。
意味を持たないように、意図的に欠落させる。読んでも理解できない形で。ページの上に、こう記した。
「——これは、完全にしてはいけない」
その時だった。窓に、小さな音がした。
ぽつ。
雨。外を見る。空は晴れている。雲ひとつない。
それなのに——窓ガラスに、一滴だけ水がついていた。
僕は目を細めた。
「……学習してるな」
“部屋”で起きていた現象は、もう部屋に縛られていない。形を変え、条件を変え、少しずつ適応している。
そして、たぶん——次はもっと自然に、もっと気づかれない形で現れる。
僕はメモ帳を閉じた。ペンを置く。
しばらく、何も書かないことにした。だが、その判断が正しかったのかどうか。
それは——まだ、分からない。
ぽつ。
机の上に、何もないはずの場所に、小さな染みが、ひとつだけ残った。
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